プロ野球 OB投手資料ブログ

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金丸久夫

2021-06-21 13:43:21 | 日記

1981年

長野県岡谷市の冬は寒い。諏訪湖に面し、塩尻下ろしが厳しく、震え上がる寒さ。氷点下十数度になることも珍しくない。岡谷工の金丸投手は、この冬の間も新聞を積んだ自転車のハンドルをこごえる手でつかみ、ペダルを踏み続けてきた。白球を握ることが出来なくなる十一月から三月にかけての新聞配達を、高校の三年間休んだことがない。1㍍76、68㌔の体格は、きわだっていいとはいえない。このため、自らに課した試練の自主トレだった。理屈っぽいのが長野県民気質の一つといわれるが、金丸は不言実行タイプ。しかし、粘り強い県民性はちゃんと備えていた。地味な練習の成果を、金丸は一球一球にこめて投げ込んだ。早稲田実の荒木のような、スムーズで華やかな投球ではないが、いかにも高校生らしく、丹念に投げるけれん味のない投法だ。伸びのある直球を主体にカーブ、シュート、スライダー、それにナックルという多彩な変化球を使い、毎回の計15三振を奪う快投。圧巻は、五回から七回にかけて津久見の打席を6連続三振に切って取ったことだった。大西にカーブを右中間三塁打されて2点を失った直後からのことである。回転のない球がフワフワときたと思ったら、ホームプレートの手前でストンと落ちた。打者のバットが空を切り、空振りの三振。このあと、津久見の打者は、初めて見るこのナックルに全く手が出ず、見逃しの三振を重ねた。ナックルボールは、普通なら三本の指をまげて投げるが、金丸のは人差し指と中指の二本をまげて投げる低目のもの。10球ほど投げたこの魔球は、走者のいない時の勝負球に使っているが、これまで打たれたことがないという。ボールを握って練習を繰り返し、本格的にこの球を使うようになったのは、この夏から。予選でテストした魔球は、甲子園にも間に合った。この金丸、昨年の夏は県大会三回戦でコールド負けしている。打つ方でも五回の満塁に三塁打をかっ飛ばして「本当にうれしい」という。短い言葉に万感の思いがこめられていた。岡谷工は、諏訪蚕糸という名だったころの昭和5年、決勝まで進出して広島商に敗れた。金丸たちの目標は、もちろん先輩たちの雪辱を果たすことだ。

1982年

金丸久夫 右投右打 173㌢、69㌔、昭和38年4月6日生まれ。


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