1977年、年俸200万円
・広島を自由契約になっても、好きな野球を辞められずブルペン捕手として、投手陣の調整役を黙々とこなす。
1977年「日本ハム時代」
・「晴れの球宴出場です」といっても、あくまで練習の手伝いだが、オールスターゲーム第3戦「神宮」に参加した藤原捕手。その「日当」を受け取りながら「2人分もらわなきゃ・・・」と苦笑い。というのも、全セの練習要員・荒川捕手「巨人」が遅刻し「普通の選手じゃケガをすると大変だし、何とかセ・リーグの方も手伝ってほしい・・・」と頼まれて、セパ両方のバッティング捕手を務めること約2時間。「倍も仕事したら疲れちゃうよ」とグッタリ顔だった。
・広島を自由契約になっても、好きな野球を辞められずブルペン捕手として、投手陣の調整役を黙々とこなす。
1977年「日本ハム時代」
・「晴れの球宴出場です」といっても、あくまで練習の手伝いだが、オールスターゲーム第3戦「神宮」に参加した藤原捕手。その「日当」を受け取りながら「2人分もらわなきゃ・・・」と苦笑い。というのも、全セの練習要員・荒川捕手「巨人」が遅刻し「普通の選手じゃケガをすると大変だし、何とかセ・リーグの方も手伝ってほしい・・・」と頼まれて、セパ両方のバッティング捕手を務めること約2時間。「倍も仕事したら疲れちゃうよ」とグッタリ顔だった。
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