1972年
一度は失敗したが、何年か後にまた売り直すのをレコード界ではクリーニング歌手という。球界にもこれに似たクリーニング投手がいる。大洋の倉橋寛投手(26)で、高校(仙台育英)を出てすぐ南海に入団。三年でクビ。郷里の仙台でサラリーマンぐらしを三年つづけたが、好きな野球が忘れられずに昨年大洋のテスト入団した変わりダネだ。六月末のイースタン、対東映戦で完封勝ちしていちやく注目され、ようやく長いブランクから立ち直ろうとしている。倉橋にとって記念すべき日となった六月二十四日。イースタンとはいえ、プロ入りして初めて完封勝ちを果したその夜。六畳だけの間借りの家(川崎市・新丸子)に帰った倉橋の朗報を洋子夫人(21)は信じなかった。翌朝スポーツ新聞をみて夫のいうことがほんとうだとわかって、あわててごちそうの買い出しに飛び出したという。甲子園で滝川の芝池(近鉄)と投げ合ったのがただ一つの自慢のタネで、南海時代も二年目にウエスタンで3勝4敗だったというだけの球歴。第二の杉浦を目ざし下手投げ投手も、ほどなくガソリンスタンドの店員、タンク・ローリーの運転手、電機メーカーのサービスセンターの修理員とつぎつぎに変身しなければならなかった。このテレビの修理員のころ、喫茶店でサボりながら、何げなく手にしたスポーツ新聞で大洋のテスト生募集を知った。野球の虫がうずいて、矢もたてもたまらなかった。再スタート一年目の昨年はブランクと体力をとりもどすのでせいいっぱい。だが、ことしはちがう。テストで合格したとき64㌔だった体重がいま69㌔にふえた。キャンプの終わったあたりから多摩川で毎朝つづけたウサギとびとランニングのおかげで、足腰に見違えるような肉がついた。同県人のよしみもあって、倉橋をマークしていた島田コーチは「もともと投手としてのセンスはいい。これだけからだができるとこれからたのしみだ」という。シーズンはじめに宮崎二軍監督から「ことし実績をあげないとクビだぞ」と引導を渡されているから、必死だ。いま、何よりのはげみになっているのは東映・加藤捕手の活躍だ。高校時代バッテリーを組んだ仲で、ともに一度はプロ野球の世界から足を洗った間柄。「あいつがバリバリやっているとうれしくて・・・。ぼくも早く追いつきたいですよ」やはり東北人はねばり強い。