プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

鳥谷元

2014-07-21 20:35:08 | 日記
1965年

・・鳥谷元(はじめ)投手(18)=1㍍78、75㌔、右投右打 筑上中部高 福岡県中津出身

・筑上中部高の四番でエース。その速球とコントロールに定評があり、足も速い。

・同投手は昨年の夏、福岡県予選の二回戦で稲築高戦に登板。捕逸で惜しくも0-1で敗戦投手となったが、上手投げの本格派投手で、速球とドロップに威力がある。

1972年

広島の鳥谷元投手(25)は二日、市内基町の球団事務所に竹内育成部長をたずね「野球に自信がなくなった」と辞表を提出。球団側もこれを受理、任意引退選手として発表した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山本寛

2014-07-21 20:04:37 | 日記
1965年

山本寛投手・・1㍍78、70㌔、左投左打 愛知高

山本は今夏の甲子園大会愛知予選では準決勝で東邦高の北角投手と投げ合い延長十三回で敗れたが、愛知地区では指折りの速球投手。二年生のときには連続6三振をとったこともある。

山本投手「ぼくの一年先輩に金田投手(巨人)の弟の留広さんがいたので、ずっと金田さんにあこがれていた。金田さんのような投手になることがぼくの目標です」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陽田浅吉

2014-07-21 19:54:09 | 日記
1973年

陽田浅吉外野手(25)=1㍍81、82㌔、左投左打、神奈川大出、背番号52。

同選手はノンプロの安打製造機といわれ、ノンプロ生活三年間で百五十試合に出場、三割三分の好打率をマーク。ホームランも二十七本打っており、百㍍12秒3の足もある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下村栄二

2014-07-21 19:18:54 | 日記
・・下村栄二投手 中京商、1㍍72、66㌔ 左投左打 愛知


1967年

カーブが得意で、ウエスタンの火消し役。スピードがほしいが、くふう次第で一軍への道は近い。
ウエスタン1勝0敗


1968年

コントロールがいいことでは定評がある。とくにカーブよく、根本監督も「ワンポイントに使う」予定。
ウエスタン 1勝

1969年

ファームではリリーフ投手として最高の貢献度を示す。努力はしているが、もうひと息。
ウエスタン 2勝2敗
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨野昇

2014-07-21 17:52:50 | 日記
1965年

嵯峨野昇選手・・同選手は東都大学時代から強打を注目され、三十九年卒業と同時に日立製作所入り、四番打者として活躍。今春の選抜都市対抗野球ではアゴに打撲を負いながらも十九打数十一安打と打ちまくり、最高殊勲選手に選ばれ、プロ球団からマークされていた。第二次選択選手として交渉権を得た東京は、白川スカウトが担当、契約金一千万円(推定)を掲示し、獲得した。

嵯峨野選手「学生時代から田丸監督はよく知っており、また大沢コーチも恩師(国学大・大沢監督)の弟さんということで、東京はやりやすい気がする。プロの世界はなんにもわかりませんが、口でいうよりやることが先だと思います」


1966年

キャンプ・インした初日にガチャというアダ名がついた。ノックを受けるとき、スパイクをガチャガチャいわせるような感じで、小マタに走ることから、前田さんがつけたものだ。しかし最近はガチャの意味がかわってきた。ロボットは手や足をガチャガチャいわせ、ギクシャクと歩くが、ぼくの動作がそれに似ていることから「お前はほんまにガチャだ」というふうになった。
動作にはすべて流動の美がないといけない、といわれるが、ぼくにはそれがない。たとえば、いままでは打球をからだの真正面で受けとり、つぎにやおら振りかぶって一塁に投げていた。ところが捕球と同時に、送球の体勢にはいっていなければいけない、と濃人二軍監督にしかられ、球をとるたびに「濃人、濃人」と考えてやっているのだが、これがそとからみるとロボットのぎこちなさになっているそうだ。そこへいくと、前田さんの守備は、なるほど定評どおり流動美の本家だ。捕球から送球まで、ほれぼれするほどリズミカルにみえる。あんな守備ができるようになるのはいつのことだろう。キャンプ・インしてもう十二日になるが、まだ一度もほめられたことはない。いつも注意ばかりだ。「ガチャ、ヒザの使い方が悪い。左ヒザをもっと鍛えろ」「ガチャ、大振りしちゃいかんと何度いったらわかるんだ」そのたびに悲しくなってケチョンとなる。でも、ふてくされることがないので、注意しやすいのだろう。いろんなひとが「ガチャ」と気軽に呼びつけて、さまざまのアドバイスをしてくれる。高校(鎌倉学園)大学(国学院大)ノンプロ(日立製作所)でもそうだった。カケとたばこはダメだが、自分ではけっこうふまじめな男と思っているのに、ひとはマジメ人間とみてくれるらしい。ありがたいことだ。注意されているうちが花と思えば、頭がクラクラするような練習もたのしい。一日も早く試合に出たいが、しろうとが、前田さんやタマちゃん(児玉)らの動作にたち打ちできるようになるには時間がかかる。下積み生活はくやしいが、日立の田中監督からも「あせるな」といわれてきた。同室のタマちゃんはいい男だし、ホテルの寝ごこちは快適。まずいとおどかされてきた食事もうまい。みんながガチャ、ガチャといってかわいがってくれるし、マウイ・キャンプはパラダイスだ。ところで竹野君(駒大ー広島)キミは、どんなキャンプ生活をやっているの。同じ東都大学出身として、おたがいにがんばろう。

欠点だらけだが将来楽しみ

田丸監督「技術的には欠点だらけの選手だが、球に向かっていくファイトは、いままでオリオンズに欠けていたものだけに高く買う。からだもやわらかいし、鍛えがいのある選手だ。大沢コーチも、いまは前田、児玉に比べて見劣りするが、近い将来必ず出てくる選手と見ている。同感だ。大振りするクセはまだ抜けないが、センスはなかなかいいものをもっている」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竹野吉郎

2014-07-21 17:14:48 | 日記
1966年

三十六年の暮れ、わたしは二つの目的でいく度か浜田商(島根)をおとずれた。ひとつは竹野の勧誘。いまひとつは当時山陰で№1捕手といわれ、すでにノンプロ日本生命入りが内定していた新宅(中日入り)にぜひウチを受験してくれるように説得することだった。この二人とも説得することができたのだが・・。
竹野はすでに夏の練習にも参加していたし、ウチにきてくれることはまちがいないと自信を持っていた。そしてポジションこそ違ったが、当時わたしは新宅よりむしろ竹野の素質を高く評価していたのを覚えている。新宅にこだわったのは、そのころ捕手は三年生の小島(河合楽器)しかいなかったので、新しいチームづくりのために新宅がどうしても必要だったからだ。それから四年間が過ぎたいま、おなじ浜田高から駒大へ進み、プロへ送り出す二人をくらべて妙な感慨にひたっている。新宅がストーブ・リーグの焦点と騒がれたのにくらべ、竹野はすっかり取り残された感じで、それほど話題にはならずに広島入りが決まった。そしてこのことがそのまま竹野への苦言につながる。新宅はいつも自分にきびしく、四年間鍛えに鍛えぬいてきた。竹野にはこのきびしさが欠けていたように思う。浜田高時代にワンマン的な存在だった気持ちの甘さが大学にはいってもなかなかぬけなかった。新宅が二年からレギュラーになったのに、竹野はまる一年おくれた。竹野は高校時代は三塁手だった。しかし一度練習をみたわたしは守備に難点があるのに気づき、強肩、俊足を生かすためにすぐ外野にコンバートした。新宅におくれはとったものの期待どおりにのびてくれた。プロで心配なのは腕っぷし、パンチ力だ。走、守ではライバルの鎌田(法大ー広島)に負けないが、鎌田のような一発がない。シンに当ったら必ずライナーで野手の間を抜くパンチ力をつけることがまず必要だ。苦言ばかりつづいたが、これは裏を返せばプロでもっときびしくやったら、技術的にも精神的にもまだまだのびる可能性を持っているということだ。いい意味で自分の意思をとおしていくシンの強さ、つまりプロ意識に徹することを望んでおく。

竹野選手「目標は古葉さんのようなタイプの選手。しぶとくて小細工のできるようになりたい。それにバッティングにパンチをつけること。いままではほとんどバック・スイングをしなかったが、キャンプでは小さくシャープなバック・スイングをマスターしてパンチがつくようにしたい」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浜口政信

2014-07-21 16:22:55 | 日記
1965年

・・・浜口政信投手 今夏の大会予選で中津南高戦に22奪三振をマーク、準決勝まで進んだ。

浜口投手「ストレートには自信があるので村山さん(阪神)のような投手になりたい。まだ目標もないが、一生懸命努力します」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長尾敏広

2014-07-21 16:13:12 | 日記
1966年

長尾敏広投手・・・1㍍81、75㌔、右投右打 岡山南高出

・ことしのドラフト会議ではどこの球団にもリストアップされなかったが、岡山球界では平松(日石)以上の速球投手として定評があった。巨人は補強の重点を野手にしぼったため、投手の間で遅れをとるかたちになった。ところが、木戸スカウトが素質を高く買い、一年生のときから目をつけていた長尾が選択会議でどの球団にもリストアップされなかったところから、ひそかに入団交渉をすすめ、獲得したもの。長尾は速球を武器とする本格派で、性格もプロ向き。岡山南高は野球部が弱いため、パッとしなかったが、同校一年のときからエースで活躍。二年生のときには平松(日石、岡山東商卒)と投げあって球威では平松以上の力をみせたが、バックの弱さで敗れている。ことしの夏の高校野球県予選も三回戦まで進んで敗れた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真鍋幹三

2014-07-21 15:41:03 | 日記
1967年

頭数がたりなかった捕手陣に、この日の初練習から新人が加わった。真鍋幹三捕手(21)=1㍍78、78㌔、右投右打、宇部商ー大阪ダイハツ=で、安芸キャンプでテストされることになった。会社が不景気で野球部が一時閉鎖になったため「そんな会社なら」と真鍋捕手は以前からテストを受けることをすすめていた河西コーチをたよりに、スッパリと会社に退職届けを出し、新天地にとび込んできた。「ブルペン捕手でもいいから、なんとか入団出来たらと思っています」と話していたが、一番入団を希望しているのはいつもブルペン捕手にかり出されてフーフーいっている山本コーチのようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

井上洋一

2014-07-21 14:54:39 | 日記
1966年

井上洋一選手・・1㍍76、72㌔、右投右打、拓大付高

・井上は新人テストで採用された四選手のひとり。拓大付高では三塁を守り四番を打っていた。夏の都予選では六回戦まで進み、対新宿高戦では中越三塁打を打つなど、長打力の持ち主。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田中辰次

2014-07-21 13:53:42 | 日記
1965年

西鉄は二十四日午前十一時半から東京・丸の内観光会館内東京球団事務所で、ノンプロ鷲宮製作所の田中辰次遊撃手(21)=1㍍73、75㌔、右投右打、大阪興国商出=の入団を発表した。同選手は西鉄が第二次選択で交渉権を獲得していたもので、西鉄としては小室(松江商)につづいて今季契約第二号。無名選手だが俊足、好守には定評がある。三十八年鷲宮製作所に入社以来、小柄ながら一番打者として活躍、今夏の都市対抗野球では立正佼成会の補強選手として出場、優秀選手賞を獲得した。宇高スカウトが高校時代からマーク、熱心に勧誘したのがみのった。

田中選手「からだが小さいし、プロでは不安もあるが、思い切ってやってみる。中学のとき三塁をやったきりで、以後はずっとショート。百㍍を12秒台で走れるし、足には自信がある。それを生かしてなんとか一、二番打者の座をとりたい」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

栗崎日出男

2014-07-21 12:46:57 | 日記
1966年

新人栗崎(柳川商)はレギュラー・バッティングで外野へもとばせず、内野ゴロ四本の無安打。スタンドからも「ゼニのとれる選手じゃない」といわれ、泣きべそをかいている。「こんなはずではなかった。当てるのがやっとで、どうなっているのかわからない」毎晩、宿舎の森沢旅館で素振りをつづけているが「コーチの人がたくさんおられて、そのアドバイスを全部とり入れたらおかしくなった」ともいう。カメラマンに「できたらフォームの写真をとってくれませんか」とたのみ込み、ワラにもすがりたい心境のようだ。それに「福岡の自宅から手紙がこないのもさびしい」と一年生はすっかりしょげている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石床幹雄

2014-07-21 12:33:26 | 日記
1965年

阪神は二十九日、土庄高・石床幹雄投手(18)=右投右打、1㍍76、67㌔の入団を発表した。これは佐川スカウトが二十八日午後。香川県小豆郡内海町の同投手宅をおとずれ(二回目)契約を終えたもので、阪神での新人契約は今季初めて。石床は土庄高二年の秋から投手となったが、二塁も兼ね六番。今夏の北四国大会ではスリークォーターからの速球でスカウトの目を引いた。佐川スカウトは肩の強さとやわらかなからだにほれ込み、選択会議でリストのトップにあげて獲得に成功した。十九日の一回目の交渉後、電話で再三条件の打ち合わせをしていた。石床も早くから内定していた四国電力はの就職をことわり、プロ入りに踏み切っていたので、スムーズに阪神入りがきまった。
杉下監督「リストのトップにランクした選手だから大いに期待している。肩の強いのが一番の魅力だ。内野もできるようだが、投手として使う」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小山正

2014-07-21 12:25:30 | 日記
1965年

大洋は気仙沼高・小山正捕手(17)=1㍍78、75㌔、右投右打=と正式契約したと三日発表した。藤井スカウトが宮城県気仙沼市の同選手宅を訪れ、交渉してまとまった。これで大洋は新制度になってから五人の選手を獲得した。小山選手は一年生のときからレギュラーとして一塁手を守り、打順も五番で早くから球界で注目されていた。ことしから捕手に転向、夏の宮城県予選では主将で三番を打ち二十一打数六安打、5打点、二割八分六厘をマークした。県代表決定戦で古川工に敗れたが、県高野連から優秀選手に選ばれた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浜口春好

2014-07-21 12:18:07 | 日記
1965年

東映の荒井スカウトは三日午後六時から、第二次選択で交渉権を得た電電近畿の浜口春好三塁手(21)=1㍍76、82㌔、右投左打、徳島海南高出=を大阪・梅田の新阪急ホテルに招き、第一回の入団交渉を行った。その結果、球団の掲示した条件(推定四百万円)を同選手は了承、東映入りを内諾した。五日までには正式契約する。同選手は徳島海南高で投手と三塁手をやり、昭和三十七年電電近畿に入社、以後は三塁手。プロから注目されたのは昨年の春からでこの年本塁打十一本をマーク、大型三塁手として話題を集めた。ことし都市対抗で四番をつとめ、十五打数四安打、電電近畿のの原動力となり、優秀選手に選ばれている。このあと中南米の遠征メンバーにも加わった。右投げながら左打ち。水原監督は「張本、ラーカーの左打線にパワーのある浜口がはいれば打線もよくなるし、フィールディングもうまいから三遊間の強化にもいい」と一席二鳥の選手だとほめている。
浜口選手「前からプロ入りしたいと思っていた。契約金に不満はあったが、そんなことをグズグズいってもはじまらない。はいった以上一生懸命やって、早く第一線のメンバーに出たい。一応家族には相談するが、五日までには契約することになりそうです」
東映・荒井スカウト「前から下交渉をしていたので、話し合いは順調にいった。多少、浜口君も不満はあったようだが、快く了承してくれてほっとした。ウチは三塁が弱いので浜口君のような大型の選手がはいってくれて非常にうれしい」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする