プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

木原義隆

2023-12-07 20:46:15 | 日記
1964年
木原は、和歌山海南市原野町の出身だ。農業を営んでいる豊之助さんとまささんの間に、七人兄弟の末っ子として生まれた。兄一人、姉五人、腕白の末っ子、義隆少年は成長していった。義隆少年が野球遊びの仲間入りしたのが、北小学校の四年の時である。担任の村上不苦丸先生が無類の野球好きで、彼の体格をみて目を細めていた。ボールの握り方からはじめ、先ずキャッチボールの大切なことを教えてくれたのである。人より早く登校した木原少年のアンパイヤーで毎日200球を投げ終えていた。昼休み、更に放課後と、一日600球以上の投球を、彼は村上先生の厳しい指導の前で投込んで帰る事にしていた。小学校六年の時、文部省からの指令で小学生の野球試合は禁じられ、チームは対外試合ができなくなり実力のほどがわからなくなった。それでも先生と木原少年のバッテリーは解散せずにつづけられていた。今でも、木原が野球を語る時、一番の思い出になる人はこの村上先生なのである。北野上中学に進んで、晴れて試合のできる時がやってきた。ここでも彼は投手だった。或る日、その年の運動会の競技種目のことでチームの意見が二つに割れ、木原に味方してくれたのはたった一人、その一人になっても我を通した。彼は意地を張ってあれほど好きな野球部から退部してしまい、バレー部へ入れて貰った。しかしバレーをやりながらも、気にかかるのは野球のなりゆきなのである。考えに考えた揚句、野球部員にコネをつけて、復起できるチャンスを作った。三年生になった木原はまたグラウンドをもって、思う存分に暴れまわることができるようになった。引く手あまたの中、彼は海南高校を選んで入学した。実家から少し離れているここへ通うため、木原は一番上の姉とみ子さんの家へ寄留した。一年生で早速ユニホームを貰い、紀和代表の一員として早くも甲子園の土を踏んでいる。チームには、後で早大入りした宗投手が投げ、これも慶大入りした榎本が活躍し、海南の名を全国ファンに印象づけた好選手の多い年だった。この次の年が木原の活躍する年なのである。コントロールに苦しんだ木原が、ひとりで編み出した横手投げが、意外にコントロールが良くボールののびがいい。夏の予選は決勝戦で涙を呑んだが、この予選には、ノーヒットノーランを樹立、サイドスローに自信をもつことができた。秋に入り、新チームが編成されてみると木原のワンマンチームだった。ところが、張切って新チームの先頭に立った木原は右胸から背へかけて激痛に見舞われた。診断の結果は、簡単だった。「十分に休養すれば全快する」時もあろうに、それが選抜大会の三日前までである。中二日、たった二日間の投球練習だけで、木原は甲子園のプレートをふんだ。第一戦の関西高には勝ったが法政一高に、1-0で惜敗した。それでも、自分から編み出した横からのピッチングに、木原は彼なりの自信を深め、杉浦や秋山のフォームを見ながら練習をつづけた。この木原の素質を、誰よりも認め、励ましてくれたのは他ならぬ伊東監督(法大OB)だった。木原が今日あるのは、小学校時代から今まで、身辺の指導者に良き人を得たからなのである。これは誰より木原自身が一番よく知っているし、その人のためにも大成したいと願っている彼である。木原は入学以来三年間、いまだ一度もチームの大黒柱としての働きはしていない。いい素質を持ちながら、実力を発揮するまでの根性が、あまりに周囲が適温にすぎたために強く育たなかったのである。この魔力を秘めた怪腕が、渡辺(慶)松本(立)宮本(早)新治(東)らを相手にどんな花を咲かせてくれるだろうか。一にも二にも練習であろう。それ以外の肥料は、木原の恵まれた体質の中に、もう必要ないからである。

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塩谷治

2023-12-07 20:11:14 | 日記
1969年


昭和26年7月29日生まれ
去年は準決勝で東奥義塾に惜敗したが、今年は絶対準決勝に進出すると張切っている。気の弱かった塩谷投手もすっかり成長、投打ともにチームのけん引力だ。決め球のカーブは投込むほどよくなる。

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江崎照雄

2023-12-07 08:57:13 | 日記
1962年
江崎は昨年の暮れもおしまった二十一日、永江球団社長の晩酌で人生への再スタートをきった。その披露宴での席上でのこと、祝辞にかけつけた大毎時代の親友中西投手から「ことしのことはお互いにいわぬことにしよう。そして来年こそはわれわれの輝ける年にしよう。そのためお互いにがんばろう」と堅く誓いあった。作家の藤沢恒夫氏からも「もともと力がありながら、欠点ともいうべき生来の気の弱さから、その力をじゅうぶんに発揮できなかったのが江崎君だ。だから江崎君の場合、精神面での立ち直りが急務。その意味で彼の結婚は実に有意義で必ずわたしの期待にこたえてくれるものと信じる」こういった暖かい周囲の激励に、当の江崎はうつむきながらもいちいち大きくうなずいていた。おそらく彼の胸中にはこのときよおし、やるぞという男の意地めいたものがわいていたに違いない。それが証拠にふと顔をあげた彼の表情から、はっきりと自信のほどがくみとれたのも事実だった。新婚旅行をはやめにきりあげた江崎は、その翌日からさっそく規則正しいトレーニング生活にはいった。昨年の秋季トレーニングにもかかさず顔を出し以後も結婚式の前日までずっとトレーニングに励んでいただけに体調はすこぶるよい。正月は帰郷したが、その期間中もむろん正月返上で精を出した。この江崎の精励なトレーニングぶりは、彼の自宅付近(大阪市住吉区)の人々の間でも一時は評判だったほどだ。「できるだけのことをやって、それで成績が悪ければ悔いも残りませんからね。ことしは足、腰をとくに鍛えようと、連日ランニング、なわとびをくり返しました。おかげで昨シーズンの終わりには86㌔をオーバーしていた体重もいまでは83㌔。ベストコンディション(81㌔)にあと一息です」と語る表情も明るい。そういえば、昨シーズンの自己のつまずきが、そもそもトレーニング期間中に痛めた軸足のヒザであっただけに、この点をよく反省、重点的なトレーニング法を行っているのだろう。「いまじっくり反省してみると、昨年はピッチング一つにしてもあまりにも考えすぎた。その結果、つねに迷いがともない肝心なところで一発いかれると、そのままがたがたくずれるケースが多かった」と彼がいうように確かに昨季の江崎は本来の自己のピッチングをしていなかった。もともと彼はどちらかといえば、力でぐんぐん押していくタイプの投手。一昨年の好調時にも示されたように、彼の低めにきまるストレートには、山内や豊田でさえもちょっと手が出なかったほどだ。それがへたに変化球に頼ろうとしたからいけなかった。原因もせんじつめれば、コントロールに自信がなかったからにほかならないが、ボール一つの差でどれだけ破たんを招いたか致しれない。「それがはっきりわかりました。杉下さんが全盛期のころは、ど真ん中の直球で勝負したといわれますが、ボクもことしはそれぐらいの気構えで、直球とシュートで勝負していくつもり…」と語る。なにしろ昨年の今治キャンプではでき上がりがはやく、入団早々の徳久をして「江崎さんみたいなすごい球をほられたんではとてもボクなんか…」とあやふく徳久の自信を喪失させかけたというほどの江崎の球感だ。その彼が「本来のピッチングにたちかえりたい」といのうだから大いに期待がもてるのもしごく当然だ。「野口さんがコーチになられたことは本当にしあわせです。高校時代の先輩でもあるし、大毎時代から欠点もよくしっておられるし…気分的にもなにかどっしりした支えができた感じです」という江崎。これに対し野口コーチは「昨年の江崎はなにか無理をして背のびをしようという感じだったな。そのため小さく固まってしまっていた。ことしは蔦、黒田ともに大いにやってもらわねばならないのだし、ボクとしてもなんとかもう一度立ち直されたい…」という。また別当監督も「彼がプロ入りしたときが第一の人生であれば、近鉄に移籍して活躍した一昨年が第二の人生。そして結婚し、心機一転したことしからがいわば第三の人生でもある。その意味からも江崎の前途を輝けるものにしてやりたい」と大きな期待をよせている。果たしてこの周囲の期待にこたえ、彼が第三の人生を飾れるだろうか。今シーズンの江崎は、けだし注目されてよさそうだ。

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八木孝

2023-12-07 08:28:27 | 日記
1963年
現在、ウエスタン・リーグでは、もちろん主力投手の中に加えられている。しかし先発することはあまりなく、救援が多い。これは「いろいろな場面に慣らし、実戦的なピッチングを身につけさせたい。そのほうが後半戦で一軍へ上がっても役に立つ」(備前コーチの話)という方針からきている。八木はあくまでも研修あけに一軍へ登用させることを前提に使われているといってよい。球速は六大学時代ほどないが、コントロールはいい、カーブ、スライダーでカウントを取って、ずばりストレートで勝負することもあるが、もう一つ球の切れに自信がないのか、かわすピッチングがほとんどだ。八木のシュートは、ウイニング・ショットのはずだが、あまり見られない。右打者の外角をシュートで攻められるようになると、さらにピッチングは安定する。「完全なコントロールをつけることが先決ですが、球の切れももう少しといったところです。それにカーブやスライダーの切れも鋭くする必要があります」本人はこう反省しているが、備前コーチは八木の生きる道は技巧派だとはっきり指摘する。「左だから思い切ったピッチングをするのもいいが、そうかといってストレートで真っ向から押していくタイプではない。右打者の内角攻めをつく球に威力があればいいが、いまは棒球も多い。ちょっと高めへはいったらたたかれる。だから、カーブやシュートを使って打ちとるピッチングがいいと思っている。ナックルもなかなかいいものをもっているし、走者を出したら、もっと投げるようにいっている」大羽と同じタイプのチェンジ・オブ・ペースを身上とする投手に育てあげようとしているのだ。これで八木がよく火消し役にかり出される理由はさらにはっきりしてくる。大学の先輩漆畑は「ピッチングはうまくなっているが、大学のときの力がもっとスピードがあった。速い球だけではとても通用しないが、このまま伸びればかなりやるでしょう」といい、後輩の成長を待ちわびている。伸び上がるようにワインドアップし、自分のからだの反動を利用するピッチングをしているが、小野(大毎)のように投球に角度をつければ、左腕の利点がより生かされよう。大羽ひとりといってよい広島にとって八木は大羽に続く貴重な左腕だ。

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