1964年
木原は、和歌山海南市原野町の出身だ。農業を営んでいる豊之助さんとまささんの間に、七人兄弟の末っ子として生まれた。兄一人、姉五人、腕白の末っ子、義隆少年は成長していった。義隆少年が野球遊びの仲間入りしたのが、北小学校の四年の時である。担任の村上不苦丸先生が無類の野球好きで、彼の体格をみて目を細めていた。ボールの握り方からはじめ、先ずキャッチボールの大切なことを教えてくれたのである。人より早く登校した木原少年のアンパイヤーで毎日200球を投げ終えていた。昼休み、更に放課後と、一日600球以上の投球を、彼は村上先生の厳しい指導の前で投込んで帰る事にしていた。小学校六年の時、文部省からの指令で小学生の野球試合は禁じられ、チームは対外試合ができなくなり実力のほどがわからなくなった。それでも先生と木原少年のバッテリーは解散せずにつづけられていた。今でも、木原が野球を語る時、一番の思い出になる人はこの村上先生なのである。北野上中学に進んで、晴れて試合のできる時がやってきた。ここでも彼は投手だった。或る日、その年の運動会の競技種目のことでチームの意見が二つに割れ、木原に味方してくれたのはたった一人、その一人になっても我を通した。彼は意地を張ってあれほど好きな野球部から退部してしまい、バレー部へ入れて貰った。しかしバレーをやりながらも、気にかかるのは野球のなりゆきなのである。考えに考えた揚句、野球部員にコネをつけて、復起できるチャンスを作った。三年生になった木原はまたグラウンドをもって、思う存分に暴れまわることができるようになった。引く手あまたの中、彼は海南高校を選んで入学した。実家から少し離れているここへ通うため、木原は一番上の姉とみ子さんの家へ寄留した。一年生で早速ユニホームを貰い、紀和代表の一員として早くも甲子園の土を踏んでいる。チームには、後で早大入りした宗投手が投げ、これも慶大入りした榎本が活躍し、海南の名を全国ファンに印象づけた好選手の多い年だった。この次の年が木原の活躍する年なのである。コントロールに苦しんだ木原が、ひとりで編み出した横手投げが、意外にコントロールが良くボールののびがいい。夏の予選は決勝戦で涙を呑んだが、この予選には、ノーヒットノーランを樹立、サイドスローに自信をもつことができた。秋に入り、新チームが編成されてみると木原のワンマンチームだった。ところが、張切って新チームの先頭に立った木原は右胸から背へかけて激痛に見舞われた。診断の結果は、簡単だった。「十分に休養すれば全快する」時もあろうに、それが選抜大会の三日前までである。中二日、たった二日間の投球練習だけで、木原は甲子園のプレートをふんだ。第一戦の関西高には勝ったが法政一高に、1-0で惜敗した。それでも、自分から編み出した横からのピッチングに、木原は彼なりの自信を深め、杉浦や秋山のフォームを見ながら練習をつづけた。この木原の素質を、誰よりも認め、励ましてくれたのは他ならぬ伊東監督(法大OB)だった。木原が今日あるのは、小学校時代から今まで、身辺の指導者に良き人を得たからなのである。これは誰より木原自身が一番よく知っているし、その人のためにも大成したいと願っている彼である。木原は入学以来三年間、いまだ一度もチームの大黒柱としての働きはしていない。いい素質を持ちながら、実力を発揮するまでの根性が、あまりに周囲が適温にすぎたために強く育たなかったのである。この魔力を秘めた怪腕が、渡辺(慶)松本(立)宮本(早)新治(東)らを相手にどんな花を咲かせてくれるだろうか。一にも二にも練習であろう。それ以外の肥料は、木原の恵まれた体質の中に、もう必要ないからである。
木原は、和歌山海南市原野町の出身だ。農業を営んでいる豊之助さんとまささんの間に、七人兄弟の末っ子として生まれた。兄一人、姉五人、腕白の末っ子、義隆少年は成長していった。義隆少年が野球遊びの仲間入りしたのが、北小学校の四年の時である。担任の村上不苦丸先生が無類の野球好きで、彼の体格をみて目を細めていた。ボールの握り方からはじめ、先ずキャッチボールの大切なことを教えてくれたのである。人より早く登校した木原少年のアンパイヤーで毎日200球を投げ終えていた。昼休み、更に放課後と、一日600球以上の投球を、彼は村上先生の厳しい指導の前で投込んで帰る事にしていた。小学校六年の時、文部省からの指令で小学生の野球試合は禁じられ、チームは対外試合ができなくなり実力のほどがわからなくなった。それでも先生と木原少年のバッテリーは解散せずにつづけられていた。今でも、木原が野球を語る時、一番の思い出になる人はこの村上先生なのである。北野上中学に進んで、晴れて試合のできる時がやってきた。ここでも彼は投手だった。或る日、その年の運動会の競技種目のことでチームの意見が二つに割れ、木原に味方してくれたのはたった一人、その一人になっても我を通した。彼は意地を張ってあれほど好きな野球部から退部してしまい、バレー部へ入れて貰った。しかしバレーをやりながらも、気にかかるのは野球のなりゆきなのである。考えに考えた揚句、野球部員にコネをつけて、復起できるチャンスを作った。三年生になった木原はまたグラウンドをもって、思う存分に暴れまわることができるようになった。引く手あまたの中、彼は海南高校を選んで入学した。実家から少し離れているここへ通うため、木原は一番上の姉とみ子さんの家へ寄留した。一年生で早速ユニホームを貰い、紀和代表の一員として早くも甲子園の土を踏んでいる。チームには、後で早大入りした宗投手が投げ、これも慶大入りした榎本が活躍し、海南の名を全国ファンに印象づけた好選手の多い年だった。この次の年が木原の活躍する年なのである。コントロールに苦しんだ木原が、ひとりで編み出した横手投げが、意外にコントロールが良くボールののびがいい。夏の予選は決勝戦で涙を呑んだが、この予選には、ノーヒットノーランを樹立、サイドスローに自信をもつことができた。秋に入り、新チームが編成されてみると木原のワンマンチームだった。ところが、張切って新チームの先頭に立った木原は右胸から背へかけて激痛に見舞われた。診断の結果は、簡単だった。「十分に休養すれば全快する」時もあろうに、それが選抜大会の三日前までである。中二日、たった二日間の投球練習だけで、木原は甲子園のプレートをふんだ。第一戦の関西高には勝ったが法政一高に、1-0で惜敗した。それでも、自分から編み出した横からのピッチングに、木原は彼なりの自信を深め、杉浦や秋山のフォームを見ながら練習をつづけた。この木原の素質を、誰よりも認め、励ましてくれたのは他ならぬ伊東監督(法大OB)だった。木原が今日あるのは、小学校時代から今まで、身辺の指導者に良き人を得たからなのである。これは誰より木原自身が一番よく知っているし、その人のためにも大成したいと願っている彼である。木原は入学以来三年間、いまだ一度もチームの大黒柱としての働きはしていない。いい素質を持ちながら、実力を発揮するまでの根性が、あまりに周囲が適温にすぎたために強く育たなかったのである。この魔力を秘めた怪腕が、渡辺(慶)松本(立)宮本(早)新治(東)らを相手にどんな花を咲かせてくれるだろうか。一にも二にも練習であろう。それ以外の肥料は、木原の恵まれた体質の中に、もう必要ないからである。