プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

メモ登板日

2023-12-03 18:23:00 | 日記
井上勝巳


1961年6月20日
1963年2月28日(OP)
1963年3月4日(OP)
1963年4月1日(OP)
1963年4月11日
1963年4月13日
1963年4月21日
1963年4月28日
1963年5月7日
1963年5月14日
1963年5月18日
1963年5月25日
1963年5月28日
1963年6月1日
1963年6月15日
1963年6月23日
1963年6月27日
1963年6月29日
1963年6月30日
1963年7月3日
1963年7月8日
1963年7月28日
1963年8月1日
1963年8月4日
1964年2月24日(OP)
1964年2月26日(OP)
1964年2月27日(OP)
1964年2月28日(OP)
1964年3月2日(OP)
1964年3月6日(OP)
1964年4月18日
1964年5月2日
1964年5月6日
1964年7月11日
1965年2月28日(OP)
1965年3月8日(OP)
1965年5月11日
1965年5月15日
1965年7月28日
1966年3月6日(OP)
1966年3月14日(OP)
1966年4月3日(OP)
1966年5月8日
1966年6月22日
1966年6月23日
1966年6月24日
1966年7月6日
1967年3月13日(OP)


上林
1976年3月14日(OP)
1977年3月3日(OP)



1964年11月1日(OP)
1964年11月2日(OP)
1964年11月9日(OP)


倉高


1962年2月26日(OP)
1962年3月9日(OP)
1962年3月17日(OP)
1962年4月2日(OP)
1962年4月8日
1962年5月6日
1962年7月1日
1963年3月3日(OP)
1963年3月8日(OP)


浜口


1966年9月8日
1967年3月5日(OP)
1967年3月8日(OP)
1967年3月12日(OP)
1967年3月15日(OP)
1967年3月22日(OP)
1967年3月27日(OP)
1967年4月10日
1967年4月12日
1967年4月15日
1967年4月22日
1967年4月24日
1967年5月6日
1967年5月9日
1967年5月18日
1967年6月13日
1967年9月8日


安岡


1964年7月5日

石井輝


1968年8月10日
1968年10月6日
1969年6月28日
1669年10月5日
1969年10月17日
1970年6月5日
1970年6月7日
1970年7月3日
1970年10月19日
1970年10月19日


瓜生


1970年4月16日
1970年4月23日
1970年4月26日
1970年5月9日
1970年7月5日
1970年7月9日
1970年7月10日
1970年7月15日
1970年7月16日
1970年8月11日
1970年9月16日
1970年10月1日



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1956年 南海 退団選手

2023-12-03 15:29:54 | 日記
1956年


パ・リーグ南海ホークスでは退団選手を次の通り発表した。


「退団選手」(カッコ内は就職先)
投手
大神武俊(未定)
太田武(京都帝産)
中島孝司(未定)
黒木貞男(東京リッカーミシン)
山本義司(高橋ユニオンズ)
捕手
小辻英雄(東京リッカーミシン)
田中尊(未定)
成松春雄(松谷化学伊丹)
内野手
佐藤重雄(未定)
佐竹俊雄(門鉄)
薮駿策(大阪鉄道弘済会)
外野手
高橋泰宏(家業)
中島丈(松谷化学伊丹)

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山田勝国

2023-12-03 15:23:53 | 日記
1969年
このところ寿美子夫人(22)は困惑顔だ。昨年十月十三日に挙式したばかりの新婚家庭。それなのに大阪市東住吉区湯里町、金竜マンション二階の愛の巣は今年にはいってすっかり甘いムードがなくなってしまった。岩本コーチに呼ばれて正月二日に上京した山田は、二日間東京にいて四日には帰阪したが、まるで目つきが変わってしまっていた。長居競技場での練習は、午前十一時開始だから十時には家を出る。帰ってくるのは夕方だ。軽い食事をすませて二時間の仮眠。八時ごろむっくり起き上がった山田は、バット一本をぶらさげて三階建ての同マンションの屋上へ上がっていく。ある日こっそりとあとを追った夫人は、あっと声をあげて立ちすくんだ。山田が手すりの外のわずかの屋上のふちに一本足で立っていたのだ。三階建てビルの屋上、すぐ下はコンクリートの道路。ちょっと足をすべらせれば即死だろう。寿美子夫人でなくても、ぞっとするようなシーンだった。夫人に泣きつかれて以後の山田は腰に命綱を巻きつけ、この決死の一本足打法に取り組んでいるが、この練習ぶりが今季に勝負をかける山田の意気込みのすべてを物語っているといえるだろう。プロ入り六年目の昨シーズン、山田は102試合に出場、170打数38安打で2割2分4厘という成績だった。しかし終盤の30試合に連続出場、この間の打率は2割6分台をマークしている。ようやくバッティングのコツがわかりかけてきた矢先だった。それだけに山田は一本足打法に変えるときは迷ったという。しかし岩本コーチの自信に満ちたアドバイスで山田の気持ちは変わった。同コーチはいった。「一本足の方が長打力がつく、ただこの打法で打てるのは、とくに下半身の強い人に限られる。君はその強い足腰のバネを生かさねばウソだ」上京したとき同コーチの紹介で合気道本部道場師範の藤井光一さんに会った。いろんなフォームで構えてみて、同師範も一本足が一番いいと保証した。ロッテの榎本、巨人の王に合気道のコツを教えた人だ。「下腹だけ神経を集中しろ。そうすればバットが体の一部になりボールを打つ力は最高のものが出る」これが同師範の教えだった。バッティングの技術的なことについては岩本コーチに聞ける。しかし「下腹だけに神経を集中する」という精神面については自分一人で修業するしか方法がない。マンションの屋上で必死の練習もそのためなのだ。「初めてあのギリギリのところで一本足で構えれたのは一分間だけです。今は下腹に神経を集中しているとビクともしない。しかし下を車が通ったりするとつい気持ちがゆれて構えもゆれる。何が通ろうとビクともしないところまでいかないと…」連日の練習の成果は目にみえて出てきている。もう普通のところでは十分間ぐらい片足で立っていられそうだ。この山田に今季岩本コーチが課しているノルマは2割8分、25ホーマーだそうだ。「自分でも不思議なほどそれぐらいはやれそうな気持ちになっているんです」というから頼もしい。ノンプロ東洋高圧大牟田時代、フェンスに激突して肩を痛め、プロ入り後も六年間に二度フェンスに激突と故障の多かった山田。もともと大器といわれている山田が今シーズン見事に開花するかどうか、一番注意しなければならないのはこのケガしないということだろう。

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松原良明

2023-12-03 13:34:35 | 日記
1966年
近鉄球団は七日午後三時から大阪・森の宮の日生球場内球団事務所社長室で松原良明外野手(18)=1㍍82、78㌔、右投げ右打ち、米子工=の入団を正式に発表した。背番号は37。同選手は昨年一シーズンで65打数、23安打、二塁打8、三塁打3、本塁打6、・354の高打率をあげるなど中国地区では一、二を争う好選手。昨年夏の中国大会で二試合連続ホーマーを打ったこともあり、近鉄待望の長距離打者として期待されている。


加藤スカウトの話 昨年春の中国大会で関西高校の森安投手から2本ヒットを打った。2本ともカーブだったが、右と左にうまく打ち分けた。森安は高校球界では一、二の投手だけにこの変化球を実にうまくミートした松原のバッティングのセンスにほれこんだ。どこといって特徴はないが、中日の西沢監督の現役時代のバッティングに似ている。二、三年時を貸してもらえばきっと大物になる。


松原選手の話 プロ入りは早くからの希望でした。その念願がかなった以上、中日の江藤さんのようにファイト、馬力のある選手になりたい。

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鳥谷元

2023-12-03 13:25:52 | 日記
1966年
中日ドラゴンズは十三日午後二時から名古屋市中区南外堀町の球団事務所で福岡県立築上中部高のエース、鳥谷元(とりや・はじめ)投手(18)=1㍍78、75㌔、右投げ右打ち=の入団を発表した。昨年十二月十三日、柴田、池田両スカウトが豊前市大字恒富の実家を訪れ、条件を提示、翌十四日には球団事務所へ電話で入団の意思表示があったもの。鳥谷投手は甲子園出場の経験はなく中央球界には知られていないが、速球を武器とした本格派で、外角低めへの直球に威力があり、コントロールのよさに定評があった。将来のびる素質があるとみて中日ではさきに入団した豊永とともに本格派への成長を期待している。父親蔵之介さん(49)=国鉄職員=と母親輝子さん(47)の長男で、中学三年の妹がいる。


鳥谷投手の話「柿本さん(阪急移籍)のピッチングがすきだったので柿本さんを目標にします。チームは違っても同じ気持ちです。山中さんや、豊永クンに負けないような本格派になりたい」


吉江代表の話「スピードがあり、コントロールがよく根性もある。阪神の村山と同じ力投型で素質はじゅうぶんだ。さわがれなかっただけにノビノビとしたピッチングをしてくれると思う。ウチのダークホースだ」

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池田幸博

2023-12-03 12:53:53 | 日記
1972年
野球歴は小学校六年生からはじめて、本格的にやり始めたのは高校(西脇工高)のときから。兵庫県の県予選などで甲子園球場を使ったことはあるが、甲子園大会には出場できず。ユニチカには3年間在籍したが成績があまりよくなく、思い出がない。プロ入りには、ある人の紹介で入団した。特別テストを受けたわけでもない。両親・義輝52歳、ます子、50歳、祖母ふじえ82歳、兄義美25歳・弟武司13歳の六人家族で、オフには兵庫県に帰っている。現在教育リーグに出場しているが、まず基礎からやる。守備のほうはかけもちで三塁と右翼をやっていてある程度自信はあるのだが、バッティングのほうを勉強したい。

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人見武雄

2023-12-03 12:53:53 | 日記
1964年
「きみは、ウチでは必要のない選手になった。来シーズンの球団方針では、きみのためのワクはないんだヨ。気の毒だが…」宮田球団代表補佐のことばが人見選手の頭にガンガンひびく。全身の力が抜けていくようだった。オリンピックムードが町をつづんでいた十月初旬のことである。そんなバカな…どうしてーなかば予期していたことではあったが、さすがにショックは大きかった。ことばにならない叫びが、胸のうちを熱いかたまりになって突きあげてくる。「任意引退というのは不満かも知れん。もしヨソから誘いがあれば引き受ければいい。それがダメなら、あとあと面倒を見ることができる傍系会社へ勤めてみるのもいいじゃないか」宮田代表補佐のことばも、他人ごとのように聞えたという。「自分でせいいっぱいやってダメだというのならあきらめもつきます。今シーズン、ボックスに立ったのは四度だけ、チャンスもなかった。もう一度だけ自分をかけてみたいんです。そのためには、なんとかチャンスをつくる努力をします。やるだけやってみてダメなら、そのときはあきらめます。今後どうするなんて頭にないですヨ。プレーヤーとして未練もあるし、まだ阪急の選手という気持ちが抜けきれないんです」宝塚市川面の住宅街になる自宅の明るい応接室で、人見は静かに話した。身ぶりをまじえながら、こうもいった。「まだ、かつてボックスに立ったときのいい感じがこの手に残っているんです。その感じを何度となく思い出しますヨ」人見は三十二年、日大から阪急に入団した。その年は91試合に出て・215を打ち、その後三十五年まで四年間、二度二割七分台を打った。肩が弱く常時出場は無理だったが、チャンスに強いシェアな打者として、他球団からマークされたのもこのころのことだ。三十六年末には、将来を考えて建てたアパートが宝塚市逆瀬川に完成。プレーにうち込めるためにと、ほうぼうから資金を集めて建てたものだ。だが、その喜びもつかの間だった。翌三十七年の一月二日、居住者の火の不始末で、新築のアパートはまたたく間に全焼してしまった。さらに昨年の一月、結核にかかった。六月までゲームをはなれて療養生活。一週間に二度、大阪・梅田の阪急百貨店にある診療所へかよった。あとは家で、文子ちゃん(4つ)亜紀ちゃん(2つ)の二人のこども相手に過ごす日課だった。旅行の多い人見がはじめて家族の味をじっくりかみしめた。「このこどもたちのためにも、やらんといかん」久しぶりでユニホームを着た人見はシーズンの残りをファームで練習についやした。今シーズン前のキャンプでもいい当たりが出た。「これならいける」と再起を期す人見は人知れずファイトをもやした。だが、結局人見は一軍と二軍を往復した。「西本さんはファイター。打てるかと聞いてハイと元気よく返事をするとよし、いけということになる。ボクは自信はあってもエエーまあぐらいしかいえない、そんな点が西本さんには物足りなかったのでしょう。正反対のタイプだったんですネ。タマに出ても二軍ずれがしていてどうでもいいという気も出るんですヨ」その当時の苦しさをしみじみとした調子で話す。かつての数チームからトレードの申し込みがあったほどのしぶいバッターだ。近鉄の監督だった別当さんも人見を買っていたひとり。再三、阪急にかけあっていたという。「今シーズン前も二、三のチームから話があったそうです。あとになって知ったんですが、もう気にしません。いまはなんとか使ってやろうというチームをさがしています。こどものためにもネ」

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松谷栄司

2023-12-03 12:45:43 | 日記
1966年
見事にチャンスをつかんだ。ことしの松谷の成長ぶりはキャンプでも注目の的だ。紅白戦にも第一戦で先発したのをはじめ、三試合に登板して安定したピッチングをみせていた。「きょうもたぶん先発だろうとボクなりに思っていました」というほどの充実した今シーズン。雨中の悪コンディションにもめげず得意の変化球をうまく使って四回を6安打、三点に押えた。「最初は悪かったが、しり上がりに球が切れてきた。コントロールがよくなって自信ができたのが一番大きい。きょうも雨だったが雨なんかあがってしまえという気持ちで投げた。初めてのチャンスだから、どうしてもものにしたかった。この雨ではホームラン以外は二塁打どまりと思っていきました。前半は少し悪かったが、後半は球もキレて満足できるピッチングでした。きょうは特にカーブがよかった」とびしょぬれの顔でうれしそう。種茂捕手も「速球派というより変化球投手だが、小さなスライダー、タイミングをはずすカーブがよくなった。ピッチングのコツもおぼえたので、ことしはだいじょうぶ」と合格点をつけていた。昨年最終戦(西鉄)でプロ入り初勝利をあげているが「あれで自信ができました。もうマウンドに上がっても気分的になんともない」という松谷。速球派というよりむしろ変化球投手の松谷にはこの自信はなににもまして大きいようだ。四年目の今シーズン、待望の第一戦突入は間違いないだろう。

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大場隆広

2023-12-03 12:33:22 | 日記
1966年
別府・鶴見ヶ丘高・大場隆広投手(18)=1㍍80、72㌔、左投げ左打ち=の中日入りが二十六日正式に決まった。中日・池田スカウトは同日午後四時三十分から大分県別府市観海寺の「白雲山荘」で大場投手と両親の重幸さん(52)恵美子さん(41)同校の山本晃正監督と会い、正式調印を終わった。池田スカウトは九月五日のドラフト会議で交渉権を獲得後、交渉を開始、条件面で折り合いがつかないため難航をつづけていたが、十九日、1ヶ月半ぶりに了解点に達し、あとは調印だけが残っていた。同投手は高校時代の一、二年は一塁手だったが、二年の夏から投手に転向、その後めきめき頭角をだし、その重い速球と大きなカーブは注目されていた。中日は対巨人戦用の左腕の入団を補強目標としているが、さきの橋本投手(東京・中央製版印刷)につぐ二人目の左腕投手の入団で着々と補強策はみのっている。入団発表は十一月はじめの予定。

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堀田明

2023-12-03 12:25:33 | 日記
1964年
巨人の外野は関根、吉田の加入で総勢九人。そのうち国松、柴田、柳田、関根、吉田、末次とレギュラー陣はベテラン新鋭が目白押しで、ポジション争いも日に日に激しくなっている。新鋭堀田は自主的ムードとはうらはらにドロだらけの毎日に三つのポジションをかけている。「よく僕は五番か二番だと人にいわれるけど、気にしないことにしている。ベテランの人たちが多いなかで、ポジションを気にしていたらとてもじゃないがやっていけないよ。簡単にとれないことはわかっているのだから、自分をよくみつめて技術をみがいていくだけだよ。その答えがペナントレースにはいったら出るだろうから…」一見、ヌーボーとした堀田だが、ことばのはしばしに激しい闘志が感じられる。「僕はいままでレフトだけ守ってきた。でもいまはどこでもいい。ひとつのポジションをものにするだけだ」ポジション争いは気にしないといいながらそのすぐあとで「絶対ポジションをとる」と口をすべらした。この堀田の自信はマイヤース・コーチの指導を受けてからさらに確実なものになった。「僕の欠点は内角に弱いことだとよくいわれていた。でも僕自身としては内角が一番好きなんだ。それをマイヤース・コーチがはっきりといってくれた。このままでいいと。それに手首の返しがいいともいってくれた。これで自信めいたものがついたんだ」バッティングにも一段とハリがでてきたといわんばかりの堀田。フリー・バッティングで鋭いライナーが左翼を襲う。「堀田は自信をもってきたね」荒川コーチは自信ほど恐ろしいものはないという。だが堀田がポジションをとるためにはまだまだ自分を鍛えなければならない。「それは僕も知っています」守備、足だって普通だ。はっきりいって二、五番を打てるほどの力はない。「もっとバット・スイングをシャープにしなければならないと思うんだ。自分の特徴を生かさなければ…」このため堀田は百本の素振りを毎夜くりかえしている。「自由に、そしてシャープにバットが触れるようになったらどんな変化球にもついていける。だから早く自分の特徴を押し出すことだ。フォームよりもまず現在の長所をより伸ばすことだ」と堀田は真剣な表情で語る。川上監督、荒川コーチもその決意を知ってグラウンドでは堀田にこれといった指示も与えず、じっと見守っているのだ。「キャンプ?楽しいというほどじゃないが、苦にもならない。夢中でもないが」最後は舌をペロリと出した堀田。若さがあふれていた。

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橋本勉

2023-12-03 11:56:44 | 日記
1969年
阪急は二十四日午後三時から大阪・梅田の球団事務所で渓間球団代表、木地相談役が立ち会い、報徳学園の橋本勉投手(18)=185㌢、84㌔、右投げ左打ち=の入団を発表した。同投手は高校時代の三年間もっぱら控えの全くの無名選手だが、本格派として体力的に恵まれているうえ柔軟性に富み、打撃面にもいい素質を持っていると早くから藤井スカウトが目をつけてきたもので、大型投手として将来性が期待されている。武器は速球とカーブ。背番号58。

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橋本勝隆

2023-12-03 11:47:01 | 日記
1966年
中日ドラゴンズは二十日正午、中日球場で、軟式球界の雄、東京・中央精版印刷のエース、橋本勝隆投手(22)=1㍍74、68㌔、左投げ左打ち=の正式入団を発表した。橋本投手は高松高卒業後、中央大に入学したが一年で中退、昨年、中央精版印刷に入社、一ヶ月後の全国実業団大会には延長24回の末、東京電力を破り優勝した。この試合、被安打2、四球3、三振は22個奪っている。現在、東映で活躍している田中投手と同期で、高松高時代にPL学園高と対戦、自己の高校最高の16三振をあげた。速球と落ちるカーブが武器。中日では巨人戦用の左の決め手と期待している。


西沢監督の話「公式から軟式に転向する場合は肩をこわしたりすることが多いが、橋本くんのように逆の場合はすごいピッチングをすることが多い。うちの大友コーチがそうだし、東映の土橋、審判の内藤さんもそうだった。巨人戦用の左の切り札と期待している。本人に望みたいことは一日も早く硬いボールになれることだ」


橋本投手の話「ぼくは巨人というチームが大きらい。左投げなので、ワンポイント・リリーフが主体になると思いますが、左打者に通用する投手になりたい。とにかく一日も早く、ナイン、硬式ボールになれるため、二十五日からさっそく秋季練習に参加します」

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相川進

2023-12-03 11:07:47 | 日記
1965年
中日ドラゴンズは一月十八日から中日球場での合同自主トレーニングにテスト生として参加していた相川進内野手(17)=右投げ右打ち、1㍍81、75㌔=の採用を決定した。同選手は佼成学園からノンプロ立正佼成会にはいっていたが、中日がテストしていたもの。高校時代は遊撃を守り、フットワークに定評があった。とくにスローイングが堅実。背番号72。

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佐々木誠吾

2023-12-03 10:58:25 | 日記
1964年
阪急は七日、島根県浜田高・佐々木誠吾投手(18)=1㍍80、75㌔、右投右打=の入団を決めた。阪急の今シーズンの新人補強は交渉中の早大・江尻亮投手をのぞきこれで全部終わった。同投手は無名だが、1㍍80の長身から投げおろす速球、カーブには威力があり、中国地方で池永(下関商ー西鉄)につぐ本格派投手と注目されていた。広島、西鉄から誘われていたが、阪急は中学生(京都)のころから目をつけ、第二の米田になれる投手として交渉をつづけていた。


1969年


一昨年の日本シリーズで好投をみせて来季は第一線投手と期待された佐々木誠吾は、同僚の足立とともにした東南アジア旅行が悪かったのか、満足な成績が上げられず、とてもオープン戦のピッチングからは、一昨年のマウンドを託すべくもない低調さである。体格も梶本とともにチーム一で球威もありながら、なぜ期待通り投げられないのか…。その原因が意外なところにあった。なんと手にアカギレが切れてボールが満足に握れないからと言う。アカギレは前時代的な皮膚疾患となっているのに、佐々木は見かけによらず耐久性に乏しい体質なのか、手入れが悪いのか…。

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