初舞台

2001年11月03日 | 演劇

私が初めて人前で芝居をやったのは、
23歳の秋だったと思う。
そのときの劇団は、中野勤演(中野勤労者演劇会議)
というなんか堅苦しい名前の劇団だった。
誰かの紹介で入ったのだが、くわしいことは忘れた。
その年の春か夏の初めに中野勤演に行くようになった。
秋の公演に向けての準備に入ろうとしているときだった。
中野勤演を主宰していた35、6歳のKというひとは、
たしかクリーニング関係の業界紙をやっていた。
演劇に対してかなりの野心家で、将来は、
演劇でメシを食おうと考えていたように記憶している。
劇団員は10人ぐらいだった。
ほとんどが20代で、
ひとりだけKと同年代のMというひとがいた。
Mは長年演劇をやっていて、別な劇団にいたとき、
ヨーロッパ公演をしたというのが自慢だった。

秋の公演では、
テネシー・ウィリアムズの短い劇を3本やることになった。
そのひとつの「最後の金時計」という2人芝居に、
入ったばかりの私が出ることになった。
テネシー・ウィリアムズは、
「欲望という名の電車」「熱いトタン屋根の猫」
を書いたひととは知っていたが、読んだことはなかった。
「最後の金時計」という劇は、年老いた靴のセールスマンが、
これまで自分がどんなに仕事を一所懸命したか、
いろんな苦労話を若いセールスマンにして、
最後に、成績優秀で靴の販売会社からもらった金時計を
うれしそうに見せる、というものだった。
しかし、時代は変わってしまい、
年老いたセールスマンのやりかたは古くなり、
若いセールスマンのほうが、今は成績がよかった。
老セールスマンをMが演じ、
若いセールスマンを私がやることになった。
練習は厳しかった。
私は芝居が初体験なのに、
演出をするKは、本気で私を怒った。
毎回、練習には怒鳴られた。
「茨城訛りのアメリカ人なんかいるかー」
というのが一番きつかった。
私は、日常生活でもイントネーションが茨城風だが、
芝居の稽古で緊張するとよけい酷くなった。
演技のことなら直しようもあるが、
訛りは、すぐには直せなかった。
泣きたい気持ちで練習をしていた。
途中なんどやめようとしたか分からない。
それでも、練習が終わってみんなと居酒屋で飲むと、
もう少しがんばるか、という気分になり、続けた。

公演は、中野のある喫茶店を貸し切り、
そこのイスやテーブルを外に出して劇場にした。
客は床に坐って観るのです。
10時に閉店してからその作業をした。
たいへんだった。
公演は、日曜日の昼と夜の2回やった。
私は、東京にいる何人かにチケットを送った。
本当は売らなければならなかったが、
私はお金は取れなかった。
「売らなければいい芝居はできない」
とKはいっていたが、私にはできなかった。

昼の公演に友人が何人か来てくれた。
私は一所懸命やろうと緊張した。
お客の前で、
セリフをきちんといえるかどうか不安だった。
しかし芝居が始まると、私は思ってたほどではなく、
うまくセリフをいえた。それなりに演技もできた。
ところが、何年も演劇をしてきたMがとちった。
途中のあるところで、
金時計を見せたあとのセリフをいってしまった。
後戻りはできない。
私はとっさにつなぎのセリフをいって、芝居は終わった。
観ていたお客は、それなりに違和感を感じなかったと思う。
しかし、「最後の金時計」という芝居なのに、
金時計が出てこなかった。
40分ほどの芝居が、30分で終わってしまった。
「あそこでつないでくれて助かったよ。
 本当にごめん。夜はちゃんとやるよ」
舞台から降りて、Mは私に詫びた。
昼の公演が終わり、喫茶店の外で友人と話した。
みんなは「よかったよ」といってくれたが、
私は不本意だった。
夜の公演は、脚本どうりにできた。
でも、私の友人はだれも来ていなかった。
私はその公演のあと、中野勤演をやめた。

 

コメント
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