代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

真田丸第一回の感想など ―昌幸は勝頼を最後まで救おうとしていた

2016年01月10日 | 真田戦記 その深層
  真田丸の第一回の感想など簡単に書いておきます。(毎回書くとは限りませんが・・・・)  武田勝頼役の平岳大さんがあまりにもすばらしく、武田ファンの方々は感涙ものだったのではないかと思います。わずか二回しか出てこないのが本当に惜しいと思いました。2年前の天正8年ころからドラマを始めてくれれば、もっと勝頼の姿が見れたのに・・・と少し残念に思えました。  真田昌幸の草刈正雄さんと、穴山梅雪の榎本孝 . . . 本文を読む

信繁から幸村への改名は堺雅人さんと三谷幸喜さんの判断に委ねよう

2016年01月10日 | 真田戦記 その深層
おそらく、現在の日本において、もっともよく真田信繁の気持を理解しているうちの二人が、堺雅人さんと三谷幸喜さんだと思う。いまの堺雅人さんは、ほぼ真田信繁になっている。1月2日放映のブラタモリで、上杉方の虚空蔵山城を見て、「あそこに上杉がいたのか。怖い、怖い」と言っておられた。出てくる発言が、堺雅人の発言ではなく、真田信繁の発言になっているのだ。堺雅人ならば上杉軍が籠っている山城を見ても怖いと思わないはずだが、真田信繁ならば実際に怖いと思うはずだからである。プロの役者というのはこうなのだと敬服した。九度山での配流暮らしを経験してみて、大坂から声がかかったとき、果たして信繁のまま入城するか、それとも改名する気になるかどうか、三谷さんと堺さんにその気持ちを聞いてみるのがいちばん早そうである。すべての判断は三谷さんと堺さんに委ねるのがよいだろう。 . . . 本文を読む

ブラタモリの真田丸特番の感想など

2016年01月05日 | 真田戦記 その深層
 年が明けたら真田関係の番組が多くて視聴しきれないほどだった。  大河ドラマの真田丸、ドラマの予告編を見る限り、草刈正雄さんの真田昌幸が超カッコイイ! 真田太平記の真田幸村が、それから30年経って真田昌幸になって再登場というのは感無量である。何でも、草刈さん、脚本の三谷幸喜さんと「丹波哲郎さんの真田昌幸を超えよう」と誓いあったそうである。撮影中も、丹波さんが降りてきて近くにいるのを感じながら演じ . . . 本文を読む

来年のニッポンに赤い風は吹くだろうか?

2015年12月16日 | 真田戦記 その深層
テレビや映画で描かれる大坂の陣の真田隊の旗には必ず六文銭が描かれている。あれはウソである。大坂夏の陣における真田隊は、夏の陣図屏風で以下のように描かれている。一目瞭然であるが、隊旗は無地の赤旗であり、六文銭は使われていない。 真剣に歴史を再現しようというのであれば、そして何よりも、この旗にこめた真田信繁本人の「想い」をドラマで再現し、それを伝えようというのであれば、旗は無地の赤旗でなければならない。 幸村の甥である信吉と信政の真田隊も、徳川の家臣となった叔父の真田信伊の真田隊も六文銭の旗を使っているから、それに配慮して、幸村は六文銭の旗印を使わなかったのだ。 . . . 本文を読む

真田幸隆と昌幸が愛した温泉と景観がまもなく沈む

2015年11月07日 | 真田戦記 その深層
 来年度の大河ドラマは「真田丸」。しかし、よりによってその年に八ッ場ダムの本体工事が進行し、真田幸隆・昌幸・信幸・信繁が愛した川原湯の温泉街と、忍びの技術ももった職能集団である吾妻衆が修行したであろう吾妻渓谷の景観が破壊される。  来年の大河ドラマでは、真田昌幸が執念を燃やした吾妻領・沼田領をめぐる抗争がドラマの序盤の焦点になろう。平山優氏の『天正壬午の乱』ならびに『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の . . . 本文を読む

真田は「過大」ではなく「過小」評価されている

2015年10月10日 | 真田戦記 その深層
政治ブログであるにも関わらず、私が真田家についていろいろと書くのは、徳川・北条・上杉という諸大国に包囲されながら一歩もひるまずに対等以上に伍して、大国の理不尽な要求に屈することなく、小国の独立を守り抜いたその姿勢から、アメリカ・中国・ロシアという大国に囲まれた日本が今後学ぶべき点が多いと思うからだ。  決して地元の人間だからという理由だけではない(^_^;)  それに対して、民族排外主義を煽り立てる割に、覇権国にはひたすら屈従して卑屈なまでに言いなりになり、虎の威を借りて虚勢を張って弱者をいじめるのには熱心という明治から引き続く長州レジームはまさに亡国の根源である。長州から真田への大河ドラマの交代は、日本の針路に関して何らかの示唆を、多くの日本人に与えるのではなかろうか。 . . . 本文を読む

大河「真田丸」で現在の上田城の映像を使ってよいのか問題の考察

2015年09月05日 | 真田戦記 その深層
 大河ドラマ「真田丸」の応援キャンペーンに関連して話題を一つ提供します。本来であればこんなローカル話はブログに書くことでもないのですが、来年の大河ドラマと絡むと世間の関心も高い問題になってきます。現在の上田城の基本構造は真田昌幸が造ったものか、真田家に代わって上田城主になった仙石忠政(仙石秀久の息子)が新たに造ったものか、という問題です。  これは歴史ドラマで真田家を扱う際に発生するセンシティブ . . . 本文を読む

大河ドラマ「真田丸」と天正壬午の乱

2015年08月12日 | 真田戦記 その深層
平山優著『天正壬午の乱(増補改訂版)』(戎光祥出版、2015年)を読んでみた。これは名著である。膨大な史料を渉猟し、これまでその詳細が明らかでなかった「天正壬午の乱」の全容をはじめて描き出した。その躍動的な筆致は、専門的な歴史書であるにもかからわず、下手な小説よりもはるかに面白い。この平山氏が時代考証を担当するということは大河ドラマもすごく期待できる。 旧武田遺領をめぐって北条・徳川・上杉の三戦国大名と真田昌幸・依田信蕃・小笠原貞慶・保科正直・木曽義昌などなど信濃の国衆が虚虚実実の駆け引きを繰り広上杉・徳川・北条の複雑な三カ国抗争という点では、天正壬午の乱は中国の三国志にも比肩されるが、真田・依田・小笠原・保科以下、信濃の国衆が三大国を翻弄し、国衆が各々勢力を維持・拡大している点など、三国志よりも面白い歴史ドラマとすらいえる。アメリカ、中国、ロシアという大国のはざまにいる日本が進むべき途を考える上でも、天正壬午の乱における信濃国衆の戦略を学ぶ意義は大きい。 . . . 本文を読む

大河「真田丸」が描こうとするもの ―室賀氏の紹介などをかねて

2015年08月07日 | 真田戦記 その深層
大河ドラマ「真田丸」の主要登場人物の顔ぶれをみると、脚本の三谷幸喜さん、戦国の村々で文字通り「一所懸命」に生きていた地侍層など民衆の姿を躍動的に描き出そうとしているのだということが伺われる。 ちなみに、真田昌幸は、豊臣政権下でも検地を実施せず、兵農分離も行わず、元来からの地侍の土地所有権はそのまま、石高制も採用せず貫高制のままであった。以前の研究では、在地掌握ができていない真田領の「後進性の現れ」と指摘されることも多かった。私は、真田昌幸は「人民平等」の意識をもって意図的にそうしていたのだと思う。だから二度の対徳川戦では百姓・商人・職人も含めた全領民が籠城戦に参加ないし協力するという体制が可能だったのだ。そんな戦国の人々の郷土愛と人間愛を描くのが、ドラマの意図なのではないだろうか。 . . . 本文を読む

大河「真田丸」に関白秀次の娘は登場するのか?

2014年11月03日 | 真田戦記 その深層
 全員斬首されたはずの豊臣秀次の子供たちであるが、なぜか秀次正室の娘が二人生き残って、そのうちの一人は後に真田信繁(幸村)の側室になった。信繁の側室の隆清院がそれである。しかしドラマでは幸村と秀次の娘は描かれたことがないようである。  秀吉による秀次一族の皆殺し政策の中にあって、なぜ隆清院は生き残ることができたのか? そして、どのような経緯で、隆清院は真田信繁の側室になったのか、興味は尽きない。発覚すれば自身にとっても不都合であろうに、罪人・秀次の娘をかくまったという史実は、真田信繁の優しい人間性を物語る重要なエピソードであるように思える。秀次の娘をドラマに登場させると格段に面白くなるだろう。 . . . 本文を読む

家康が秀吉の軍門に降ったのは真田昌幸に負けたから

2014年08月29日 | 真田戦記 その深層
 外交の格言として「戦場で失ったものを外交交渉のテーブルで取り返すことはできない」というものがある。これは現代のみならず、日本の戦国時代にだって同様に通用する。 ★歴史学者の解釈(単に仮説にすぎないが定説のようになっている):   天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いでは、家康は秀吉に痛打を与え、軍事的なアドバンテージを得た。であるにも関わらず、家康が秀吉に臣従せざるを得なくなった。これは秀吉の外交手腕の勝利である。 ★非専門家の解釈(仮説):  小牧・長久手で勝利した家康が秀吉の軍門に降ったのは、天正13(1585)年8月に徳川軍が上田合戦で真田昌幸に惨敗し、秀吉に対する軍事的アドバンテージを失ってしまったからである。  . . . 本文を読む

真田濠の謎(東京新聞の記事紹介)

2014年08月03日 | 真田戦記 その深層
 前回の記事で江戸城天守について書いた。江戸城続きで江戸城外堀について書く。以前、このブログ上で「江戸城の真田丸」という記事を書いた。(この記事)その続報。  だいぶ前だが、7月14日の東京新聞の特報面に「江戸城にも真田の守り」という記事が掲載された。紹介させていただきます。  じつは、東京新聞の特報部の篠ケ瀬記者と別件でやりとりしていた際に、私の書いたブログ記事を紹介したところ、「それは面 . . . 本文を読む

「真田丸」は「真田太平記」を超えられる

2014年06月28日 | 真田戦記 その深層
「真田太平記」はたしかに傑作である。しかし「真田太平記」を超えるドラマを作ることは可能であるし、作って欲しい。池波正太郎は、わりと歴史学者による平板な歴史解釈を踏襲している。歴史のリアリティを追求するだけで、ドラマは格段に面白くなるだろう。  たとえば「真田太平記」では、第二次上田合戦で徳川秀忠軍を破った後、真田昌幸は上田城から一歩も動かず何の軍事行動も起こさないという設定になっている。これは間違いである。西軍のシナリオはこうだった。上杉軍は越後に侵攻して旧領を奪還する。真田軍は川中島の森忠政を倒す。そうなれば上杉=真田合同軍の関東進撃が可能になる。真田昌幸の目標は江戸城攻めだったのだ。 . . . 本文を読む

江戸城の真田丸

2014年05月25日 | 真田戦記 その深層
大阪城における真田幸村と江戸城における真田信之、何かパラレルになっているように感じられるのは私だけであろうか?  大坂城の最大の弱点は惣構えの外に広がる南側の台地であった。この台地に真田丸を構築して鉄壁の防御を敷いたのが真田幸村である。大坂冬の陣では、真田丸のさらに外側にある管制高地である篠山をめぐって攻防が繰り広げられていた。幸村は、罠を仕掛けて篠山をわざと敵に明け渡し、挑発して真田丸を攻撃させ、大損害を与えたのだった。  江戸城の惣構えである外堀の工事が行われたのは、大坂の陣から20年の後、徳川家光の治世である寛永年間であった。江戸城の最大の弱点である西側台地の掘削工事を、あえて真田幸村の兄の信之に割り振った公儀側の思惑は何だったのであろうか? . . . 本文を読む

真田信繁は400年前に真田幸村と名を変えた

2014年04月01日 | 真田戦記 その深層
あまりこのブログの趣旨と関係ないが、真田信繁と真田幸村という二つの名前について一言のべたい。信繁は、大坂の陣以降は幸村と改名したのだ。何としても実家に迷惑がかかることがないことを第一に願っている繊細な幸村の性格を考えれば、実家に多大な迷惑が及ぶ「信繁」という名を使い続けるわけがないのは明らかであろう。幸村は、上田の親族に送った手紙でこそ、さすがに信繁と表記していたが、配流中にお世話になった高野山の蓮華定院に大坂城から送った手紙にははっきりと「幸村」と表記されていたというのである。江戸時代に松代藩士の柘植宗辰がこの文書を転写しているのだが、残念ながらその後手紙は失われてしまって、原文が残っていない。 . . . 本文を読む