先日12月14日の八ッ場ダム住民訴訟10周年集会で尾田栄章さん(元建設相河川局長)の講演「河川法改正が目指したもの」を聞いてきた。尾田さんの講演の動画がyoutubeにアップされている。多く方々に聞いて欲しいので共有させていただく。
尾田さん、何がすばらしいと言っても、河川局長まで務めた上級官僚であるにも関わらず、天下りを一切していない。河川局長から退任後は、環境NPOの代表として河川環境再生のための活動をし、現在は福島県の復興支援に当たるため、一般公募に応募して、広野町の任期付き職員をしている。元キャリア上級官僚が、天下りではなく、一般公募枠で任期付きの一職員として復興支援に当たっているのだ。退職後の美味しい天下り生活をもっぱらの楽しみにしている多くの官僚たちに、尾田さんの生き方から学んでほしいと願う。
「日経コンストラクション」の以下の記事参照
http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/const/column/20130813/628309/
改正河川法に込められた志
尾田さんは、河川法に住民参加規定を盛り込んだ1997年の改正河川法を策定した当時の河川局長。当時の建設大臣は亀井静香さん。改正河川法には、明治以来の「川はお上のもの」という上意下達文化を抜本的に変えようとした、多くの人々の志がこめられていた。
河川法に「住民参加」が盛り込まれたのは、全国各地の市民の願いと共に、亀井さんや尾田さんのような志のある政治家や官僚の意気込みもこめられていたのだ。尾田さんの話を聞いて、亀井建設大臣と尾田河川局長とのあいだに水魚の交わりのごとき信頼関係があり、その中で明治以来の大改正が行われたということはよくわかった。
しかしながら、現在、その改正河川法は機能していない。「関係住民の意見を反映させる」という第16条の条文は、ほとんどの一級河川の河川整備計画の策定において、ほぼ死文化してしまったといってよい。なぜそうなってしまったのか? その理由が知りたくて、私も尾田さんの話を聞いていた。
なぜ踏みにじられたのか? ―尾田さんの回答
尾田さんは、それぞれの川ごとの特性を活かしながら個性のあるオンリーワンの河川整備計画を策定する、そのためには住民参加による合意形成は欠かせないと考えていたという。
それが河川法改正に込められた理念であるにも関わらず、現在そうなっていないのは何故なのか? 質疑応答の際、会場からは当然そういう質問が飛んだ。尾田さんは、「どうしてそうなっていないのか、私にも分からない。私は、福島にいて、浦島太郎状態」とおっしゃりつつも、「流域の住民たちが、河川整備計画の策定の場を有効に使えていないのではないか。ダムに賛成か反対かというその議論ばかりになってしまって、有効な話し合いができていないのでは」と、住民に対する苦言も呈しておられた。尾田さんでさえ、「八ッ場ダムは必要だ」と言い、そのドグマから抜け出せていなかった。
なぜ住民参加できないのか? ―私の考え
なぜ住民参加が踏みにじられるのか。理由は明らかであるように思える。尾田さんですら、以下のように強調しておられた。
「河川管理者は、計画高水流量(基本高水流量―ダムによる調整流量)を流下させられるよう、国力の許す範囲で着実に河川管理施設を整備せねばならない」と。
尾田さんでさえ、このドグマに縛られているのだ。
基本高水流量・計画高水流量という数字は、「住民参加ではなく科学的に専門家が定めるもの」とされ、彼らが定めた数値が、河川整備計画の策定の際に天から降ってくる。「その数字を流下させるためにはダムが必要」というロジックになる。
「計画高水流量を流下させる」というドグマは、住民参加の余地なく問答無用で押し付けられる。これでは、住民参加で川ごとにオンリーワンの河川環境を整備するための有効な議論などできるわけもないのだ。これが住民参加を拒んでいる真の理由である。
京都大学名誉教授の今本博健先生は、基本高水流量に縛られない「非定量治水」を訴えている。非定量治水に関しては、以下の資料参照。
http://yamba-net.org/doc/20120529.pdf
しかし、国交省は、これが住民参加の余地なく定めなければならない絶対の科学的数字あり、「河川の憲法」であるかのように言い、基本高水治水のドグマを崩そうとしない。
私たちがこの間取り組んできたのも、基本高水流量という数字に何の科学的根拠もないこと、「最初にダムありき」で利権にたかる官・業・学の利益相反トライアングルがねつ造した虚構の数字であるということだった。これは真実が万民に明らかになるまで、今後も訴え続ける。利権にたかる御用学者たちを許すことはできない。
尾田さん、何がすばらしいと言っても、河川局長まで務めた上級官僚であるにも関わらず、天下りを一切していない。河川局長から退任後は、環境NPOの代表として河川環境再生のための活動をし、現在は福島県の復興支援に当たるため、一般公募に応募して、広野町の任期付き職員をしている。元キャリア上級官僚が、天下りではなく、一般公募枠で任期付きの一職員として復興支援に当たっているのだ。退職後の美味しい天下り生活をもっぱらの楽しみにしている多くの官僚たちに、尾田さんの生き方から学んでほしいと願う。
「日経コンストラクション」の以下の記事参照
http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/const/column/20130813/628309/
改正河川法に込められた志
尾田さんは、河川法に住民参加規定を盛り込んだ1997年の改正河川法を策定した当時の河川局長。当時の建設大臣は亀井静香さん。改正河川法には、明治以来の「川はお上のもの」という上意下達文化を抜本的に変えようとした、多くの人々の志がこめられていた。
河川法に「住民参加」が盛り込まれたのは、全国各地の市民の願いと共に、亀井さんや尾田さんのような志のある政治家や官僚の意気込みもこめられていたのだ。尾田さんの話を聞いて、亀井建設大臣と尾田河川局長とのあいだに水魚の交わりのごとき信頼関係があり、その中で明治以来の大改正が行われたということはよくわかった。
しかしながら、現在、その改正河川法は機能していない。「関係住民の意見を反映させる」という第16条の条文は、ほとんどの一級河川の河川整備計画の策定において、ほぼ死文化してしまったといってよい。なぜそうなってしまったのか? その理由が知りたくて、私も尾田さんの話を聞いていた。
なぜ踏みにじられたのか? ―尾田さんの回答
尾田さんは、それぞれの川ごとの特性を活かしながら個性のあるオンリーワンの河川整備計画を策定する、そのためには住民参加による合意形成は欠かせないと考えていたという。
それが河川法改正に込められた理念であるにも関わらず、現在そうなっていないのは何故なのか? 質疑応答の際、会場からは当然そういう質問が飛んだ。尾田さんは、「どうしてそうなっていないのか、私にも分からない。私は、福島にいて、浦島太郎状態」とおっしゃりつつも、「流域の住民たちが、河川整備計画の策定の場を有効に使えていないのではないか。ダムに賛成か反対かというその議論ばかりになってしまって、有効な話し合いができていないのでは」と、住民に対する苦言も呈しておられた。尾田さんでさえ、「八ッ場ダムは必要だ」と言い、そのドグマから抜け出せていなかった。
なぜ住民参加できないのか? ―私の考え
なぜ住民参加が踏みにじられるのか。理由は明らかであるように思える。尾田さんですら、以下のように強調しておられた。
「河川管理者は、計画高水流量(基本高水流量―ダムによる調整流量)を流下させられるよう、国力の許す範囲で着実に河川管理施設を整備せねばならない」と。
尾田さんでさえ、このドグマに縛られているのだ。
基本高水流量・計画高水流量という数字は、「住民参加ではなく科学的に専門家が定めるもの」とされ、彼らが定めた数値が、河川整備計画の策定の際に天から降ってくる。「その数字を流下させるためにはダムが必要」というロジックになる。
「計画高水流量を流下させる」というドグマは、住民参加の余地なく問答無用で押し付けられる。これでは、住民参加で川ごとにオンリーワンの河川環境を整備するための有効な議論などできるわけもないのだ。これが住民参加を拒んでいる真の理由である。
京都大学名誉教授の今本博健先生は、基本高水流量に縛られない「非定量治水」を訴えている。非定量治水に関しては、以下の資料参照。
http://yamba-net.org/doc/20120529.pdf
しかし、国交省は、これが住民参加の余地なく定めなければならない絶対の科学的数字あり、「河川の憲法」であるかのように言い、基本高水治水のドグマを崩そうとしない。
私たちがこの間取り組んできたのも、基本高水流量という数字に何の科学的根拠もないこと、「最初にダムありき」で利権にたかる官・業・学の利益相反トライアングルがねつ造した虚構の数字であるということだった。これは真実が万民に明らかになるまで、今後も訴え続ける。利権にたかる御用学者たちを許すことはできない。