八ッダム裁判の不当判決については昨日書いた。判決文が目も当てられない非論理的な日本語であることは書いた通りだが、読売新聞(群馬版)は「「八ッ場」訴訟 2審もダム必要性認定」と報道していた。下記サイト。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/gunma/news/20130329-OYT8T01944.htm?from=tw
マスコミの「誤報」に関して、詳しくは、まさのあつこさんのブログを参照されたい。
http://seisaku-essay.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/3-0dd8.html
裁判所の悪文を都合よく誤読して、「必要性認定」などと平気でウソを書くマスコミに、唖然として空いた口もふさがらない。
裁判官は、国の計画は合理的であるとは一言も言っていないし、八ッ場ダムに必要性が認められるとも一言も言っていない。
国の計画は合理的でないかも知れないが、住民側はその非合理性を完全に証明できているとは言い難いので、とりあえず八ッ場ダム建設に東京都が公金を支出する行為が違法であるとまでは言えない。
― こういう判決だったのだ。国の計画が合理的でないかも知れないということは裁判所も認めており、ダムの必要性は断じて認定されていない。
判決文の原文は下記サイトに掲載されている。
http://www.yamba.sakura.ne.jp/shiryo/tokyo_k/hanketsu_tokyo.pdf
遺憾なことは、住民側は国の計画が明白に不合理であることを理を尽くして証明していたのに、それが認められなかったことだ。
住民側の非合理性の立証に対して、計画の合理性を立証する責任は都の側にある。都は、計画が合理的であると証明できなかった。
利水に関しては、東京都は反対尋問を放棄している。治水に関しては、法廷で私も証人として洪水流量計算の誤りを立証する陳述を行ったが、東京都の側は何ら反論することはなかった。この時点で行政は負けなのである。
私は法律のことはよく分からないのであるが、論理的に考えれば、こちらの立論に対して、反証する責任は東京都の側にある。不合理性を証明する立論に反論し、計画が合理的であることを証明できない限り、ふつうに考えれば向こうの負けなのだ。
しかるに日本の裁判所は、こうした常識的な論理が分からないらしい。
治水に関して、判決文は(八ッ場ダムによって東京都が)「仮に『著しく利益を受ける』ものではないと認められる余地があるとしても、これが明白であるとは認められない」と書く。
「何だこれは」と思う。
裁判所も住民側の主張が間違っているとは認定できない(東京都は反対尋問すら放棄している)。よって、住民の主張が正しいかも知れないが、「これが明白であるとは認められない」という。何だろう、この理屈は。私には全く訳が分からない。
「これが明白であるとは認められない」というのは、裁判官の主観(=妄想)である。彼らがそう思い込みたいだけである。いったい何をどこまで証明すれば「明白」といえるのか、何ら客観的基準も示されていない。
かりに、住民側が計画の不合理性を99%証明していても、100%は証明できていないので、「明白であるとは認められない」というのであれば、住民側にあと何が足りないのかを論理的に説明するのは裁判所の責任であろう。しかるに、住民側の立証のどこが欠けているから「明白とは認められない」というのか、根拠が全く書かれていないのだ。何かを主張するのであれば、その根拠を説明するのは論理学のイロハであろう。
こんなバカげた文章、見せられる方はあきれてものが言えない。
利水に関する、根拠なしの判決文の問題点はkajiwara氏の下記ブログも参照されたい。
http://blogs.yahoo.co.jp/kajiken76xyz/61848356.html
どちらの主張が理にかなっているかで、どちらが合理的かを客観的に判断するのかが裁判所の仕事ではないのか?
「地球に人類が住めなくなるかも知れないので、国家予算をすべて注ぎ込んで火星への移住計画を立てよう」と国が計画したとする。「地球は当面滅びないからその予算はムダである」という住民訴訟が起こったとしよう。しかし、もちろん「地球は当面滅びない」と100%断言することはできない。それでも、裁判所は「地球は当面滅びないと認める余地はあるが、明白とまでは認められない」と言って、行政に勝たせるのであろうか?
実際、利水に関しては、東京の水需要が今後反転して伸びていく可能性など、全くゼロとは言えないにせよ、全面核戦争で人類が滅亡することより低い確率でしか発生しないだろう。kajiwara氏の前掲ブログより以下の図を掲載する。都の予測がいかにナンセンスか分かるだろう。確率的に限りなくゼロに近いのだ。それでも100%と言えない限り、「明白であるとは認められない」のだそうだ。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/gunma/news/20130329-OYT8T01944.htm?from=tw
マスコミの「誤報」に関して、詳しくは、まさのあつこさんのブログを参照されたい。
http://seisaku-essay.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/3-0dd8.html
裁判所の悪文を都合よく誤読して、「必要性認定」などと平気でウソを書くマスコミに、唖然として空いた口もふさがらない。
裁判官は、国の計画は合理的であるとは一言も言っていないし、八ッ場ダムに必要性が認められるとも一言も言っていない。
国の計画は合理的でないかも知れないが、住民側はその非合理性を完全に証明できているとは言い難いので、とりあえず八ッ場ダム建設に東京都が公金を支出する行為が違法であるとまでは言えない。
― こういう判決だったのだ。国の計画が合理的でないかも知れないということは裁判所も認めており、ダムの必要性は断じて認定されていない。
判決文の原文は下記サイトに掲載されている。
http://www.yamba.sakura.ne.jp/shiryo/tokyo_k/hanketsu_tokyo.pdf
遺憾なことは、住民側は国の計画が明白に不合理であることを理を尽くして証明していたのに、それが認められなかったことだ。
住民側の非合理性の立証に対して、計画の合理性を立証する責任は都の側にある。都は、計画が合理的であると証明できなかった。
利水に関しては、東京都は反対尋問を放棄している。治水に関しては、法廷で私も証人として洪水流量計算の誤りを立証する陳述を行ったが、東京都の側は何ら反論することはなかった。この時点で行政は負けなのである。
私は法律のことはよく分からないのであるが、論理的に考えれば、こちらの立論に対して、反証する責任は東京都の側にある。不合理性を証明する立論に反論し、計画が合理的であることを証明できない限り、ふつうに考えれば向こうの負けなのだ。
しかるに日本の裁判所は、こうした常識的な論理が分からないらしい。
治水に関して、判決文は(八ッ場ダムによって東京都が)「仮に『著しく利益を受ける』ものではないと認められる余地があるとしても、これが明白であるとは認められない」と書く。
「何だこれは」と思う。
裁判所も住民側の主張が間違っているとは認定できない(東京都は反対尋問すら放棄している)。よって、住民の主張が正しいかも知れないが、「これが明白であるとは認められない」という。何だろう、この理屈は。私には全く訳が分からない。
「これが明白であるとは認められない」というのは、裁判官の主観(=妄想)である。彼らがそう思い込みたいだけである。いったい何をどこまで証明すれば「明白」といえるのか、何ら客観的基準も示されていない。
かりに、住民側が計画の不合理性を99%証明していても、100%は証明できていないので、「明白であるとは認められない」というのであれば、住民側にあと何が足りないのかを論理的に説明するのは裁判所の責任であろう。しかるに、住民側の立証のどこが欠けているから「明白とは認められない」というのか、根拠が全く書かれていないのだ。何かを主張するのであれば、その根拠を説明するのは論理学のイロハであろう。
こんなバカげた文章、見せられる方はあきれてものが言えない。
利水に関する、根拠なしの判決文の問題点はkajiwara氏の下記ブログも参照されたい。
http://blogs.yahoo.co.jp/kajiken76xyz/61848356.html
どちらの主張が理にかなっているかで、どちらが合理的かを客観的に判断するのかが裁判所の仕事ではないのか?
「地球に人類が住めなくなるかも知れないので、国家予算をすべて注ぎ込んで火星への移住計画を立てよう」と国が計画したとする。「地球は当面滅びないからその予算はムダである」という住民訴訟が起こったとしよう。しかし、もちろん「地球は当面滅びない」と100%断言することはできない。それでも、裁判所は「地球は当面滅びないと認める余地はあるが、明白とまでは認められない」と言って、行政に勝たせるのであろうか?
実際、利水に関しては、東京の水需要が今後反転して伸びていく可能性など、全くゼロとは言えないにせよ、全面核戦争で人類が滅亡することより低い確率でしか発生しないだろう。kajiwara氏の前掲ブログより以下の図を掲載する。都の予測がいかにナンセンスか分かるだろう。確率的に限りなくゼロに近いのだ。それでも100%と言えない限り、「明白であるとは認められない」のだそうだ。