この間、仕事が多忙で新規投稿とコメントへの返信ができない状態にあります。すいません。
そうこうしている間に、すばらしいコメントが次々に寄せられてきております。そこでいくつかのコメントを新しいエントリーとして紹介させていただきます。まず薩長公英陰謀論者さんが前の記事に寄せられた、長州右派と長州左派の歴史観の共通性についての分析から。
水色字は薩長公英陰謀論者さんのコメントで、白字は私のコメントです。
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長州右派と長州左派の維新観の共通点について。 (薩長公英陰謀論者)2015-06-14 20:18:35
長州右派と長州左派は、「欧米モデルの近代化主義」すなわち、「社会の物質的生産諸力の発展」を世界観・史観の基底に置くことにおいて共通しています。文字どおり「経済成長主義」と言い換えることができます。
前近代的で停滞した社会である江戸期が解体され、「鎖国」すなわち国ごと鎖をかけられた生産諸力の発展可能性が解放されるべきであった、という認識は彼ら双方にとって自明のこととして共有されています。
長州右派は明治維新を、自覚的な革新勢力が頑迷固陋な守旧勢力支配を打破して、世界史的に停滞後進にアジアの中で唯一の先進強国を築くためのものであったとして、倒幕維新という政治的変革が近代的国力と国民(じつは「臣民」)をつくりだしたと考えます。
ウィキペディアがソースであることを先に白状して、カール・マルクスの『経済学批判』序言の唯物史観の定義におけるマルクスの言葉を振り回しますと、明治維新・倒幕維新は上部構造・生産関係の政治的変革によって社会の物質的生産諸力すなわち下部構造の発展創造をはかったものであることになります。
すなわち長州左派は「社会の物質的生産諸力すなわち下部構造の発展が、その桎梏となった生産関係とその上に立つ社会構造を破壊・変革するに至ったものが明治維新である」というマルクスの唯物史観をもって明治維新を革命と呼んでいるのではありません。
マルクスは『経済学批判』序言のなかで「一つの社会構成は、すべての生産諸力がその中ではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない」と言っているとのことですから。
鵜飼政志氏が『明治維新の国際舞台』(有志舎、2014年)の巻頭で言及される「国民の物語としての明治維新」、近代日本の始まりであり、アジアで最初に近代化・工業化を達成した後進国型近代化のモデルである、という認識は、記憶によれば、60年安保騒動後に在日大使として赴任し当時の日本の反米的風潮に対する文化的思想的工作に集中して大成功をおさめたエドウィン・O・ライシャワーの日本近代化論が生み出し定着化させたものだと思います。
鵜飼氏著書の「はじめに」において言及されている(p19以下)石井孝氏が終生批判し続けた芝原拓自氏を、「主観主義的左派史観」の典型として、芝原氏著『世界史のなかの明治維新』(岩波新書、1977年)を見ますと、芝原氏が明治国家を「絶対主義的国家形態」と考えていたことがわかります(同書:p92)。
石井孝氏の『明治維新と外圧』(吉川弘文館、平成5年)によれば、同氏はマルキシズム理論家で自由民権運動の専門的研究者であった下山三郎氏の『明治維新研究史論』(御茶の水書房、1968年)の結論である明治国家絶対主義論に同意しておられます(石井氏著、p26)。
さらに、おなじくマルキシズム理論家で西洋史家・政治学者である中木康夫氏の『フランス絶対王政の構造』(未来社、1963年)にもとづいて、絶対主義国家を「半封建的土地所有を固有の物質的基礎とする最終段階における封建国家で国王に直属する強力な官僚機構の存在が特徴的」であるとされます。
そして、明治国家が「金納地租に表現される変質した領主的土地保有と寄生地主的土地保有」と天皇直属の強力な官僚機構としての「有司専制」によってまさに「特殊日本的絶対主義的国家機構」を実現したと結論づけておられます。
なお、中木康夫氏著書を見ますと、国王直属の強力な常備軍が特権的存在として特権的官僚とともに独裁権力の行使をささえるという指摘があり(同書p37)これを看過することはできないと思います。飛躍しますと、戦後現在に至るまで日本における「特権的存在である強力な常備軍」にあたるのは自衛隊ではなくまさに沖縄と首都圏、横田・横須賀の在日米軍であることがすぐにアタマを横切ります。
それは措き、明治維新を「ブルジョア革命」と考えたという戦前の労農派の流れを汲むマルキシズム理論家が歴史家にいるのかどうか浅学でわかりませんが、眼に触れる限りの「左派史家」は明治国家を言わば「フランス革命以前の反動的国家にあたる」と考えていたわけです。
それにかかわらず、かの有名な吉田某をはじめ、反動的国家をもたらした人びとを革命的・進歩的と考えてしまうゆえんが、現代の宮地正人氏を含めて、鵜飼政志氏の言う「主観主義@石井孝氏」であったということでしょうか。
石井孝氏の言う「主観主義」すなわち、「人民史観」であれ「皇国史観」であれ所与の枠組みに現実世界を切り分けて当てはめてしまう「プロクルステスの寝台@関さん」症候群が、現在の長州左派右派問わず、ライシャワーの日本近代化論から世界システム論としてのグローバル化論に至る流れにの感染症となってあらわれているということだと睨みます。
後出し内心忸怩にて弁じますと、明治維新は複雑系的展開を超える国際的振付によってなされたものであろうという感じがあらためて深くいたしました。日本の植民地化を明治維新が救ったとして天皇制絶対主義国家を擁護した芝原氏(鵜飼氏著;p15)を長州左派として、その『世界史のなかの明治維新』(岩波新書、1977年)から引用します(同書;p77以下):
<引用開始>
・・・それにしても内乱の開始いらい、イギリスによる新政府への好意的な態度は一貫している。その理由は、直接には、幕末以来の幕府への不信・・・いまやそれぞれの藩内で実権を掌握したかれらによる国内改革を後見し、対日貿易の基盤をより拡大しながら、同時にイギリスの政治的影響力をつよめることが、そのねらいであったにちがいない。
そのうえ、このころまでにイギリスは、かの「砲艦政策」や直接的征服にたいして、世界の各地であいついで大きな代償を支払っていた。・・・中国や日本にはてしない大軍を派遣することへの懸念は、上海駐在領事から初代駐日公使になったオールコックの記録『大君の都』などでも、くりかえしのべられている。また、それゆえにオールコックは、日本においてイギリスが望むような変革 ー 市場の自由な開放とそれを容認する安定した制度や観念の樹立(投稿者注:TPPを想起させますね)ー は、下からの圧力や外からの強制によるよりも、上からの改良によることが必要であると強調しているのである。
<引用以上>
・・・と。おなじくp37において芝原氏は「『外圧』はたんなる外的要因ではなかった。軍事的・政治的圧力に媒介された「自由貿易」そのものが、日本の在来の生産様式の骨組みをも変革し再編するほどの力をもって、日本の社会経済の内部に決定的な影響をあたえずにはおかなかったのである」と、まさにTPPと日米軍事同盟(集団的自衛権による対外参戦)に振り回される今現在にあてまる指摘をしています。
あらためて、明治維新とは「カラー革命」の嚆矢的実験であったという観を深くします。
*********************
西洋人の中で、日本の明治維新を成功した後発型近代化モデルとして捉えていたという点で、わたしが印象に残っているのは、ライシャワーの弟子でもあり、安藤昌益を発掘して世界に紹介した学者としても知られる、カナダ人の歴史家であり外交官でもあったハーバード・ノーマンです。(ノーマンの『日本の兵士と農民』など)
マッカーシズムの嵐の中で、ノーマンはソ連のスパイの嫌疑をかけられれて自殺に追い込まれていますが、西洋人の左派学者による後発資本主義国の成功した近代化モデルとしての明治維新論という点では、彼の史論がプロトタイプかなとも思えます。
ノーマンやライシャワーの明治維新観というのは、講座派か労農派かといわれれば、労農派のそれに近かったようにも思えます。はるか昔に読んだきりなので、記憶も定かではありませんが。
わたしのイメージしている「長州左派」は講座派のことであり、明治維新をブルジョア革命と見る労農派にはあまり長州的な匂いを感じません。そういえば戦前の講座派の代表的論客だった福本和夫も山口高等商業学校(現・山口大学)教授でしたっけ(生まれは鳥取ですが)。
>「左派史家」は明治国家を言わば「フランス革命以前の反動的国家にあたる」と考えていたわけです。
>それにかかわらず、かの有名な吉田某をはじめ、反動的国家をもたらした人びとを革命的・進歩的と考えてしまうゆえんが
まさにこの点が、長州左派(講座派)の最大の矛盾点といえるでしょうか。
長州右派と長州左派の共通点というのは、小難しい学術的な論点という意味のみならず、自派の考えを絶対化し、頑固で柔軟性に欠ける点、不寛容な点、他派に対し容赦なく執拗な攻撃を浴びせかける点、イデオロギーのためならば人命も軽んじる点、ひとたび賊・裏切り者と規定すれば死して後も絶対に許さない点(長州=靖国神社における東北・薩摩の扱い、野坂参三氏のように共産党を除名された人物に対するその後の冷たい扱い・・・・)といった精神的・組織的体質に濃厚に見られると思います。この辺が非日本的ですよね。
長州人の野坂参三氏に関しては、自分が党幹部としてそのような党の組織体質を作ってきながら、最後にはその組織体質によって自分が葬られてしまいました。自業自得の側面はありますが、かわいそうな話です。それを「かわいそう」と思わないのが長州的といえるでしょうか。もっとも共産党はだんだん幹部から長州色は消えているようにも見えますので、柔軟性を身につけ、非長州的な組織に脱皮して欲しいものです。自民党の清和会に関しては、抜きがたく徹底的に長州的な体質ですから改革は不可能であり、すみやかに政権の座からご退場願うしかないと思います。
もっとも薩長公英さんが引用されている箇所における講座派の芝原氏の主張は、相当に的を得ていることも事実と思います。その辺は是々非々に見ていかねばなりませんね。
「外圧」を相対的に考察している鵜飼氏の史論は、薩長公英さんの史論とはだいぶ差異も大きいのではないしょうか。わたしも、鵜飼氏が1866年の関税率引き下げの「江戸協約」のインパクトを軽視しているように見える点など、違和感を感じる部分はあります。前の記事は、明治維新の物語の左右の共通性という序論の部分を紹介したのみです。
ちなみに、石井孝氏は、日本をイギリス製品の市場にしようとして結ばせた江戸協約にこめたイギリスの意図を明快に分析していました(石井孝『増訂・明治維新の国際的環境』吉川弘文館、1966年)。
「外圧」の評価などは難しい問題で、またじっくりと考えさせていただきます。とりとめのないコメントになってしまい申し訳ございません。
そうこうしている間に、すばらしいコメントが次々に寄せられてきております。そこでいくつかのコメントを新しいエントリーとして紹介させていただきます。まず薩長公英陰謀論者さんが前の記事に寄せられた、長州右派と長州左派の歴史観の共通性についての分析から。
水色字は薩長公英陰謀論者さんのコメントで、白字は私のコメントです。
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長州右派と長州左派の維新観の共通点について。 (薩長公英陰謀論者)2015-06-14 20:18:35
長州右派と長州左派は、「欧米モデルの近代化主義」すなわち、「社会の物質的生産諸力の発展」を世界観・史観の基底に置くことにおいて共通しています。文字どおり「経済成長主義」と言い換えることができます。
前近代的で停滞した社会である江戸期が解体され、「鎖国」すなわち国ごと鎖をかけられた生産諸力の発展可能性が解放されるべきであった、という認識は彼ら双方にとって自明のこととして共有されています。
長州右派は明治維新を、自覚的な革新勢力が頑迷固陋な守旧勢力支配を打破して、世界史的に停滞後進にアジアの中で唯一の先進強国を築くためのものであったとして、倒幕維新という政治的変革が近代的国力と国民(じつは「臣民」)をつくりだしたと考えます。
ウィキペディアがソースであることを先に白状して、カール・マルクスの『経済学批判』序言の唯物史観の定義におけるマルクスの言葉を振り回しますと、明治維新・倒幕維新は上部構造・生産関係の政治的変革によって社会の物質的生産諸力すなわち下部構造の発展創造をはかったものであることになります。
すなわち長州左派は「社会の物質的生産諸力すなわち下部構造の発展が、その桎梏となった生産関係とその上に立つ社会構造を破壊・変革するに至ったものが明治維新である」というマルクスの唯物史観をもって明治維新を革命と呼んでいるのではありません。
マルクスは『経済学批判』序言のなかで「一つの社会構成は、すべての生産諸力がその中ではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない」と言っているとのことですから。
鵜飼政志氏が『明治維新の国際舞台』(有志舎、2014年)の巻頭で言及される「国民の物語としての明治維新」、近代日本の始まりであり、アジアで最初に近代化・工業化を達成した後進国型近代化のモデルである、という認識は、記憶によれば、60年安保騒動後に在日大使として赴任し当時の日本の反米的風潮に対する文化的思想的工作に集中して大成功をおさめたエドウィン・O・ライシャワーの日本近代化論が生み出し定着化させたものだと思います。
鵜飼氏著書の「はじめに」において言及されている(p19以下)石井孝氏が終生批判し続けた芝原拓自氏を、「主観主義的左派史観」の典型として、芝原氏著『世界史のなかの明治維新』(岩波新書、1977年)を見ますと、芝原氏が明治国家を「絶対主義的国家形態」と考えていたことがわかります(同書:p92)。
石井孝氏の『明治維新と外圧』(吉川弘文館、平成5年)によれば、同氏はマルキシズム理論家で自由民権運動の専門的研究者であった下山三郎氏の『明治維新研究史論』(御茶の水書房、1968年)の結論である明治国家絶対主義論に同意しておられます(石井氏著、p26)。
さらに、おなじくマルキシズム理論家で西洋史家・政治学者である中木康夫氏の『フランス絶対王政の構造』(未来社、1963年)にもとづいて、絶対主義国家を「半封建的土地所有を固有の物質的基礎とする最終段階における封建国家で国王に直属する強力な官僚機構の存在が特徴的」であるとされます。
そして、明治国家が「金納地租に表現される変質した領主的土地保有と寄生地主的土地保有」と天皇直属の強力な官僚機構としての「有司専制」によってまさに「特殊日本的絶対主義的国家機構」を実現したと結論づけておられます。
なお、中木康夫氏著書を見ますと、国王直属の強力な常備軍が特権的存在として特権的官僚とともに独裁権力の行使をささえるという指摘があり(同書p37)これを看過することはできないと思います。飛躍しますと、戦後現在に至るまで日本における「特権的存在である強力な常備軍」にあたるのは自衛隊ではなくまさに沖縄と首都圏、横田・横須賀の在日米軍であることがすぐにアタマを横切ります。
それは措き、明治維新を「ブルジョア革命」と考えたという戦前の労農派の流れを汲むマルキシズム理論家が歴史家にいるのかどうか浅学でわかりませんが、眼に触れる限りの「左派史家」は明治国家を言わば「フランス革命以前の反動的国家にあたる」と考えていたわけです。
それにかかわらず、かの有名な吉田某をはじめ、反動的国家をもたらした人びとを革命的・進歩的と考えてしまうゆえんが、現代の宮地正人氏を含めて、鵜飼政志氏の言う「主観主義@石井孝氏」であったということでしょうか。
石井孝氏の言う「主観主義」すなわち、「人民史観」であれ「皇国史観」であれ所与の枠組みに現実世界を切り分けて当てはめてしまう「プロクルステスの寝台@関さん」症候群が、現在の長州左派右派問わず、ライシャワーの日本近代化論から世界システム論としてのグローバル化論に至る流れにの感染症となってあらわれているということだと睨みます。
後出し内心忸怩にて弁じますと、明治維新は複雑系的展開を超える国際的振付によってなされたものであろうという感じがあらためて深くいたしました。日本の植民地化を明治維新が救ったとして天皇制絶対主義国家を擁護した芝原氏(鵜飼氏著;p15)を長州左派として、その『世界史のなかの明治維新』(岩波新書、1977年)から引用します(同書;p77以下):
<引用開始>
・・・それにしても内乱の開始いらい、イギリスによる新政府への好意的な態度は一貫している。その理由は、直接には、幕末以来の幕府への不信・・・いまやそれぞれの藩内で実権を掌握したかれらによる国内改革を後見し、対日貿易の基盤をより拡大しながら、同時にイギリスの政治的影響力をつよめることが、そのねらいであったにちがいない。
そのうえ、このころまでにイギリスは、かの「砲艦政策」や直接的征服にたいして、世界の各地であいついで大きな代償を支払っていた。・・・中国や日本にはてしない大軍を派遣することへの懸念は、上海駐在領事から初代駐日公使になったオールコックの記録『大君の都』などでも、くりかえしのべられている。また、それゆえにオールコックは、日本においてイギリスが望むような変革 ー 市場の自由な開放とそれを容認する安定した制度や観念の樹立(投稿者注:TPPを想起させますね)ー は、下からの圧力や外からの強制によるよりも、上からの改良によることが必要であると強調しているのである。
<引用以上>
・・・と。おなじくp37において芝原氏は「『外圧』はたんなる外的要因ではなかった。軍事的・政治的圧力に媒介された「自由貿易」そのものが、日本の在来の生産様式の骨組みをも変革し再編するほどの力をもって、日本の社会経済の内部に決定的な影響をあたえずにはおかなかったのである」と、まさにTPPと日米軍事同盟(集団的自衛権による対外参戦)に振り回される今現在にあてまる指摘をしています。
あらためて、明治維新とは「カラー革命」の嚆矢的実験であったという観を深くします。
*********************
西洋人の中で、日本の明治維新を成功した後発型近代化モデルとして捉えていたという点で、わたしが印象に残っているのは、ライシャワーの弟子でもあり、安藤昌益を発掘して世界に紹介した学者としても知られる、カナダ人の歴史家であり外交官でもあったハーバード・ノーマンです。(ノーマンの『日本の兵士と農民』など)
マッカーシズムの嵐の中で、ノーマンはソ連のスパイの嫌疑をかけられれて自殺に追い込まれていますが、西洋人の左派学者による後発資本主義国の成功した近代化モデルとしての明治維新論という点では、彼の史論がプロトタイプかなとも思えます。
ノーマンやライシャワーの明治維新観というのは、講座派か労農派かといわれれば、労農派のそれに近かったようにも思えます。はるか昔に読んだきりなので、記憶も定かではありませんが。
わたしのイメージしている「長州左派」は講座派のことであり、明治維新をブルジョア革命と見る労農派にはあまり長州的な匂いを感じません。そういえば戦前の講座派の代表的論客だった福本和夫も山口高等商業学校(現・山口大学)教授でしたっけ(生まれは鳥取ですが)。
>「左派史家」は明治国家を言わば「フランス革命以前の反動的国家にあたる」と考えていたわけです。
>それにかかわらず、かの有名な吉田某をはじめ、反動的国家をもたらした人びとを革命的・進歩的と考えてしまうゆえんが
まさにこの点が、長州左派(講座派)の最大の矛盾点といえるでしょうか。
長州右派と長州左派の共通点というのは、小難しい学術的な論点という意味のみならず、自派の考えを絶対化し、頑固で柔軟性に欠ける点、不寛容な点、他派に対し容赦なく執拗な攻撃を浴びせかける点、イデオロギーのためならば人命も軽んじる点、ひとたび賊・裏切り者と規定すれば死して後も絶対に許さない点(長州=靖国神社における東北・薩摩の扱い、野坂参三氏のように共産党を除名された人物に対するその後の冷たい扱い・・・・)といった精神的・組織的体質に濃厚に見られると思います。この辺が非日本的ですよね。
長州人の野坂参三氏に関しては、自分が党幹部としてそのような党の組織体質を作ってきながら、最後にはその組織体質によって自分が葬られてしまいました。自業自得の側面はありますが、かわいそうな話です。それを「かわいそう」と思わないのが長州的といえるでしょうか。もっとも共産党はだんだん幹部から長州色は消えているようにも見えますので、柔軟性を身につけ、非長州的な組織に脱皮して欲しいものです。自民党の清和会に関しては、抜きがたく徹底的に長州的な体質ですから改革は不可能であり、すみやかに政権の座からご退場願うしかないと思います。
もっとも薩長公英さんが引用されている箇所における講座派の芝原氏の主張は、相当に的を得ていることも事実と思います。その辺は是々非々に見ていかねばなりませんね。
「外圧」を相対的に考察している鵜飼氏の史論は、薩長公英さんの史論とはだいぶ差異も大きいのではないしょうか。わたしも、鵜飼氏が1866年の関税率引き下げの「江戸協約」のインパクトを軽視しているように見える点など、違和感を感じる部分はあります。前の記事は、明治維新の物語の左右の共通性という序論の部分を紹介したのみです。
ちなみに、石井孝氏は、日本をイギリス製品の市場にしようとして結ばせた江戸協約にこめたイギリスの意図を明快に分析していました(石井孝『増訂・明治維新の国際的環境』吉川弘文館、1966年)。
「外圧」の評価などは難しい問題で、またじっくりと考えさせていただきます。とりとめのないコメントになってしまい申し訳ございません。
関良基様:
関さん、注意を喚起していただいてありがとうございました。おかげさまで遅ればせながらハーバート・ノーマン著『日本における近代国家の成立』(大窪愿二訳、岩波文庫、1993年)に取り組んでいます。
もともとはハーヴァードの学位論文であったのが転じて、1937年の日本による中国侵略の全面的拡大に相応ずる極東を対象とした調査の一環としてニューヨークの「太平洋問題調査委員会」宛に1939年に提出された調査研究報告であるとのこと(前同書解題;p334)。そこはかとなくクールな見方が非常に興味深く、言葉の端々までこれは英語でどういう表現だったのだろうと気になります。
気が急かれて駆け足で目をとおしましたところ、ノーマンに関する「ブランディング」は、なるほど、関さんのお考えのとおりであると思いました。
ノーマンの維新論は、いかにも長州左派(講座派)と見えて、その実は、維新の功労者とその業績とを日本の近代化=ブルジョア社会化を切り開いたとして高く評価する、「プレ=ライシャワー」と言うべき近代化論者でマイルドブレンド・インテリとしての労農派であろうと、ノーマンの嫌ったレッテル貼り(ノーマン、『クリオの顔』、岩波文庫、1986年;p68)をいたしました。
関さんの慧眼に脱帽し、取り急ぎピックアップした興味深いポイントと勝手な感想を報告します:
・・・と言いつつ、じつは自分がいかに一知半解で講座派、労農派と言いつのってきたかということに気がついたところです。
01 「講座派ノーマン」の「明治維新の起点=天保改革」論:
ノーマンは「明治維新の歴史は・・・国家の集権化を達成し国民経済に対する国家統制を強化する企ての記録として始まらなければならない。この記録の出発点は、当然ながら天保改革におかなければならない。水野忠邦のおこなった諸改革が徳川直領内で失敗に終わったのに反して、後年ことに薩摩、土佐、長州で遂行された藩政改革は巧妙であり比較的成功したことが注目される」としています(同;p4)。
この天保改革起点論は、講座派史観の強い影響によるものであろうと推察します。しかし、明治維新がブルジョア社会への変革であったとする労農派の「幕末」観と対立矛盾するわけではないと思います。
02 「講座派ノーマン」の「開国=てこ」論:
外圧と「開国」についてノーマンは、「・・われわれは、衰退、反抗の過程と時を同じくして起こった外国の脅威が、幕府の敵によって、どのようにその顚覆の<てこ>として使われたかに注目しなければならない」としています(同;p67)。
ここで<倒幕派が外国の脅威を利用した>とノーマンは指摘しているわけで、その視線は<外国が倒幕派を利用した>という視線と隣同士にある、という気がいたします。
ともあれ、「外圧 → 開国」が維新の主役なのではなく、あくまで日本社会の内発的な変化運動が「変革」の主役であると考えるノーマンに、瓦版・読売(←普通名詞です)ジャーナリストやアカデミック・コピーライターとは本質的に異なるもの、自立した歴史研究者としての面目躍如たるものを感じます。しかし「01」と同じく労農派の維新観と対立矛盾するものではないと思えます。
03 「明治国家による上からの反動的改革」論の「講座派ノーマン」は、明治社会がブルジョア社会であるとする「労農派ノーマン」と表裏一体:
ノーマンは「(反徳川)の封建貴族の一翼から誕生し、大阪および京都の大商人に支援された」維新指導者たちによる(前同書;p26)・・「徳川封建制の<上からの>打倒は、人民、とくに農民および都市貧民が<下から>の行動によって反封建運動を展開する叛乱の企てを制止することを可能にした」(同;p27)としており、ノーマンの維新観の一要素が「明治維新=予防反革命」論と通底することに驚きました。
ノーマンは、「大商人の支援」について「武士の政治的・軍事的活躍ほどに劇的ではないが、幕府の顚覆と新政権の安定を達成するうえにそれよりも深い影響を及ぼしたものは、大町人ー日本の富の70パーセントが集中していたといわれる大坂商人の経済的支援であった」(同;p89)と突っ込んで述べ、明治維新の「実体的」推進者が「ブルジョア大商人」であったことを示しています。
さすれば、明治維新がつくりだした社会は、上部構造が半封建的、非民主的な、いわゆる絶対主義国家で、下部構造(=生産関係の総体としての経済構造)が資本主義のブルジョア社会であるということになります。
ノーマンは明治期の土地改革による小作人の出現、労働者予備軍の形成には注目する一方で既に江戸期末期に広汎に存在した寄生地主には目を向けてはいません(同;p214以下「第五章 土地改革とその社会的帰結」)。
講座派は、この寄生地主を「半封建的天皇制絶対主義=軍国主義」の源泉として考えると思いますから、ノーマンは非・講座派的であり、明治絶対主義政権が上からブルジョア的生産関係の樹立を促進して社会の生産諸力を急激に近代化(西欧化)して向上させたことを強調する点で労農派的です。
と言いますか、講座派と労農派の革命戦略路線の掛け声上の相違は措くと、講座派は法的・政治的構造としての上部構造のあり方から下部構造を規定してしまっており、労農派は下部構造(生産関係)のみを見て、社会変革において上部構造の問題は副次的なものである、と考えていることになるのではないでしょうか。
双方まるで「マルクス的」(@『経済学批判』序)ではない!と目をこすり・・・はて、どこかで取り違えをしたのでしょうか?
04 ノーマンが賞嘆し、むりやり弁護する維新の推進者たちの専制支配:
ノーマンいわく、「・・指導者たちは同藩人の反対をかえりみず、賢明にも外国の征服の途よりも国内再建の途を取ったのである(時代おくれの幕府政権の執拗な存続がその事業を百倍も困難にした)。・・・もし日本が途を誤っていたとすれば、日本は外国に征服され、後日大きな不幸におちいったかもしれない。1872-73年の征韓問題をめぐる危機に際しての大久保、岩倉、木戸らの政治的経綸は国民の最高の讃辞に値するものである」(同;p164)と、読むと赤面するほどに手放しになるわけは、と考えてしまいます。
「徳川社会の歴史的遺産は、民主的・人民的革命過程による<下からの>社会的変革を許さず、かえって専制的に<上からの>変革をおこなわしめた。・・・農民の犠牲において資本の蓄積と集中とが遂行された。・・・日本のように極めて突然にしかもおくれて封建的孤立から立ち上がった国が民主的方法を実行しようとすれば、おそらく社会的大騒動をまぬかれなかったであろうが、こうした危険なしに近代化の大事業を成就しえたのは、ひとえに絶対主義国家の力によるものであった」(同;p165)
ここにある「明治政府が絶対主義専制になったのは、徳川の責任」という維新元勲弁護論は噴飯ものでのけぞります。歴史の女神クリオの顔が曇るのではないでしょうか。最後はひとのせいにする、このような耳に入りやすい開き直りの言い方は、けっこう聞くことが多くはありますが。
05 ノーマンによる歯切れのわるい植民地化の脅威否定論:
ノーマンは維新指導者が日本を外国の征服から守るために専制政治で奮闘したと言いながら、「日本を開国させた西洋列強の努力を、・・・植民地を樹立するための計画的行動であったと解釈することはおそらく誇張であろう。この植民地化の可能性は、・・・徳川時代の日本にとっては決して侵略の段階にまでは達していなかった。ただ、多年にわたる国力の沈滞と軍事的劣弱からおして、やがて植民地化の可能性が現実の問題となるのは考えられることであった」(同;p79)
・・・と、まるで今どきの某党首脳の我田引水の話のもって行き方と変わらないありさまとなっています。何が彼をそうさせたのでしょうか。
06 しかし、ノーマンの名誉のために!?:
下掲「07」の遠山茂樹氏によるノーマン論の追記に、1946年3月ニューヨークの外交協会での講演の摘要が紹介されています。
「明治維新における下級武士の排外運動は、民衆の要求をねじまげ、腐敗させ、その結果人民がみずからの努力で封建制の束縛を排除することができなくなった。かくて改革は上から遂行され、立憲性採用以来50年、日本の政治制度を堅固な専制政治の型に凍結することができた。1945年8月の降伏以降も、人民は改革運動をみずから開始することをせず、かえって根源的な力は「上から」つまり占領軍から来た。占領軍の改革政策、この上からの改革がこの程度までしか進まないことは明らかである。どこかその途中で、日本国民自身が自らの民主的な政府をひきうけ強化しなければならない」
・・・と。日本国民へのこのエールで、ノーマンの名誉回復をと思いまして。しかし、・・・やはりどこかヘンです。
文字通り百姓(「百の姓」)による一揆が飢餓暴動ではなく、整然と組織された政治的デモンストレーションであったこと、そして一揆の主たる主張が民衆サイドからの社会的「市場化」の要求であったこと、そして、ノーマンが言うように志士の尊皇攘夷活動によってではなく、当時すでに商業活動に主力を置くようになった大地主(寄生地主)層による謀略である「ええじゃないか」によって民衆の政治運動が全国的に攪乱されつくすタイミングで、長薩下士及び反徳川公家さらに現地英国勢力と長薩派に寝返った特権商人たちの手によって明治維新クーデターと内戦が進行したこと、これに対応する?戦後から今日までの動きとは・・・と、考えるのはまことに手にあまります。
07 「講座派史家」遠山茂樹氏によるノーマン史学の「労農派」・「社会経済史派」との評価:
同書巻末に付された雑誌『思想』1977年4月号所載の遠山茂樹「ノーマン史学の評価の問題」(同;p353以下)とその追記には、
「明治維新の性格の規定において、明治政府指導者の役割の理解において、封建遺制の評価において、ノーマンの日本近代史観は、講座派と結論を異にしていた。むしろ労農派、社会経済史派の見方に近いといえるだろう」
「基本的な契機・性格のみを強調して副次的なそれを切りすてること、変化・発展の解明よりも、構造の析出に力を注いだこと、講座派の学風と一般にうけとられるそのような傾向にたいして、彼の学問の肌あいが違和感を持ったであろうという・・・」
・・・と、あります。不思議なことに講座派は新古典派経済学と同様に、ニュートン力学的な書き割りの中に世界を定着させることによって自分のアタマとともに軌道を三次元未満に固定してただ循環し続けるということですね。これが関さんが長州左右両派が共有することとしておっしゃっていることにリンクしていると思えます。
08 最近刊の著作に見た「開国主義長州史観 by the 団塊世代」:
ごく最近の維新論を参照して、と思いまして『シリーズ日本近世史<5> 幕末から維新へ』(藤田覚著、岩波新書、2015年5月)を手に取りました。
「近年の幕末維新期の政治史研究」が「経済や地域社会の変動と政治過程との関連がやや稀薄になっている」こと、「登場するのは、武士層が中心で、それ以外では地方の豪農・豪商、知識人レベルまでであることに不満を覚えていた」ことを踏まえた、功成り名遂げた団塊世代歴史専門家(現・東京大学名誉教授)による、1939年のノーマンと変わらぬ江戸公儀徹底蔑視敵視の長州史観と、ノーマンとは距離を置くライシャワー・ラインの原理主義的開国史観に目を瞠りました。
「さすが団塊世代!」と喝采してよいものかどうか・・・
「・・16、7世紀の大航海時代のヨーロッパ諸国とは、どのような関係を持つのかを日本側で選択することが可能だったが、19世紀半ばでは、そのような主体的な選択を許されなかった。・・・国と民族の自立の危機は、国内の幅広い階層に強烈な危機意識を生み出した。この未曾有の対外的危機を打開し、国家の対外的独立、国民的独立を守るため、幕藩体制にかわる新たな国家体制、政治体制の樹立に向けた模索と必死の政治闘争が始まり、明治維新に帰結した」(前同書;piv)。
「幕藩体制という江戸時代の政治体制、あるいは江戸幕府は」、1853年のペリー来日から始まる強度の外圧がなければ、あれほどの短時日で解体することはなく、まだまだ100年でも続いたのではないかと推測している」(前同書;p215)。
同書著者の団塊の世代が少年期を脱して青年期になりはじめたころに日本の社会的意識諸形態(@マルクス「経済学批判」序)を形成したケネディ・ライシャワー路線と、この開国原理主義長州史観はみごとに対応していると思えます。
09 そういえば、この団塊というゾンビ:
関さんによる、2008年3月30日の「世代間闘争論、あるいは団塊の世代の精神的病理について」という、読む都度心を打たれる記事を折に触れてはながめています。
その記事に多数寄せられたコメントの始めの方にあった「既存の利益層への政治闘争より無党派層をゆるくまとめるような政治的に共感できる言葉ってないものですかね? それこそが、現状を創造的に乗り越えるすべかなぁと思っていたりするのですが」という言葉を忘れることができません。
いま、不幸にして切実な現実味を帯びている言葉が存在します。たったいま眼前に見ている、そして世代を越えつつある『戦争反対!』。
アベ・シン官邸が採決を力ずくで押し切れば「戦争法案反対」運動が「倒閣&派兵反対」運動へ、そしてさらに泥沼となれば米国のベトナム戦争末期を想起させる大規模な反戦運動に発展していかざるを得ないでしょう!?。
あるいは新幹線とか国会とか放火事件の類からヤスクニ・ファシズムへ?
就活を控えた国会前の若者に、団塊の世代のオジサンたちが自己責任をいうことは、まだ街に出てくることができない若者たちに対する無慈悲な抑圧になります。屈強な男たちに守られて向こう側にいる人たちは別として、既に団塊のオジサンたち気づけば毎日オモテに出て縛られているわけではなく・・・まだそこまで認知に障害を来しているとは思えません。
しかし、若いころから浸みついた知的懈怠という団塊の宿痾は救いようがないのでしょうか。往時は長髪だったのにアタマの中はいまだにショートカットばかりだと。
10 ふと思いますこと:
関さん、投稿を書きながら内心で、じつのところ、歴史を学んだり、歴史から学んだりして考えているのではなく、大げさに言ってさまざまのレベルの謀略、陰謀・陽謀を含めて、自分が市井の民のひとりとして身辺・周囲で経験・見聞した発見を、同時代の世の中、大きくは世界に投影し、それをさらに「幕末維新」という歴史に投影しているにすぎない、という感じがいたします。
これはまことに視野の狭い、あやういことです。しかし、ノーマンのクリオ・フェチシズムにはいささか疎外感を感じながら、
「・・彼女は、煽動的な新聞やデマゴーグがまきちらす劣悪な通貨である常套語や符牒に理解力を曇らされないきわめて平凡な市民にも、また人間が作った制度はいずれも不変なものでなく・・・たえまない歴史の大きな変動そのものの一部として微妙に変動し変質するものであることと見ることを学んだ学徒にも、ひとしく彼女の愛らしい物思わしげな顔を現すであろう」(ノーマン『クリオの顔』、岩波文庫、1986年;p72)
というところを素知らぬ顔をして横目でじっと見ております。
・・・しかし、関与者にしてはじめてわかる内情と、それとは打って変わる外貌との、「暗黙知的」距離感覚など無用になるまでに、世の中のはかりごとが稚拙で露骨になりまして、それについてゆくのが大変です。
00 最後に。ノーマンの「歴史の”IF”」から想起する赤松小三郎:
「今日明治史を研究する者は、人民の政治参加に対してもっと思い切って同情的な政治思想、立憲思想があったならば、もっと自由な社会が今日築かれていたと考えて、さしつかえないであろうか」とノーマンは1953年3月付けの「日本語新版への序」で提起しています(同;p8)。
彼は、この「歴史の”IF”の問題」を歴史研究者としてきわめて抑制的に扱い、この問題提起が歴史上のさまざまな側面的な論点につながることを通じて(不平等条約体制からの国民的独立解放の闘いから出た国家主義感情が大陸侵略の道に流れ込むのは不可避であったのか、とか)明治権力とは何であったのか、を問う取り組みにつながることを喚起するにとどめています(同;p9参照)。
しかし、ノーマンが歴史研究者をこえる存在であったことをあざやかに示す、この問題提起から、関さんによってはじめて知った赤松小三郎を想起せざるを得ません。
ノーマンはあきらかに赤松小三郎の存在を知らなかったと推測します。しかし、上掲のノーマンの言葉は、赤松小三郎に対するあまりに適切な讃辞となっており、同時に最善の痛切な追悼の辞となっているのではないでしょうか。
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>日本共産党の綱領は2004年に改定されましたが、明治維新についての規定は全文削除されました。
そうだったのですか。私も最近の共産党事情など全くフォローしていませんので知りませんでした。教えて下さってありがとうございました。プランタンさんの方が詳しいと思います。
>また戦前の日本共産党の活動についても深く勉強したいと思っています
日本の左派は、戦前から明治維新の解釈をめぐって講座派(=共産党系)と労農派(=旧社会党系)に分かれて争ってきた歴史があります。そうした戦前の歴史から学ぶべき点は、ほぼ反面教師の側面だと思います。
私は講座派も労農派も双方が間違っていると思います。結局のところ、彼らの歴史観は、明治維新を日本近代化の原点であると評価する点、「日本会議」のような右派の「明治維新正統史観」と大きな差異はないとすら思っています。
明治維新の作り上げた太政官制(=官僚独裁制)こそ日本の過ちの原点でした。その過ちが肥大化し、暴走して、日本を奈落の底に突き落としつつあります。
私が、今の共産党に期待することは、長州出身の革命家たちが指導し、霞が関の官僚システムともどこか似た体質を作り上げた、長州史観の過去の呪縛を振り切って、未来志向になって欲しいということです。
そうすることによって、共産党も、プランタンさんが期待するとことの「社会主義、共産主義の枠以上に国民の運動が広がり、日本社会の真の改革」を推進する勢力になるだろうと思います。
これまで共産党のみならず、インテリの左派というのはとにかく頭でっかちで、運動路線の些細な違いが気に入らず、ケンカや内ゲバを繰り返してきました。日本の左派系ブロガーの議論を見ていても、安倍政権の批判をしていればよいのに、それ以上にSEALD's批判に血道をあげてしまったり・・・・。左派のそういう教条性の病理こそが、日本をここまで反動化させるのに貢献してきた第一の原因ですらあります。
右派と左派に共通する過去の歴史観を振り切って、みずみずしい感性をもった若い方々に、新しい時代を切り開いて欲しいと願います。