イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

断断

2009-03-10 20:47:56 | 朝ドラマ

NHK『だんだん』3月いっぱい放送が続くようですが、もう別に双子でなくてもいい、宍道湖と祇園ふた手に分かれた普通の家族親戚・ご近所ドラマになりましたね。結局、双子ヒロインであることが意味を持ったのは“双子ならではの奇跡のハーモニー”デュオ歌手デビューまでだけでした。こうなると、番組公式の人物相関図に、セーフティネットのように張りつけたあの人この人を順に繰り出し、1人ずつ何かしらやらせたり問題提起させたりして、エピソードをこしらえて引っ張って行くしかない。

生き別れの双子と言えば“偶然の遭遇で仰天”“生別の理由の謎解き”“人違いされる”“入れ替わって気づかれなかったり、別の人には気づかれたり”“育ちの差からくる気質や価値観の相違で思いがけず摩擦”→………(いろいろあって)“でも双子の絆は永遠よ”ぐらいまでは誰でも思いつきますが、誰でも思いつくレベル以上には、双子設定がお話を広げる起爆性を持てなかった。

と言うより、昨今の連続ドラマでいちばん頻繁に見られる、“話数をもたせるだけのネタがない”という欠点が見事に露呈した感です。

先週発売の週刊新潮の記事で、「三倉茉奈・佳奈姉妹の歌唱力がプロレベルにない(=“奇跡のハーモニー”ヒットチャート№1歌手としてリアリティを持ち得ない)ことが途中でわかったため、早めに歌手篇を切り上げて介護福祉士志望に戻したり、看護師を目指させたり迷走し出したのではないか」との識者の推測も出ていましたが、NHKの番宣サイトではかなり早い時期に「2人は人気の絶頂で引退を表明、それぞれの育った家庭、支えてくれる人々の中へ帰って行きます」との大筋が明らかにされており、歌手篇が短期間で終了したこと自体はさほどのぶっつけ想定外、アクシデント的なものではなかったように思います。

この『だんだん』、あるいはNHK朝ドラに限ったことではなく、最近のドラマで不出来なものは例外なく、視聴者をなめ過ぎだと思う。

先週7日(土)付けの日本経済新聞土曜版“PLUS 1”のコラム“裏読みWAVE”に、「出版不況のさなかでも、児童書の売り上げだけは99年以降一度も一千億円割れしたことがなく、少子化でパイが縮小していく一方のはずなのに、各社が新文庫を立ち上げるなど活況を呈している」との記事がありました。

児童書好調理由として、『ハリポタ』シリーズなどのヒット作があったこと、両親のほか祖父母、伯叔父母がひとりの子供に寄ってたかって買い与える、所謂“マルチポケット化”、大人が自分向けに買う“大人買い”の増加が挙げられていましたが、業界最大手とされる講談社児童局によれば「活字離れが叫ばれているが、特に女児の活字離れは進んでいないとのこと。

考えてみれば児童に限らず、ここ当節話題のケータイ小説にしても、書くのも読むのもほとんど女性です。

朝ドラの視聴者も、再放送を含めて90パーセントは女性とみて間違いないと思う。女性が“女児”の頃から、朝ドラ視聴年代になるまで、上は世界の古典名作文学から下は近所のおネエちゃんのモテ自慢、おばちゃんたちの町内会デマゴシップ大会まで、“物語”“作ったおはなし”にどれだけ、擦れっからしなくらい目が肥え舌が肥えているか、ドラマの作り手はあまりに甘く見過ぎです。

昨日の記事で言及した小林靖子さんもそのひとりですが、TV脚本界で活躍し結果も出している女性脚本家さんは数多い。しかし各局のP、エグゼクティヴプロデューサー、制作統括クラス、あるいは現場の演出チーフクラスになると圧勝で男性社会ではないでしょうか。よく言われる放送業界の長時間労働や出産子育てとの両立難のしからしむるところかもしれない。国策企業であるNHKでは特にその傾向が強いと思われます。

男性P陣が女性ライターたちの創造力、着想力をシールドしているなんてことは考えたくも言いたくもありませんが、女性視聴者がちょっとやそっとの、生半可な“作り”では“おはなし”に乗ってくれないという峻厳な事実が身にしみている制作統括がどれだけいるか。実際、玄関先の通りすがりに小耳に挟んだご近所夫婦の会話の一端、女子更衣室のブランド口紅の忘れ物一本から、足かけ2年ほどもにわたる想像と憶測の大フィクションを紡ぎ出して造形、放出する主婦、OLさんたちのイマジネーションというか妄想力というか、生涯に読んできた小説本の冊数なら女性の中でも平均は上回っていると思う月河をもってしても舌を巻くほどです。

「高齢者中心に認知度好感度の高い三倉姉妹を出して、満面笑顔や涙をこらえるせつない顔を見せておけば」「そういう顔が出てくるような筋立てを作り、高校制服姿やアイドル衣装やナース白衣や浴衣姿、舞妓姿をはめ込んでおけば、客は喜ぶ」程度の、タカくくった読みでは、どっこい誰も騙せなかったということ。

 ネット時代になって、特定分野の特定マターへの“調査”“取材”の敷居が格段に低くなっていることも、ドラマ製作陣が認識をおろそかにしていることのひとつで、これも『だんだん』の敗因です。素人の女の子が若手スカウトひとりの押しで歌手デビューするということ、楽曲選定やプロモーション、チャート1位までの道程、売れてからの日常の変化、売れてる最中に勝手に自己都合引退するということ、あるいは医師志望の医大生がいきなり音楽事務所社員になり、これまたいきなり退職して再び医師養成レールに戻ることの難しさなど、「こんなチョロいものであるはずがない」「しっかり取材して書いてないだろ」とシロウトでもわかってしまう。

TVドラマのリアリティが、当該業界の実態ありのままである必要はいまも昔もないのですが、“上手なウソ”で“騙し通す”スキルのハードルは、取材の敷居とは反比例して高くなっていることを肝に銘じなければ、大勢が甘んじて騙されてくれ得る“おはなし”は作れません。

商業的視聴率競争から自由であるはずのNHKが手がける朝ドラ、大河ドラマ、30分枠になってしまったけれど金曜時代劇、土曜ドラマなど、他の民放局に比べて企画の時間もじゅうぶんにあるし各大手芸能事務所への義理立ても必要ないし、傑作・秀作か佳作にならない理由を探すほうが難しいくらいだと思っていたのですが、『だんだん』に代表される、客筋読みの適当さ甘っちょろさ、作りに腰の入ってなさ具合。はしなくもTV連続ドラマ界全体の低落を映し出すモデルケースになってしまいました。

コメント
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