こちらも震災で一週間お休みがはさまって放送が延び、新年度スタートですでに世の中フル回転の4月の、第2週まで盲腸みたいにぶら下がって“残業”する格好になってしまいましたが、『さくら心中』もそろそろまとめておきましょう。ここまで来たら、昼帯ドラマ恒例“最終週でのもう二転三転”で全体的視聴感が大きく変わることもなさそうです。
脚本中島丈博さん、“大家(たいか)の最晩年作”、ひとことで言ってそういった印象がいちばん強かった。
水面の睡蓮の連作などで知られるクロード・モネ、バレエの踊り子のステージや楽屋裏姿などを数多く描いたエドガー・ドガ、いずれも19世紀から20世紀にかけ活躍した、日本でも中学高校の教科書に載る級のメジャー画家ですが、晩年は絵描きさんにとって最もつらいことに、視力が致命的に衰え、それでも制作意欲だけは失われることがなく、死の直前の数年間の作品は、それぞれに若い頃から好んでいた色彩たちと、殴りつけるような筆触とが朦朧渾然と溶け合いぶつかり合い絡み合って、“万全に見えていたならば描きたいと願ったもの”が“でも見えない悔しさ”の間から熱く濃くにじみ出て溢れて来るような、健康で思い通りの作品が描けていた全盛期とは違う、独特の切実なパワーあふれる画面になっています。
中島丈博さんは御年まだ75歳、平均寿命的にも“最晩年”なんて修辞は失礼かもしれないし、画家の視力にあたる“筆力”が“衰えた”“後退した”かのような比喩もどうかと思いますが、今作『さくら心中』、独特過ぎるパワーのにじみ出かた、溢れ方が、上記の大画家さんたちの畢生の作品群によく似ている気がしてならない。
「コレを書きたい、台詞にしたい」「こういう状況を作って、その中でこういうキャラの人物にこういう行動をとらせたい」という単発の、瞬間風速的な意欲が、ありあわせ廃材で組み立てて釘打って急造したような、隙間スカスカでタテヨコ合ってないような枠組みのその隙間から、不規則に、あるときは連打で、あるときは忘れた頃に、顔面シャワー的にガッと噴射してくる感じなのです。
千年桜のオーラに理性を奪われ滅びの道を進む老舗の当主(村井国夫さん)、そのオーラを擬人化したような魔性の娘(笛木優子さん)、カネカネの唯物主義者だった高利貸し(神保悟志さん)も、いつしか彼女の人知を超えたフェロモンに魅入られて行き…という前半の主展開もそうでしたが、血縁のない妹に寄せる、責任感と欲情の混じり合った義兄(松田賢二さん)の屈折した執着や、育ちの違う幼なじみの青年同士(真山明大さん佐野和真さん)の、友情・共感にくるんだ嫉妬とコンプレックス、幼い日、自分を残して心中しようとした母に抱く、多感な娘(林丹丹さん)のやりきれなさなど、人物の突拍子もない言動や、そこから引き起こされるあり得ないシチュエーションの間を埋めるべき要素、“こういう感情が底流にあるとしたら、この言動もわからなくはない”と観ていて納得でき得る要素が、ほとんど観客の想像と深読みに「任せた」と丸投げされている。
直近の展開を例に挙げると、非業の巻き添え心中を遂げた実父そっくりの男(徳山秀典さん)が現われて、娘と母、ともに心ざわめくものを感じるまでは自然に入ってきますが、“彼は娘には興味がなく私に惚れている”と知った母が、女として満ち足りた気持ちをさておき、娘を連れての3Pデートに持ち込むとなると、かなりな勢いで行間深読みが必要です。
まして母のほうを抱く気満々だった男が「娘を愛してやって」とその母に請われ、「アナタはいい母親なんですね」と笑顔で素直に娘のほうに乗り換える段になると、想像力にもんのすごいハイジャンプをさせなければ、完全にドーンと壁に突き当たって立ち直れなくなります。
このドラマは、一事が万事こういったふう。陽光にさざめいていたモネの花の色、ポーズを取るドガのバレリーナたちの伸びやかな肢体や衣装の躍動感が、残り少ない時間をいや増しに生き急ぐような荒々しいタッチで、造形や遠近法の整合性などものかはとばかりアトランダムにぶつけられ、“きっとこういうモノが、こういう絵が描きたかったのだろうな”と、鑑賞する者が想像するしかない晩年作そのものです。
モネの絵がどれだけ好きか、モネの若い時分からの制作姿勢や画歴にどれだけ理解と思い入れが深いかで、最晩年の、いきなり初見で見ればもはや何が描いてあるのかすら判然としない朦朧パワー作の評価・捉え方が決まってくるように、『さくら心中』は“昼帯ドラマというものにどれだけ興味があるか、愛しているか”“その昼帯ワールドに唯一無二の一時代を築いた中島作品に、どれだけ関心と敬意を持てるか”を観客に問いかけてくる、言わば踏み絵的作品だったように思います。
これほどの究極作はもうこれきり、二度と出ないかもしれない…なんつって、来年のいま頃には中島さん76歳、また涼しい顔(知らないけど)で、もっと朦朧エスカレートした作を「この前はよくぞついて来たな、ホレこれならどうだ、ここまでならどうだ」と喉元につきつけてそうな気もしますけどね。ともあれ、見ごたえのある、と言うより、“ついて行きごたえのある”ドラマではありました。