稀代の愚策か、世紀の大英断か。中部電力浜岡原発の全面停止を要請した菅直人総理、実はひそかに思ってないでしょうか。「“あんとき停止しといて良かったなー”ってタイミングで、実際、来ねえかな、御前崎に津波」って。
「停止反対だの、なぜこのタイミングでだのってグデグデ言ってたヤツら限定で、若干、死者とか出てもいいから」みたいな。
過去90年から150年に一度、必ず連動して起きてきたと言われる南海・東南海・東海地震。2011年5月、2ヶ月前に東日本大震災を目の当たりにした現在、「いつ起きても、今日起きても、1時間後に起きても不思議はない」そうですが、地震なんていつどこで起きたって、“不思議”でなんかあるわけがない。野村克也監督の名フレーズのひとつ「勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなし」じゃありませんが、地上のどこであれ、そこに人間が住みはじめて以来、一度も震災らしい震災、津波らしい津波が起きてないとしたら、そっちのほうがはるかに摩訶不思議で、本当は人住んでないだろう、住んでても記憶力のない、記録もつけらんないバカばっかりなんじゃないのかって話です。
しかも、媒体の地図で見ていまさらながら知ったんですが、浜岡原発って、1944年の直近の東南海地震でいちばん揺れが大きかった地域のど真ん中にあるのね。「不思議はない」どころか、地震のメッカ、地震が起きれば99.9パーセント津波に襲われるに決まっているロケーションに、よりにもよってなんで建てたんだろう原発。誰か止める人はいなかったのか。ご多聞にもれず反対運動、住民運動なども起きたんだろうけど、「やっぱり建てたほうがトクだ」の声が多数派になり押し切ったということなんでしょうかね。
それとも、「44年に揺れたんだから、ガス抜きになって当分揺れないだろう」「ない間に建てて、利権吸うだけ吸って、次の地震が来そうになったらガー撤収して逃げ切ろう」という算段だったか。
今回の一連の動きで期せずして炙り出されて来たのは、原発が産み出す電力による生産力の向上、一般家庭生活の便利どうこうよりも、原子炉一基建てる、操業することで、一生暮らせる利権が発生し、それに群がる政治家や天下り役人がごまんといるらしいということだったと思います。“原発で食っている”人種たちが潤い、あわよくば家族や従業員、秘書に部下事務所もろとも潤い続けるために、日本の原発は計画され、建設され、運転されている。
何より身にしみたのは、「自然は人をまたない」という冷厳な事実でしょう。利害や人情や義理や、人知学問を歯牙にもかけず、自然は地震を起こす時には起こす。津波を発生させるとなったら、どこでどれだけの数の人間が生計を立てていようが、どこに原発があって何兆円の利権が渦巻いていようが、お構いなしに発生させて洗いざらい持って行く。幾ら損したとか何を失ったとか、誰が間違ってるの正しいのなんてことは、自然の脅威の前には芥子粒ほどの意味も持たない。
「ここに原発があるから、いま、ここに地震が起きてもらったら困る」なんつったって、起きるとなったら理不尽に起きるんだし、大枚の予算投入して、財源にことよせて増税して、節電して節電して経済停滞させて、「これだけ忍び難きを忍んで、万全の対策打ったんだからもういつ大地震が来てもいいぞ」と痩せ我慢したら、その地域だけ、その先300年ぐらい何も来ないかもしれない。
今回の菅総理の決断も、「あのとき停めといてよかった」と皆が思えるような帰趨になるかどうかは、菅さんの存命中(政治生命的にではなく生物学的に)はもちろん、菅さんの記者会見をリアルタイムで聞いている日本人が生きている間は、答えが出ることはまずないでしょう。これから生まれてくる赤ちゃんが菅さんの年頃になる頃には何かしら結論めいたことが言えるかもしれませんが。
それより、浜岡浜岡騒いでる最中に、アサッテの方角の、別の原発の足元で、ズコーンと地震が来たらどうするつもりなんでしょうね。ホントに、誰が建てていいって言ったんだ原発。こんなに日本じゅういたるところに。