一昨日(12月26日)に『ルビーの指輪』(BSトゥエルビ)が終わって、軽くルビーロス状態です。軽い気持ちで「大好物の入れ替わり&成りすまし話っぽい」「イ・ソヨンさんとか知ってる人出てるし」と中途参入したら、思いのほか重い話で、録画再生して見入っている時間以外にも、気がつけばふとこのドラマの事を考えている自分がいました。
こういうのはロスが来るのよ。もう十何年前になりますが、東海テレビ昼帯の荻野目慶子さん主演『女優・杏子』の時期なんかがそうだった。『仮面ライダー龍騎』や『特捜戦隊デカレンジャー』のラスト2~3話の間などは、仕事中も移動中もちょっと間ができるともう次回はどんなんなる?前回、前々回ああだったからこうだったから・・と頭の中に侵入してきて、振り払って集中するのが難儀なくらいでした。
ロスにさせるぐらいの磁力の原因はやはり、ルナの“ルビーになりたい、ルビーでいたい”という歪んだ情熱の熱さ濃さゆえか。当初、ナメてかかって想像したように“不細工で僻んだ妹が、美しく人気者の姉をねたんで、成りすましでイケメン王子の婚約者を奪おうと・・”という、昭和の少女漫画にもよくあった単純な動機じゃなかった。もっと根深く“自分のなりたい自分”“いまここに居る自分ではない自分”を渇望し、足搔いて足搔いてどんどん不可能なほうにオーバードライブしていくルナが形成されたのは、実は女手一つで姉妹を育てた母親ギルジャの秘密に遠い原因がありました。
ギルジャの夫は、身重の妻をよそに愛人をつくり出産時も帰ってこない男でした。そのためギルジャは産後鬱状態になり、せっかく元気に生まれた女の赤ちゃんを抱く気にもならずにいた矢先、夫の急死の報が。赤子を抱え未亡人になったギルジャのもとには、あろうことか夫が愛人に産ませたもうひとりの赤子が押しつけられました。
何なのこれは!なぜ私に!?誰も育てたくない!パニックになったギルジャは二人の赤子を抱き、何度も施設の玄関前を往復しては一人置き去りにし、引き返してはもう一人のほうを・・でもその都度泣き声に連れ戻されて、「ごめんなさい」と赤子たちに謝って、結局二人とも双子の自分の子として受け入れ、タッカルビ店を切り盛りしながら育ててきたのです。
この間のギルジャの心思うべし。“愛人の子なんか育てたくない、居なくなればいい”と首をもたげる自分の中の黒さと、常に闘う二十数年だったに違いない。ドラマの終盤で、「(愛人の子より)優秀になってほしいと願って、実子のアンタには厳しくした」とルナに告白する場面が出てきますが、それ以上に妾腹のルビーには“憎んではいけない、この子に罪はない、実子と差別せず愛してあげなきゃ・・”と、自分の内面の黒さから脅迫される様な思いで接してきたことでしょう。成長するにつれ母親の違う姉妹の資質や能力の差は明らかになってきます。己を抑えて抑えて、努力して優しく接してきたギルジャの思いを掬い取るように、ルビーは心優しく賢い子に育ち、秀でてほしいという願いゆえに厳しく当たられたルナには、ギルジャが「私に似たのよ」と寂しげに述懐する負けん気、反抗心以外、秀でたものは何もそなわりませんでした。
しかも自分と姉との差が身にしみてきた年頃になって、ルナは母と叔母との会話から、自分が母の子ではなく、亡き父と他の女性との子・・との疑いを強く抱くようになってしまいました。これはギルジャが多くを語らないが故の叔母の勘違いから発生した会話なのですが、自分がそういう出生だから、母さんはルビー姉さんばかり可愛がって、私にはつらく当たるんだ・・とルナは答えを見つけた気持ちになってしまった。思春期には目に入るもの耳に入るものすべてが不合理に感じられますから、合理と思える答えには飛びついてしまう。
受験、恋愛、人間関係、何をやっても思い通りにならない自分に比べて、願わしいもの何でも苦も無く手に入れられる姉ルビー。もう容姿が、才能が、恋人がという問題ではなくなりました。ルビーになれば、自分がルビーでさえあればすべてはうまくいく。やりたくてできなかったことが、何でもできるようになる。ルビーになりたい、皆からルビーと呼ばれ、ルビーとして処遇されたい、褒められもてはやされたい。あらかじめ負属性を抱いて生まれついたルナという存在でなくなりたいルナの不可能な願いは、ルビーのドレスと婚約指輪を奪い身に着けての、ルビーを巻き込んだ交通事故と顔面大損傷、そしてルビー昏睡中に自分が先に蘇生という、千載一遇の機会を得て、針の穴を通すように可能になってしまった。事故時のドレスと指輪を見て、分厚く顔に包帯をされた自分に「ルビー、ルビー」と話しかけるギルジャに気がついたとき、これからは私が可愛がられっ子ルビーだ!と、ルナは底知れない喜びと高揚感に息も止まる思いだったでしょう。
TVのドラマですから、最初にルビー役で登場したイ・ソヨンさんが事故後のルナを、ルナ役だったイム・ジョンウンさんが同じくルビーを演じ分けているので、見ているほうとしては映画『転校生』やNHKドラマ『さよなら私』のように、“魂(=性格、才能、技能など)がAの身体からBの身体へ、Bの身体からAの身体へと入れ替わった”と錯覚しがちですが、実はこれは根本的な勘違いで、実はルビーの内面はルビーの身体の中に、ルナの内面はルナの身体にそのままあって、整形手術で“外観だけ”を造り替えたという話なんですね。
外観が変われば、ルビーの容姿にさえなれば、私はルビーとして愛される、ルビーとして大切にされる。ルビーが得ていた評判や名声も、セレブな婚約者も、結婚して得られる財閥御曹司夫人の座も私のものになる。私はルビーなんだから、ルナじゃないんだから・・
ルナが切望し期待していた通りに、果たして世の中回ったのかどうか。願った幸せは手に入ったのか。やりたくてできなくて思い焦がれていた欲望はかなえられたのか。ドラマ内の交通事故後、第8話以降はそれを実地検証していく物語になります。
・・62話まで続いた(日本放送用のカット版です。本国での放送は93話)ことだけからもわかるように、すんなり満ち足りて終わりませんでした。ルナが通した一世一代の無理は道理を引っ込ませるだけでなく周りの人々を惑乱させ、思いもよらなかった方向に突き動かし、疑いや不信や恨みの連鎖を引き出して複雑にしてしまいました。
ルナは“外観”に期待を持ちすぎたのです。外観が変われば、愛され好かれて幸せに生きている姉の外観を自分がまとえば、まるごと自分が愛され幸せになれる。しかし世界はそんなに甘いもんじゃなかった。ルビーならルビー、或る一人の人格として認識され受け入れられることに占める“外観”の割合は、ルナが夢見たほど大きくなかった。ルナはルビーの顔かたちになっても、ルナだったときと同様に嫌われ、高い地位を得た分腫れ物扱いされ、事故前のルビーとあまりに異なる言動から不信と疑いの目で見られ、そして何より自分が成りすましだという秘密の露見に怯えなければならず、少しも満ち足りた幸せを得られませんでした。
(この項続きます)