放送が始まった10月初旬は、ぴいぴいギャーツクやっかましいけったたましい、出てくるヤツみんなブラック根性悪、どうすんだこんなドラマ!と思った『純と愛』ですが、考えてみればある意味、きわめて風通しのいい作品でもあるようで。
要するに、壊せばいいんですね、このドラマは。壊すことしか考えてないと言っても過言ではない。政界の“壊し屋”O沢I郎さんと一緒。
温ったか家族の団欒無し、郷土愛無し(第一週冒頭にヒロインとっとと宮古島を出て行く)、お節介ご近所さんとの交流無し(隣人っ気もないワンルーム暮らし)、親友・幼なじみとのさや当てくすぐり合いも無し(ウザがられヒロイン)。
いつもの朝ドラに作りつけのようにあった設定、舞台装置背景は草を毟る様に念を入れて排除され、代わりに出てくるのは透視能力、PTSD、子供に暴力、ストーカー、精神科。雪隠詰め、膀胱炎。ホテル客は泥酔嘔吐。望まぬ妊娠に手切れ金、かと思えば結婚式フケてできちゃった駆け落ち。墓前で接吻、次のカットで抱き合ってベッド。合間につんざく悲鳴、轟く怒号、奇声、罵声、すすり泣き。
全編これ“他の時間帯ならともかく、朝からは見たくない”モチーフ、ディテールのオンパレード。朝ドラというステージにあるべきもの、あって当然のもの、あったら皆が安心するものをことごとくとっぱらって、「違う」「要らない」「ふさわしくない」と眉をひそめられるに決まっているものを選りすぐって投入。
所謂マンネリ打破、新風吹き込みというのとも空気感が違っていますね。かつて『水戸黄門』主演に石坂浩二さんが起用され、ご本人の発案で“ヒゲなし”“印籠かざし名乗りなし”で大不評を買ったときとも、似ているようで異なる。タイトル忘れたけど(忘れたってコラッ)今年放送中のスーパー戦隊の“変身モーションなし”“個別名乗りなし”初見時のような、くっきりはっきり鋭利な失望感とももちろん違います。
言わば「見渡す限り否定否定の大草原」的風通しのよさでしょうか。何かの否定でないものがいっさい存在しないワールド。ネガティヴもこれだけ混じりっ気なしだといっそ気持ちいい。壊せばいいんだから。サラ地にすればいいんだから。
“マンネリ打破”という、世間的には前向きで積極的ととらえられるベクトルさえ否定。マンネリをマンネリとして評価することすら否定。世間が無理なく納得するもの、見慣れ読み取り慣れたもの、慣れているから腑に落ちてすっきりするものを洗いざらい殺ぎ取った真空のような世界。無理が通って道理が引っ込んで、引っ込めた勢いあまって無理も一緒に土俵下に消えた、それが『純と愛』ワールドなのです。
こうなれば観るほうもいちいち引っかかって眉をひそめていないで、昔やっていた『筋肉番付』のストラックアウトみたいに、ひとつお約束が壊れるたび、予定調和が裏切られるたびに「いったー」「落ちたー」「たーまやー」と興じているべきなのでしょう。
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