★Facebook で繋がっている中尾省吾さんから、
「9月1日発売のSOBマガジンで、星野一義さんのインタビューを掲載させていただきます。
つきましては、星野さんのバイク時代のお写真や雑誌の記事などお持ちでしたら、お貸し願えませんでしょうか。」
と言うメッセージを頂いたのは7月のことなのだが、
「 ところで星野がカワサキのマシンに初めて乗ったのは、和歌山でのスポニチ主催の第1回モトクロスです。
彼はカワサキコンバットのトラックの運転手として来てたのですが、 当日の朝、岡部能夫が練習中に荒井市次と接触して指骨折で出られなくなったので、岡部の代わりに岡部の名前で出場したのです。
この話はオモシロいので是非聞いて上げて下さい。 」
などとご返事して手元にある星野の写真を送ったのである。
この写真は私がシャッターを切っているのだが、
この4人に金谷秀夫がいたら、私のレース担当時代に一番思い出に残っているライダーたちなのである。
金子豊・岡部能夫・星野一義・山本隆の4人で、星野にとっても一番関係の深かったライダーたちなのである。
中尾省吾さんからは星野のオモシロい話が満載のメッセージを送ってもらっているのだが、
多分雑誌のインタビュー記事なので、そのまま記載することは出来ないのだが、
和歌山のモトクロスの件はこのように星野は喋っている。
「そんなとき、秋だったかな、突然、レースに参加するチャンスがやってきた。 和歌山県でカワサキ本社主催のレースがあって、我々コンバットのメンバーも遠征してたんだけど、練習のとき、岡部ヨシオ先輩がヤマハの荒井イチジさんとぶつかって手の指を骨折。
ミツハシ監督だったと思うけど、オマエ、オカベの代わりに走るかと声をかけてくれて、もちろん、ハイと答えた。 90だったか125だったかオカベさんのバイクに跨って、オカベさんの名前とゼッケンのまんまで、走る用意は何もしてなかったから、ヘルメットも綿のツナギもブーツも先輩たちから借りてさ、いやあ嬉しくて張り切り過ぎたんだろねー。
スタートしたらすぐにぶっ飛んだらしくて、気がついたら病院のベッドの上。 幸いケガは脳しんとうだけで済んだけども、カワサキ本社のレース担当者は、上役からこっぴどく怒られたらしい。」
と語っているのだが、この本社のレース担当者が私なのである。
当時の直接の上司だった苧野豊秋部長からは、未契約の選手を走らせたとこっぴどく怒られたのである。
確かにあのまま星野がおかしくなっていたりしたらこれは大変なことだったのである。
★そんな星野一義と私の出会いなのだが
翌年は彼はまだ17歳だったと思うが、年額24万円で契約したのである。
まだ星野も新人だったが、この写真の左から4番目が星野である。
ノービスの頃からべらぼうに速くて、
契約してすぐのMCFAJの全日本モトクロスで優勝したりしたのだが、
ノービス時代の好敵手がスズキにいた吉村太一ちゃんだった。
星野の和歌山での岡部の名前でのデヴュー戦は1964年11月8日のことだったが、
2年後にはセニアライダーとして、山本隆とともにカワサキのエースライダーに成長していたのである。
★ 星野はその後1969年にカワサキのライダーだった歳森康師の推薦で日産の4輪ドライバーに転向し、『日本一速い男』と言われるまでに大成するのだが、
さらにモトクロス時代の仲間であった金子豊と「ホシノインパル」を設立したのが32歳であったとか。
カワサキを離れてからの星野一義は、日本でも超有名人で忙しいのだが、
本当に義理堅くて私が関係したイベントには必ず顔をだしてくれているのである。
これは片山義美を偲ぶ会での星野と清原と私のスリーショットだが、
二人ががレースをスタートしたのも私のレース担当時代だったのである。
同じ会合での星野がカワサキ時代のレース監督だった大槻幸雄さんとの2ショット。
これはごく最近、昨年11月の『カワサキZ40周年記念祭』だが
この時も明石まで来てくれて、
当時のカワサキの仲間たちと旧交を温めているのである。
同じ会合で、村上力さんとのスリーショットである。
★こんな星野一義とカワサキや私との関係だが、
私も短い間だが、レース界に関わったお陰で
私の人生は大いに豊かになったと思っている。
今回もSOBマガジン9月号に『星野一義インタヴュー記事』が載るようだが、
その記事の内容は如何にも星野らしくて面白いので、
是非、関心のおありの方は買ってお読みになってみて下さい。
これが多分前月号、鈴木忠さんです。