雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキ単車の昔話  12    星野一義さんのこと

2023-08-14 05:41:19 | カワサキ単車の昔話

★Facebook で繋がっている中尾省吾さんから、
9月1日発売のSOBマガジンで、星野一義さんのインタビューを掲載させていただきます。
つきましては、星野さんのバイク時代のお写真や雑誌の記事などお持ちでしたら、お貸し願えませんでしょうか。」
 と言うメッセージを頂いたのは7月のことなのだが、
 
「 ところで星野がカワサキのマシンに初めて乗ったのは、和歌山でのスポニチ主催の第1回モトクロスです。
 彼はカワサキコンバットのトラックの運転手として来てたのですが、 当日の朝、岡部能夫が練習中に荒井市次と接触して指骨折で出られなくなったので、岡部の代わりに岡部の名前で出場したのです。 
この話はオモシロいので是非聞いて上げて下さい。 」
などとご返事して手元にある星野の写真を送ったのである。

 この写真は私がシャッターを切っているのだが、
 この4人に金谷秀夫がいたら、私のレース担当時代に一番思い出に残っているライダーたちなのである。
 金子豊・岡部能夫・星野一義・山本隆の4人で、星野にとっても一番関係の深かったライダーたちなのである。

 

  
 中尾省吾さんからは星野のオモシロい話が満載のメッセージを送ってもらっているのだが、
多分雑誌のインタビュー記事なので、そのまま記載することは出来ないのだが、
和歌山のモトクロスの件はこのように星野は喋っている。

「そんなとき、秋だったかな、突然、レースに参加するチャンスがやってきた。 和歌山県でカワサキ本社主催のレースがあって、我々コンバットのメンバーも遠征してたんだけど、練習のとき、岡部ヨシオ先輩がヤマハの荒井イチジさんとぶつかって手の指を骨折。 
ミツハシ監督だったと思うけど、オマエ、オカベの代わりに走るかと声をかけてくれて、もちろん、ハイと答えた。 90だったか125だったかオカベさんのバイクに跨って、オカベさんの名前とゼッケンのまんまで、走る用意は何もしてなかったから、ヘルメットも綿のツナギもブーツも先輩たちから借りてさ、いやあ嬉しくて張り切り過ぎたんだろねー。
 スタートしたらすぐにぶっ飛んだらしくて、気がついたら病院のベッドの上。 幸いケガは脳しんとうだけで済んだけども、カワサキ本社のレース担当者は、上役からこっぴどく怒られたらしい。」
 と語っているのだが、この本社のレース担当者が私なのである。

 当時の直接の上司だった苧野豊秋部長からは、未契約の選手を走らせたとこっぴどく怒られたのである。
 確かにあのまま星野がおかしくなっていたりしたらこれは大変なことだったのである。

★そんな星野一義と私の出会いなのだが
 翌年は彼はまだ17歳だったと思うが、年額24万円で契約したのである
 まだ星野も新人だったが、この写真の左から4番目が星野である。

 

 
 ノービスの頃からべらぼうに速くて、
 契約してすぐのMCFAJの全日本モトクロスで優勝したりしたのだが、
 ノービス時代の好敵手がスズキにいた吉村太一ちゃんだった。
 星野の和歌山での岡部の名前でのデヴュー戦1964年11月8のことだったが、
2年後にはセニアライダーとして、山本隆とともにカワサキのエースライダーに成長していたのである。

★ 星野はその後1969年にカワサキのライダーだった歳森康師の推薦で日産の4輪ドライバーに転向し、『日本一速い男』と言われるまでに大成するのだが、
 さらにモトクロス時代の仲間であった金子豊と「ホシノインパル」を設立したのが32歳であったとか。

 カワサキを離れてからの星野一義は、日本でも超有名人で忙しいのだが、
 本当に義理堅くて私が関係したイベントには必ず顔をだしてくれているのである。

 これは片山義美を偲ぶ会での星野と清原と私のスリーショットだが、
二人ががレースをスタートしたのも私のレース担当時代だったのである。

 


 同じ会合での星野がカワサキ時代のレース監督だった大槻幸雄さんとの2ショット。

  



 これはごく最近、昨年11月の『カワサキZ40周年記念祭』だが
 この時も明石まで来てくれて、
 当時のカワサキの仲間たちと旧交を温めているのである。

  

 

 同じ会合で、村上力さんとのスリーショットである。





★こんな星野一義とカワサキや私との関係だが、
 私も短い間だが、レース界に関わったお陰で
 私の人生は大いに豊かになったと思っている。


 今回もSOBマガジン9月号に『星野一義インタヴュー記事』が載るようだが、 
 その記事の内容は如何にも星野らしくて面白いので、
 是非、関心のおありの方は買ってお読みになってみて下さい。


  


  
これが多分前月号、鈴木忠さんです。
 


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カワサキ単車の昔話  11   田舎なれども南部の国はよ

2023-08-08 05:28:01 | カワサキ単車の昔話

★ 昭和42年(1967)1月から新しく仙台事務所を創れという命を受けて、仙台事務所長として赴任した。
まだ34歳の時で明石を離れるのは、初めての時だった。
 当時のカワサキはまだ海外市場はなく国内市場だけで、
 125ccの実用車中心の『実用車のカワサキ』の時代で、全国で東北6県が最大の市場だったのである。
 山坂に強い登坂力などがウリだったから、広大な東北の山坂にはもってこいの商品だった。

 どれ位広大かと言うとざっとタテ600km、ヨコ200kmという広さで、
 200kmと言うと、関西で言えば明石から名古屋までだから、
 その間5県に跨ってる距離なのである。

 
 


★ そんな中でも日本一の広さを誇る岩手県全国一の販売実績を誇っていたという、
  考えられないような時代だったのである。
 「田舎なれども南部の国はよ 西も東も金の山」と南部牛追い唄に唄われた南部の国岩手県は、日本一の実績を誇ったこともあってよく訪れたし、
 当時の社長久保克夫さんには単車の販売の実際をいろいろと教えて頂いたし、私のマーケッテングの実地の先生だったのである。
 久保さんを乗せて岩手県の販売店を走り回ったので、
 その時の販売店への対応などは非常に参考になったし、
 岩手カワサキ独特の販売システムはその後の私の販売手法の展開に大いに役立ったのである。
 
 一言で言うと「差別化戦略」で他県・他銘柄とは完全に差別化されていて、それが徹底されていたのである。
 私の人生の生き方の基本が「差別化」になったのも久保さんの影響なのだと思う。


 


 当時はまだ南部とか伊達などと昔のお殿様の領地の感覚が色濃く残っていて、
 岩手県でも南部の一関辺りは「あそこは伊達」だと言っていたし、
 青森県の八戸はもともとは南部の国で、
 それぞれ「八戸カワサキ会」と「津軽カワサキ会」に分かれていたが、
 これはかって戦ったことがあり一緒に会合などすると、酒の席では喧嘩が始まるからだとか言っていた。

 福島県でも福島地区会津地区は代理店が別に存在していたという
 まだ、そんな時代であった。


 
 

★カワサキの車で言えば、125B1が販売の主体で、

 

  
  120-C2SS などのスポーツ車が発売され始めた時代で、

 




 250A1などもあったが、まだ東北ではそんなに売れなかった時代である。
 


 


★ 仙台には4年間いたのだが、まだ各地には代理店が残っていた時代で、
 東北地域の各地に点在した10店ほどの代理店のそれぞれの経営方式も勉強になったし、
 兎に角、販売第1線の担当は川崎航空機籍では最初だったので、
 その後「販売の第1人者」と言う位置づけになったし、本当に役立ったのである。

 仙台の肉屋には牛肉がなくて豚肉ばかりで『すき焼き』も豚肉だったのだが、
 その仙台で「牛タン」が産まれたのは驚きで、どうやら始まったばかりの年代だったのだと思う。
 この仙台時代の4年目に、川重・川車・川航3社合併があって、崎重工業となるのである。

 今から言うと50年も前の「カワサキ単車の昔話」である。


 
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カワサキ単車の昔話  10    創成期のカワサキを支えた人たち

2023-07-31 06:43:05 | カワサキ単車の昔話

★カワサキは昭和35年(1960)に明石工場を単車の一貫工場としてスタートさせるのだが、
私自身は1961年に初めて単車営業課が出来て、
そこに配属されたので、スタートしたばかりの単車事業を知る一人となるのだが、
上司も全然単車事業のことなど解っていない素人ばかりだったので、
具体的な指示などは全くなく、結構自由に自分の裁量で物事が進められたのである。

★最初に世に出した125B7が散々の出来だったし、
 当時の世の中は50ccモペット全盛期で、カワサキはそんな小型部門は不得意だったから、
 スタートから5年ぐらいは事業としては全然ダメな時代が続いたのだが、
 昭和39年(1964)に岩城良三事業本部長になられて、カワサキの単車事業として本格的に歩きだしたと言ってもいいのだろう。
岩城さんは、それまでの「カワサキ自動車販売」と言う社名を「カワサキオートバイ販売」と改称されて、
 販売促進部門のメンバーは当時の川崎航空機工業からこの通称「ワ販」に出向となり、
 私もその「カワ販」の一員として広告宣伝とレース部門を担当することになるのである。

★ 青野ヶ原モトクロスの1位から6位までの独占したことが再建へのきっかけと言うこともあって、
レース関係は何となく「特別なもの」と言う認識もあって、
レース運営委員会」という技術・生産・営業から構成されたメンバーで基本方針が創られ、
 広告宣伝費とともに1億2000万円と言う膨大な予算で運営されていてその担当が私だったのである。

そのレース運営委員会には、青野ヶ原のチームの中心だった中村治道・高橋鐵郎さんのお二人が製造部門から加わったし、

 


 技術部門からは当時の技術部長の山田熙明部長以下大槻幸雄・安藤佶郎さんがメンバーだったし、
 営業部門からは苧野豊秋部長がメンバーで、
 私がこの委員会の事務局を担当していたのである。

 レースチームそのものはエンジン開発が技術部門
 マシン製作は製造部のモトクロス職場が担当しその管轄を田崎雅元さんがやっていたし、
ライダー契約は私が担当するという開発・製造・販売の3部門の協力体制で運営されていて、
 そのウエイトは単車事業経営の中で大きな比率を占めていたのである。 
 
このレース運営委員会は昭和39年からカワサキが初めてGPレースに参戦した昭和41年(1966)まで続いたのだが、
その後も約30年間、カワサキの単車事業の経営はこのメンバーたち中心に経営がなされたと言っても過言ではないのである。


★私自身も東南アジアのCKD事業のスタートを高橋鐵郎さんとのコンビで担当したし、
 ずっと後だが国内7万台販売達成時代も
 高橋鐵郎さんとコンビでその目標達成に尽力したのである。


  



★1988年10月には、高橋鐵郎本部長時代なのだが、
 国内市場7万台目標と言う大目標を背負って、国内市3度目の出向となるのだが、これは大変な目標だったのである。

 さて何からやるべきか?と考えたのだが
 一番最初にやったことは10月15日に、
カワサキファクトリー結成25周年記念」と銘打って、
 かって創成期に一緒にレースをやった方たちを一堂に会して、
 私としては「7万台達成への決意表明」のような気分だったのである。

 この写真におられるメンバーたちが出席されたのだが、
 これは素晴らしいメンバーなのである。

 カワサキの単車事業をスタート以来、この当時で25年間支えてきたメンバーだし、
 さらにこの後も10年以上に亘ってづつ
 川崎重工業の経営の中枢を支えた方たちなのである。
 このメンバーの中から川重の副社長が2人社長と常務が一人づつおられるし、

 


 当時のライダーたちも、安良岡・和田・金谷・山本・歳森・岡部・梅津・星野・清原と
 カワサキは勿論、日本のレース界を背負ったと言ってもいいような方たちが揃っていて
 当時の現役ライダーも宗和・多田・杉本五十洋 の時代だったのである。
 

 そう言う意味では
 この「カワサキファクトリーチーム25周年記」の出席メンバーは、
 即「創成期のカワサキを支えた人たち」と言って過言でないと思っている。 

 この会からすでに35年が経過して、
 もう逝ってしまわれた方も多いのだが、
 私にとっては本当に懐かしい方たちなのである。


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カワサキ単車の昔話  9    ヘリコプター

2023-07-21 06:01:06 | カワサキ単車の昔話

★広告宣伝課がスタートしてからのことだが、
 広告宣伝課はカワサキのヘリコプターを持っていたのである。

 当時の上司の苧野豊秋さんはジェットエンジン部門から来られたので、
 航空機事業本部にも顔が効いたのだと思うが、
 中古のヘリコプター100万円ちょっとで購入してくれたのである。
 
 このヘリで、全国のいろんなイベントなどにも応援で飛んで行ったし、
 全日本モトクロスなどにもやって来て、
 そこで、ヘリに乗せて貰ったライダーも結構いるのだが、
 その仲介を私がやっていたので、他メーカーのライダー諸氏とも仲良くなれたのである。


 これは伊豆丸の山での全日本モトクロスだが、
 麓の町からお嬢さんがカワサキのへりでやって来て、
 開会式での花束贈呈をしているところの写真である。


 

 因みにこのレース東京オリンピックの開会式と同じ日だったのである。



★ カワサキのベルヘリコプター
 これと同じ型だったのだが、ヘリの償却期間が短いので、
 償却済みのような機体だったから安かったのである。 
 何でもそうだが償却物件は償却済み価格は大体1割ぐらいになってしまうのである。

 



 FISCOの第1回日本グランプリの時も飛んできたし、
 写真撮影で鳥取の砂丘にも来てくれたりしたのだが、
 鳥取まで行くときは京都周りで大変だったのだが。
 帰りのへりに乗せて貰ったら、明石まで30分ほどでついてしまったのである。


 このヘリコプターも2年余りで手放したのだが、
 エンジンのオーバーホールの時間が来て、
 オーバーホールするとまた乗れるのだが、
 オーバーホール代が1000万円以上もするというので、
 手放してしまったのである。

 広告宣伝課のスタート時期はいろいろとオモシロいことがいっぱいあった時代だった。




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カワサキ単車の昔話  8   岩城良三本部長

2023-07-08 06:37:39 | カワサキ単車の昔話

★ 私自身は約40年間カワサキの単車事業に関係したのだが
 その間この事業のTOPに立たれた方は
 山本福三・神武敏彦・岩城良三・塚本碩春 ・青野格・大庭浩・高橋鐵郎
 と7人の方が続いて本部長の重責を務められたのである。
 それぞれの本部長と私自身は密接に関係があったのだが、
 一番印象に強く残っている方と言えば、3代目の岩城良三本部長だろう。
 
 岩城さんと言えば私の川崎航空機の入社時には塚本さんが人事課長、岩城さんが総務部長をされていて、
私の面接では第1問が塚本さんの「君は成績が悪いねえ」と言う意地悪い質問から始まったのである。
そんな質問にも何ら臆することなく持論を展開し、「成績など悪くても会社の仕事など絶対に人には負けません」と言い切ったりしたのである。
ところで君は野球をやってたな」と話題を変えて下さったのが岩城総務部長で、
私の面接はその後も延々と続いてほかの人の倍ぐらいの時間が掛かったのだが、
あとで私の入社時のコネだった砂野副社長から「君は面接だけはよかったよ」と褒めて頂いたのである。

 ただこの時に「人には負けません」と言い切った一言は、40年間ずっと私の胸の中に生き続けたのは間違いない。


★その私の入社当時のお二人の写真だが
 私はお二人ともご縁があって、後には本部長としてお仕えすることになったのである。

 

 
その岩城本部長はいろんな機会での訓示には
隣国の兵は大なり、その武器は豊なり、その武勇は優れたり、然れども指揮の一点譲るべからず 」で始まっていたのだが、
ホンダ・スズキ・ヤマハとの厳しい企業競争の中で、
自らの「指揮の一点」だけは絶対に譲らないという意志の表れで
まさにTOPらしいTOPだったという印象が強く残っている。

 私自身はまだ係長にもなっていなかった頃なのだが、
 広告宣伝課を任されて、その予算・1億2000万円については額が膨大で、本部長直轄管理だったこともあって、
 私は岩城本部長に直接承認印を頂いていたので、二人だけで話をする機会も多く、いろんなことを教えられたのである。

 当時まだ「カワサキ自動車販売」であった販社の社名を「カワサキオートバイ販売」に変えられたのは岩城さんだし、
 アメリカに販社KMCを創られて初代社長を兼務されたのも岩城さんなのである。

 これがスタート間もないころのKMCのTOPメンバーで
 左から杉沼・マセック・浜脇・岩城さんである。

 



★そんな岩城さんは、国内販社のカワサキオートバイ販売の社長も兼務されていたのだが、
 当時最大の市場であった東北6県の代理店の社長会に出席されて、
 社長連から「仙台事務所を創るように」と言われたようなのだが、
 即座に「創るようにする」と即答されたというので、これは誰が担当するのかが社内で話題になったのである。
 直属の部長から直接その指名を受けたのだが、
 どうやら岩城さんが私を指名されたようで、
 岩城本部長は後にわざわざ私の席まで来られて
 「ご苦労だが頼むな」と仰ったのである。

 そんなことで昭和42年(1967)1月1日からは、「仙台事務所長」となるのだが、
その肩書だけで事務所は勿論私一人が決まっただけで、
他はなのもない白紙の状況から「仙台事務所」はスタートするのである。

そんなこともあったので、私にとっては一番印象に残っている本部長なのである。
 
  
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カワサキ単車の昔話  7    創成期のカワサキのレースライダー

2023-07-05 06:01:34 | カワサキ単車の昔話

★カワサキの単車事業は昭和35年(1960) 明石工場で一貫生産スタートし、
昭和36年(1961) 発動機営業部に単車営業課が出来て、私はその当初からその営業課に参加するのだが、
昭和37年(1962)鈴鹿サーキットが出来て、確かMFJもこの年のスタートだから、
日本の二輪事業が本格的に動き始めたのはこの年だと言ってもいいのかも知れない。

この年の11月に行われたMFJ第1回全日本ロードレースでは、
250cc三橋実・350㏄片山義美がいずれもヤマハで優勝を飾るのだが、
その優勝者の二人は、その後のカワサキのレースで密接な関係が出来るのである。

そして創成期のカワサキの販売は国内市場だけであったし、
当時の主力車種は50㏄モペットだったから、
販売分野ではカワサキは全く振るわなかったと言っていい。
創生期のカワサキの国内での動きと言えば、レース活動であった。

当初はモトクロス中心だが、こんなライダーを揃えて、
モトクロス分野では「赤タンクのカワサキ」で一世を風靡したと言っていい。


  
 

 
昭和41年(1966)5月には、
モトクロスライダーの山本隆鈴鹿ジュニアロードレースに参加し、
初出場ながらホンダ・ホンダ・カワサキと3位入賞を果たして、
翌月からは正規にカワサキもロードレースに参画することになり、
片山義美の秘蔵っ子・金谷秀夫と契約し、
三橋実・安良岡健の二人もモトクロスからローライダーに転じることになるのである。

これはFISICOで行われた、日本GPのジュニアロードレースで、
当時のアメリカのTOPライダー・ガリーニクソン(ヤマハ)と金谷秀夫が、
息詰まる大熱戦を展開し、
二人が「同タイムのベストラップ」を記録するなどしたのである。
 

 
★そんな創生期でのレース活動で一緒だったライダーたちは、
 当時は単なる若いライダーだったのに、
 みんな素晴らしい成長を遂げられて、
 「世界」とか「日本」を代表する素晴らしいライダーに成長されたのである。
 そんなライダーたちとの写真は私の宝物である
 

 そんな中からの何枚かをご紹介してみよう。
 神戸木の実関連、御大片山義美さんを囲んで、

 


 
これはその「片山義美を偲ぶ会」の開会前に・・
  




 これは東京で私がシャッターを切ってる。
 かってのカワサキのライダーたち、みんな立派になられた。
 金子豊・岡部能夫・山本隆・星野一義
  





 マウンテン・ライダーの50周年記念パーテーで
 吉村太一ちゃんと。





 みんな立派になられたな。






 久保和夫さんとは、何故か近かった。


  



  金谷秀夫とは特にいろいろとあって想い出いっぱいなのである。
  この日が金谷と最後になってしまった。
  山本隆さんも今や大スターなのだが、彼は私より10歳若い。
  彼に頼まれて仲人をしてるのだが、
  こんなに大スターになるとは当時は思ってもいなかった。

  
  


 
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カワサキ単車の昔話  6   F21M 誕生物語  

2023-07-01 06:38:42 | カワサキ単車の昔話

★ KAZEの機関誌の今月号にF21Mのこんな写真が載っていた。

  
  


 F21Mのデビュー戦は昭和41年(1966)7月の青森県岩木山山麓のスキー場で行われたMCFAJのモトクロスだが、
 これからしばらくの間F21Mは連戦連勝で、界
 日本のモトクロス界を席巻したと言ってもいい。
 抜群の強さを発揮したマシンなのである。

★それまでのマシンは、実用車をモトクロス車に改造したもので、
 このF21Mがカワサキのモトクロスマシンで初めて本格的なマシンとして作られたものである。

 このF21Mが出現したのは、その前の年だったと思うが、
 スズキRH250という本格的なモトクロス車を2台創って、
 当時の久保和夫・小島松久の二人のTOPライダーに乗せて、
 ヨーロッパ遠征なども行い大いに当時のモトクロス界の話題となったのである。

 当時のカワサキのモトクロスチームは技術部の安藤佶郎さんが監督で、
 私がライダー関係を纏め、製造部がモトクロス職場を持っていて、
 技術・製造・営業の3者の協力体制で行われていたのだが、
 スズキのRHに対抗できる本格的なモトクロッサーを創ろうということになったのである。
 エンジンは安藤佶郎が当時の175ccのエンジンを238ccまでボア・アップしたのを用意したのだが、
 フレーム関係はモトクロス職場の松尾勇さんが個人的に設計図もないまま、
 べニア板に形を釘で打って作り、ヘリコプターのクロモリのパイプを貰ってきて、
 それに海岸から採って来た砂を摘めて創り上げたものなのである。

★ フロント・フォークもセリアーニタイプのものを新調したし
スズキと違って、当時の契約ライダー山本・歳森・三橋・安良岡・梅津・岡部・星野の全員の7台を造って、青森のモトクロスにデヴューさせたのである。

 これは当時のモトクロス業界では画期的な出来事で、
 注目を集めたし、現実にそれ以降のモトクロスは山本隆が3年連続チャンピオンを取るなど、
 その名声を欲しいままにした名車であったと言っていい。

 後には工場レーサーから技術部が正規に市販レーサーなども創り上げるのだが、

   


 最初に造られた7台は間違いなく、設計図もなしに 
 松尾勇さんが個人的に創り上げたものである。

★この年の秋の東京モーターショーにこのF21Mを記念車として出品したのだが、
 これを出品すると聞いて、エンジン開発の安藤佶郎さんが反対されたので、
 「なぜ?」とその理由を聞いたら、
 「このエンジンの基礎は125ccエンジンで、それを150㏄にし、さらに175㏄にし、235ccのモトクロッサーエンジンにしてなおかつ持っているということは、
最初の125㏄のエンジン設計過剰品質であったということで、
設計者としてはカッコ悪い」と仰るのである。
 「そんなこと、誰も思わない」と押し切って出品したのだが、
 設計担当としてはそんなことも思うのか?と私はある意味、感心したことを想いだすのである。

 いま思い返してみても、このF21Mは名車であったことは間違いない。
 多分これが松尾勇さんの最後の作で、
 それ以降は「KX」と名付けられてすべてが技術部によるものとなり、
 「レース職場」も消滅してしまうのである。
 逆に言うと、今となっては「レース職場」のあった昔のカワサキが懐かしいのである。


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カワサキ単車の昔話  5   スタート時の二輪事業

2023-06-28 05:36:59 | カワサキ単車の昔話

★日本の二輪業界が何とか形になってきたのは朝鮮戦争以降の昭和28年(1953)頃からだと思うが、
当時はまだ川崎航空機工業は単車のエンジンをメイハツ工業に出荷していただけで、
二輪業界に後発メーカーとして参入するのが昭和35年(1960)からである。
その頃には 一時は200社近くあったと言われたメーカーも、
浜松のホンダ・スズキ・ヤマハの3社とトーハツやスクーターの富士重・三菱などの数社に減っていた。

当時の二輪車の販売方式は、地方の自前の代理店から自転車屋・サブ店に「委託販売」するのだが、
自転車屋が二輪の修理能力があったわけでもないのに、
各地の代理店は中心機種であった50㏄モペットを5万店以上もあった自転車屋さんに委託して回る「委託競争」という今では考えられないことが行われていた。
そんなことで当時は「サブ殿様のデーラー乞食」などと言われたりしたのである。

★そんな時代のことをご存じの方は今となっては私ぐらいで、
そう言う意味では、カワサキではホントに一番旧いと言ってもいいのかも知れない。
スタートからの10年間を振り返ってみると私はまだ20代で若かったが、
事業が若かった関係もあって、単車事業では一番旧かったので事業の中枢を歩くことが出来たのである。
50㏄の国内販売はなかなかムツカシク、当時の事業経営は赤字続きで大変だったのである。
浜松3社に対抗出来たのはレースチームだけで
モトクロスは山本隆・歳森康師・梅津次郎・岡部能夫・星野一義
ロードレースは三橋実・安良岡健・金谷秀夫と言う当時の日本の  
TOPライダーを揃えていて、その直接の契約担当だった。

国内はまだ実用車のカワサキの時代で、
広告宣伝課を担当した3年以降は、当時のカワサキの最大の市場であった東北6県の販売第一線を川崎航空機からの出向者としては初めて担当して、
販売第一線のノウハウも何となく身に付いたような気がする。
アメリカ市場がスタートし、赤字続きであった単車事業がようやく黒字が出だしたそんな時代だった。

★スタートからの10年にはこんな出来事があったのだが、
 そのすべてに何となく関わっていたのである。
  

 昭和35年(1960) 明石工場で一貫生産スタート
 昭和36年(1961) 発動機営業部に単車営業課がスタート
 昭和37年(1962) 鈴鹿サーキットスタート ロードレース観戦
 昭和38年(1963) 青野ヶ原モトクロス完勝
 昭和39年(1964) 広告宣伝課カワサキレースチームスタート
 昭和40年(1965) ロードレーススタート
 昭和41年(1966) FISCO日本GP出場
 昭和42年(1967) 仙台事務所開設・東北6県担当
 昭和43年(1968) アメリカKMC 設立
 昭和44年(1969) 川重・川車・川航3社合併



 車で言うと125B7から始まって、
 125B8

  

 
 
  125B1


   

 
 250A1の時代で、
 このカタログも私の広告宣伝課時代につくったもので懐かしい。


  


それにしてもこのスタートの10年、
 川崎航空機工業としては、全く未経験の単車と言う末端民需大量販売事業をよくやり切ったと思うのである。
 国内では販売関係をメグロ・メイハツの二輪経験者が担当して援けてくれたくれたお陰だし、
 スタートしたばかりのアメリカ市場の販売の中心になったのは、
 二輪車に詳しいアメリカ人たちだったのである。

 





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カワサキ単車の昔話  4   新しく出来た広告宣伝課

2023-06-25 06:34:03 | カワサキ単車の昔話

★日本能率協会は単車事業を再建する条件の一つとして「広告宣伝課を創るこ」を条件にしたのだが、
その具体的な予算として「1億2000万円」が3年間も続いたのである。
 当時のサラリーマンの年収50万円の時代だったから1億2000万円は現在なら10億円を悠に超す膨大な予算であったことは間違いない。

 そんな広告宣伝課の担当が当然のようにまだ係長にもなっていない私に科せられたのである。
 それも掛長・課長もなしに直接の上司はその後もずっと単車事業でご縁のあった明石高校の先輩でもある苧野豊秋次長だったのである。

 私は入社以来、誰もやったことのない「新しいこと」ばかりをやって来たので「古谷に任せば何とかするだろう」と周囲の方は思ったに違いないのである。


★昭和39年(1964)1月から広告宣伝を担当するようになって、
私の会社での仕事の内容も『一変した』と言っていい。

それまではカワサキの広告宣伝はカワサキ自販で担当していたのだが、
当然広告宣伝業務をカワサキ自販から引き継ぐことになったのである。
当時のカワサキ自販では広告宣伝業務は、総務課長・兼広告宣伝課長の小野田滋郎さんが担当されていいた。

小野田滋郎さんと具体的な仕事を一緒にしたのはこの時が初めてだったが、
小野田さんの凄さ、その仕事ぶりにビックリしてしまったのである。
世の中にはこんなに優秀というか仕事ができる人がいるのである。
現役時代いろんな方に出会ったが「この人にはとても敵わない」と思ったのは小野田滋郎さんだけかも知れない。
小野田滋郎さんはあのフィリッピンから戻られた小野田寛郎さんの弟さんなのである。

 この写真の左側の方で、陸軍士官学校出身の秀才なのである。


 

 
★ 前回、カワサキのレースのスタートは、
カワサキ125B8での青野ヶ原のモトクロスと記述したのだが、
 実はカワサキ125B7時代に、カワサキ自販で小野田さんはライダー三吉一行でMCFAJの全日本にも出場させており、
 日本で初めての鈴鹿サーキットのロードレースでは250は三橋実、350は片山義美がいずれもヤマハで優勝しているのだが、
 その三橋実をヤマハから引っこ抜いて厚木にカワサキコンバットを創らせたも小野田滋郎さんなので、
 カワサキの最初のレースをやったのはカワサキ自販の小野田滋郎さんと言うのが正しいのかも知れない。

カワサキの初めての契約ライダー5人のうちカワサキコンバットの三橋実以下3人は、カワサキ自販から引き継いだのである。

 

 

★川崎航空機工業に広告宣伝課が出来て、
 当然カワサキ自販の広告宣伝課を引き継ぐことになったのだが、
 その当初、何も解らぬ私を援けて頂いたのは小野田滋郎さんで、

 カワサキに広告宣伝課が出来て1億を超す予算があると聞きつけて、
電通・博報堂・大広・毎日広告など多くの広告代理店が売り込みに来たのだが、
向うのペースのままではどうしようもないので、
代理店選定基準』として、各社に共通の質問として『15項目の質問』を創ったのである。

その殆どは小野田さん主導で創られたのだが、
当方の質問が厳しくて「とても素人とは思えないポイントを捉えた質問」と広告代理店に感心されたりもしたのである。
特に「貴社の創造能力を図示・説明してください」と言う設問には本職の広告代理店が、ちょっと困ったようで、
小野田さん曰く「口でいろいろ言えても、ホントに解っていないと図示できない」と仰るのである。
確かにその通りで、物事を簡単に図示することはなかなかムツカシイのだが、
小野田さんは陸士仕込みの「戦略・戦術・戦闘論」などホントに上手く『図示される』のにはびっくりしたのである。

そんな小野田滋郎さんだったが、広告宣伝が川崎航空機に移り、
カワサキ自販も川崎航空機に吸収ということになって、
この年の3月末で辞められたのだが、個人的には私はその後も長くお付き合いがあったのである。


★ こんなことで始まった「広告宣伝課」の新しい職務だったが、
 この1年目は折角頂いた予算1億2000万円の内、7000万円しか使うことが出来なかったのだが、
これは「広告宣伝」と言えば「テレビ・新聞」なのだが、
その「テレビ・新聞」が使えなかったからなのである。
その理由は、当時は「実用車のカワサキ」で東京・関西などの大都会では全く売れていなかったので、
「東京・大阪などの大都市は広告は要らない」と営業サイドは言うので、新聞もテレビも使えないのである。

この1年目の実績に本社の専務から「お前ら金を渡してもよう使わん」と怒られたものだから、
2年目は何とか予算は使い果たそうと

新聞は「朝日・毎日・読売は抜き」で
全国40社以上もある地方紙に「全頁広告」を打ったのだが、
これは広告業界では「前代未聞」で「カワサキはとんでもないことをする」と広告業界で評判になったのである。

これは中央紙に広告するよりは費用面では「めちゃ多く掛かる」のだが、こんなことをしたのは、この年のカワサキだけだろう。

更にテレビも関西地区だけだったが、
当時売り出したばかりの藤田まことを使って

 


「かあちゃん ても んせい めた かわさき」と喋らした
15秒のコマーシャルなど作ったので、

 2年目は広告宣伝予算はちゃんと使い切ったのである。
 因みに「藤田まこと」さん、もう亡くなってしまわれたが、
 私と同じ1933年生まれなのである。




    
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カワサキ単車の昔話  3   125B7と物品税

2023-06-23 06:02:03 | カワサキ単車の昔話

★昭和36年(1961)12月15日に新しくできた「単車営業課」に出社した時、
 小野部長から一番最初に「物品税をよく検討してくれ」と言われたのである。
 突然で「何のことか?」と思ったのだが、
 それが単車営業課で最も重大な事項であることは直ぐ解ったのである。

 前年度の昭和35年度から製造部門では新しいカワサキの単車の一貫生産が始まったのだが、
 生産していた機種は「125ccのB7」と

  


50㏄のM5」で、

 

 
 これ以外にも井関の依頼を受けて「井関のタフ50」も生産していたのだが、

  

 
 この中で「125B7」がフレームに欠陥があり、毎日返却されてくる状況だったのである。
エンジンは川崎航空機の技術者の設計だが、車体はまだよく解らないので明発工業に依頼したのだが、その車体に問題があったのである。
 そんなことで返却が続き、翌月の1月度は返却が生産・出荷台数を上回って「マイナス17台の生産・出荷」になるほどの返却台数だったのである。

★ 当時はぜいたく品に掛けられる「物品税」と言うのがあって、
 50㏄には掛けられないのだが、125cc以上の機種には、工場出荷時に1台ごとに物品税が掛けられていたのである。
 その物品税の納入申告税だから、工場出荷時に台数分の物品税額を納入すればいいので、そんなにムツカシクはないのだが、
 それが返却された場合は「戻入手続」さえすれば収めた物品税額が戻ってくる仕組みなのである。
 ただ、その「戻入手続」は簡単ではなくて、1台ごとの税務署の立ち合い検があり、なおかつ「工場出荷時と同じ状態」と言う規定で、メータ―が回っていたら「戻入されない」ので若し少しでも乗っていたら、
 「メーターの巻き戻し」などをやらねば税金は戻ってこないのである。
 戻ってくる台数が半端ではないので、この「戻入手続き」は大変だったのである。
  
★12月から翌年春先にかけて「125B7の返却」は続き、
 その「戻入手続き」が当時の営業の主たる業務で、毎日明石税務署の署員さん立ち合いの「戻入検査の対応」が続いたのである。

 さらにいうと、これは「申告税で大阪国税局の直接の管轄」なので、
 戻入検査は明石税務署員がやるのだが、申告先は大阪国税局なのである。
 
 当時は単車事業スタートしたばかりだから、
 誰も「物品税」のことなど解っていなくて、
 申告だけはカワサキ自販に販売した台数分だけ納入していたのだが、
 納入台数は販売台数ではなくて「工場からの出荷台数」なので、
 当時工場内にいた「カワサキ自販の兵庫営業所への販売」は除外しないといけないのだが、それも間違っていたのである。

 大阪国税局の監査でそれを指摘されて「知りませんでした」と言ったら、
 「君は知らなくても、川崎航空機が知らなかったとは言えない
 「物品税は申告税だから体刑もありうる」などと脅かされたりして、
 その対応は本当に大変だったのである。
 この物品税は、平成元年(1989年)4月「消費税」が導入されるまで続いたが、
 その後はこんな大きな返却などはなかったので問題にはななかったのである。

 ★カワサキの最初に発売した車125B7はこんなに大変な車だったので、
 1962年の秋のモータショーには125B8が発表され、
 1963年度初めから市場投入がされたのだが、
 この車は結構評判が良かったし、6月の青野ヶ原のモトクロスも
 このB8のモトクロスレーサーだったのである。

  
 


 ただ、最初のクルマの125B7が大変なことだったので、
 スタートしたばかりのカワサキの単車事業は大赤字で、
 川崎航空機の本社は「この事業を続けるべきかどうか」を日本能率協会に調査を依頼したのである。
 その調査期間中に行われたレースで「1位から6位まで独占の完全優勝」だったことから、
 製造部をはじめ、職場の意気は盛んで、そんな末端の状況を見た日本能率協会は「この事業続けるべし」と言う判断をして、
 1964年1月に新単車事業部として再スタートすることになるのである。

 その再開の条件の中の一つに「広告宣伝課を創るべし」と言うのがあって、
 本社はその広告宣伝課に1億2000万円の予算を3年間、開発費として提供することになるのだが、
 私の年俸が40万円の時代だから1億2000万円は莫大な予算なのである。
 
 その新しく創られた「広告宣伝課」を私が担当することになるのだが、
 その話は次回に・・・



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カワサキ単車の昔話  2    カワサキのレースのスタート

2023-06-21 05:58:12 | カワサキ単車の昔話

川崎航空機工業は戦前からあった会社で、
明石と岐阜に工場があり、戦時中は航空機の製造をしていたのだが、
明石工場は「エンジン」岐阜工場は「機体」を造っていた。
戦後再開後も明石はジェットエンジンのオーバーホールや発動機の各種エンジンなどの開発生産を行っており、
その中の一つに単車のエンジンがあって、それを明発工業に提供していたのである。

その後川崎航空機工業自体が単車事業に進出することになり、
川崎明発工業を傘下に収め、「カワサキ自動車販売」と言う社名の販売会社を創り、神田・岩本町にその本社があったのだが、
社長は川崎航空機の専務が兼務されたが、
従業員の殆どは「カワサキ明発」の社員であった方たちだった。







★ 川崎航空機工業の明石工場に単車営業課が出来たのは、前回既述したように昭和36年12月のことなのだが、
当時の明石工場の人達は、エンジンは専門家もいたが、
こと二輪車に関しては、殆ど全員が素人で何にも解っていなかったのである。
そんな中で、当時の兵庫メグロの西海義治社長だけが「二輪車」に詳しくて、当時の単車事業部の人達の多くが大いに西海さんの影響を受けたのである。
西海さんは前身はプロの「オートレーサ」で特にレースに関心をお持ちだったのである。

    

 

★青野ヶ原のモトクロスの完全優勝のこの写真をご覧になった方は多いと思うが、
この青野ヶ原モトクロスの「仕掛け人」が西海義治さんなのだが、
それにはさらに前段がある。





この青野ヶ原モトクロスは昭和38年(1963)6月なのだが、
その前年昭和37年(1962)11月に新装なった鈴鹿サーキットで開催されたMFJ第1回全日本ローレースに、
当時の製造関係の人達をバスを仕立てて観戦させたのも西海義治さんで、
初めてロードレースを見た製造部の人達は燃え上がってしまって、
カワサキもレースを」と言うことになったのである。
当時、レーサーを仕上げることなどカワサキの人達はまだ出来なかったので、 
西海さんは子飼いの「松尾勇」さんを製造部に送り込んで、
青野ヶ原に出場したレーサーを創り上げたのである。


★ カワサキの初めてのレースは1位から6位までの完全優勝と成るのだが、
このライダーたちは製造部の従業員で別にライダーでもなかったのに、なぜ1位から6位までの独占できたのか?

これは当日雨になり、レース場は水溜りばかりになって、
他社の早いマシンはみんな水の中で止まってしまったのだが、
カワサキの実用車のような125B8だけが止まらずにみんな走り切ったからなのである。
そんなことでこの勝利は神様がカワサキに援けて下さったのだと思う。 

余談だが、このレースには後カワサキのエースライダーとなった山本隆もヤマハのマシンで出場していたのだが、
彼のマシンも水の中で止まってしまったようである。

★このレース出場は、実は会社での正規の出場ではなくて、
 製造部の有志が勝手に出場したもので、予算もなかったし大変だったのである。
 なぜ、私がこのレースのことを結構詳しく知っているのかと言うと、
 当時の営業部の上司の小野助治さんもこのレースには関わっていて、
 私には「金の面倒を見るように」と言う指示があったし、
 私の下にいた川合寿一さんがチームのマネージャー役で援けたのである。


★ この写真の真ん中が神武事業部長だが
 ここに写っている方々は、その後のカワサキの単車事業を支えた方たちであると言っても過言ではない。
 この写真になぜ私が写っていないのか?と不思議に思うほど殆ど全員が密接に関係のあった方々なのである。
 後列の真ん中が小野助治さんで当時の直接の上司だし、
 個人的には私の仲人さんなのでもある。


 


 さらにこの辺りの方が直接このレースに関わった方々で、
 中村治道さんがこのプロジェクトの中心だが、
 中村さんは明石の出身で明石高校の先輩だったし、
 高橋鐵郎さんとはホントに40年間近く密接な関係だった。
 川崎芳夫さんは私の1年先輩だが、川崎重工業の創業者・川崎正蔵さんの曾孫さんである。
 その他マルで囲んだ方たちは私と仕事の上でも密接に関係があった方たちで、右が川合寿一さんなのである。

 
   


★このレース以降、
 カワサキもレースの世界に正規に進出することになり、
 私はその責任者となってレース関係を統轄することになるのである。

カワサキが最初に契約したライダーたち
 カワサキコンバット三橋実・梅津次郎・岡部能夫
 神戸木のクラブ歳森康師・山本隆 である。

  
  
 
 本格的なレースの話はまたの機会に。
 
 
  

 


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カワサキ単車の昔話   1

2023-06-18 06:18:49 | カワサキ単車の昔話

★今年2023年はカワサキの単車事業スタートから70周年だそうである。
 先日、カワサキの国内販売会社・KMJのOB会の慶睦会に出席して初めて知った。
 KMJでは70周年を記念してこんな立派な記念のグラスを創っていて、
 お土産に頂いてきたのである。

  

 
 ところで70年前の1953年と言えば昭和28年と言うことになる。
 私自身は当時の川崎航空機工業に昭和32年4月に入社しているので、
 其れよりも5年も旧い話なのだが、
 当時から明石に住んでいたし、川崎航空機とは何となく繋がっていて、
 当時副社長ををされていた砂野仁さんは伯父の友人で、私は子どもの頃から知っていて、
 戦後、朝鮮から引き揚げてきたときは中学1年生だったのだが、
 砂野さんの勧めで神戸一中に入学したのである。
 そして川崎航空機に入社したのも砂野仁さんのコネだったのである。

 そんなこともあって、カワサキの単車の歴史についても、
 今となっては語ることが出来るホントに数少ない一人になってしまったので、
 この70周年を記念に「カワサキ単車の昔話」として
 戦前のことも含めて、戦後の事業再開などいろいろ纏めてみたいと思っている。

★ 川崎航空機工業と関係が出来たのは実は戦時中のことなのである。
 私はまだその頃は朝鮮京城(今のソウル)にいたのだが、
 夏冬の休みには故郷明石に帰郷していて
 当時、伯父は明石の中崎海岸に錦江ホテルと言うホテルも経営していた。
 伯父の本職は当時の南朝鮮の電力会社南鮮合同電気のオーナ副社長だったのだが、明石ではホテルなどもやっていたのである。

  

 
 この錦江ホテルが戦時中に川崎航空機に来ていた軍人の宿舎として接収されて、
 当時の川崎航空機の総務部長であった砂野仁さんとの関係ができたのである。

★前述したように私は昭和32年の入社なのだが、
 戦後川崎航空機工業は軍事産業であったことから、戦後の中断があって、
 高槻や播州などに疎開工場など持っていて、川崎機械産業としてやっていたのだが、
 朝鮮動乱が始まったのを機会に、昭和28年に明石と岐阜でそれぞれ川崎航空機工業は復活したのである。

 その後、発動機では単車エンジンの開発・生産を始め、
 カワサキ明発に販売していたので、
 私が入社した1957年当時は、発動機の営業の中に単車エンジンの販売担当者が一人だけいたという状況だったのである。

 
 

 その後、いろいろあったが、
 川崎航空機は単車事業をスタートさせる決断をして、
 明石工場の中に単車製造一貫工場を創って、
 単車事業をスタートしたのが昭和35年(1960)のことなのである。
 こんな当時の写真もあるが、




 当時、生産していたのはカワサキ125B7でこんなバイクだった。

 


 当時はこのほかにもモペットM5だとか、
 井関からの依頼を受けて「井関のモペット」の生産を開始したのである。
 この時点ではまだ発動機営業の中で担当者一人での営業だった。

昭和36年(1961)12月15日付で、発動機営業部の中に初めて「単車営業課」が出来て、私はその時点で、単車営業課に移動した。
 これがカワサキの単車事業のスタートだとしたら、
 私はカワサキの単車事業の最初から単車を担当し、
 その後約40年間、1999年に退社するまで、
 一貫して単車事業とともに歩いたということになったのである。
 今となっては1999年も20年以上も昔のことなので、
 そん40年間の「カワサキ単車の昔話」を纏めてみようかなと思ったのである。

 
★まずは、初めて出来たカワサキの単車営業課だが、
 私はまだ係長にもなっていない入社4年目の新人で、
 課長も部長もいるにはいたが、単車については私と同じ初めての経験で、
 ホントに何のノウハウもない白紙の中からのスタートだったのである。

 「単車営業課」と言う名前ではあるが、
 当時の技術開発部門・製造部門はそれなりの陣容もあったのだが、
 この「単車営業課」はほんの7人ほどの陣容で、
 今でいうなら、企画・広告・営業など事務屋のやることは一切担当だったし、
 サービスと称していたが、品証部門もその中にいて、
 私は新人ながら、掛長心得のような役割だったのである。

 当時のバイクの写真だが、
 当時の「カワサキ自動車販売の広告宣伝課」が撮ったものだと思う。

   


 当時は東京の神田岩本町に「カワサキ自動車販売の本社」があって、
 そこから全国の自前の代理店を通しての販売をしていて、
 単車営業課はこの「カワサキ自販」に二輪車を卸すのが主たる業務だったのである。

 この「カワサキ自販」は川崎航空機がカワサキ明発に出資して造った販社で、
 社長は川崎航空機の土崎専務が兼務されていて、川崎航空機の明石工場よりも「格上」だったので、
 今と違って工場サイドの開発・生産部門などは、
営業連絡会議」では怒られてばかりだったのである。

 そんな生い立ちの経緯から、国内の販社のKMJは、世界の販売会社とはちょっと違った扱いで、
 その社長はずっと事業本部長が兼務するという時代が続いたのである。

 そんな国内販社に私は3回も出向しているので、
 国内市場のことは結構詳しいし、
 明石の事業部が新事業など起こす時は、事業部に戻っていて、
 そんなことで40年間、カワサキの単車事業とともに歩いたということになるのである。

 では、またいろいろと・・・・
 
 
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はじめてのヨーロッパとナイジェリア

2023-04-25 06:29:20 | カワサキ単車の昔話

★1977年(昭和52)8月のことだから、もう50年近くも前の話だが、
 私は当時カワサキの新規事業CKDを担当していて、東南アジアや世界の開発途上国の担当だった。
タイ・イラン・インドネシアなどとともにアフリカのナイジェリアでも二輪のCKDの話があってイギリス経由で単身ナイジェリアのラゴスを訪れていて、これが初めてのヨーロッパ訪問だった。

 まっすぐにアフリカに行ったのではなくて、タイのバンコックにも寄ってからフランクフルト経由でロンドンに、
そしてイギリスではラゴスに事業を展開していたPZの本社のあったマンチェスターを訪問してからのアフリカだった。

  


 約20日間の行程ではあったが、よく独りで行ったものだと思うが、
 当時のカワサキの二輪事業はスタートの時期で、私だけでなくみんな世界が初めての経験だったのである。
 ロンドンの空港では日本人だがバンコック経由と言うことで「怪しい」と思われたのか、徹底的に荷物の検査をされて1時間近く掛ったのである。
 ロンドンではスタートしたばかりの英国カワサキの内田社長が迎えてくれて、たまたま土日だったのでロンドン見物などお世話になったりした。

 マンチェスターのPZ本社では、勿論英語での会話だが、たどたどしい私の英語だが何とか話だけは出来たのである。
みんな一人旅で解らぬことばかりなのだが、第1の失敗がラゴス行の飛行機の搭乗だった。
 ロンドンに空港が二つもあるなどとは全く思わずに、ヒースロー空に行ったら、ラゴスに飛ぶ飛行機がないので、よく聞いてみたら、
 ラゴス行はガトウイック空港から出ているということで、その日は乗れずに翌日の便になってしまったのである。
 そんなことで当時ラゴスに単身赴任していた森田君はラゴスで二日続けて私の出迎えをしてくれたのである。

★アフリカのナイジェリアの首都ラゴスは当時は発展の最中だったが、
 こんな町で結構な大都会なのである。

 


 ラゴス島の中は綺麗だが、ちょっとはずれるとこんな状況で、
 当時はクルマが大渋滞で1日おきに奇数と偶数の車番のクルマしか走れないのだが、
 それでもこんな状態で森田君も奇数と偶数の車番の2台の車を持っていたのである。

 


 ナイジェリアではPZとの方たちとの交渉がいろいろあったが、
 140km離れたIBADANPZの支店も訪ねたのだが、

 
 

 一歩ラゴスを出ると、渋滞などは全くなくて快適ドライブだったが、
 まさにこれがアフリカで、このような写真のままの風景で、
 車は少なかったがどこに行ってもいっぱいの人達だった。

  
 

 兎に角、子どもたちが多いのである。
 「こどもは何人いるのか?」と聞くので「」と答えると
 「なぜ2人しかいないのか」と不思議がるのである。
 どうも「避妊」などの風習がないようなのだったが、今はどうなっているのだろう?
 
 


 そんなナイジェリアのラゴスでの想い出だが、
 このプロジェクトは結局実ることはないまま終わってしまったのだが、
 当時すでに進出していたホンダさんはめでたく40周年・100万を記録されたようである。

  
 
 そんなナイジェリアでの経験なのだが、
 なぜPZとの話が実らなかったのか?
 そのあたりのことが全く解っていないのである。


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伊豆半島の想い出

2023-04-23 05:40:08 | カワサキ単車の昔話

★ 昨日テレビを観ていたら、名門川奈で女子プロがやっていた。
 1回だけだが川奈でプレーしたことがある。
 昨日のテレビにも映っていた、16・17・18番の最終3ホールはよく覚えている。

 


 川奈ホテルに前日から一泊でのゴルフだったので、人生の中でも一番贅沢なゴルフだったかも知れない。

関東には住んだことはないのだが、なぜかこの辺りとはいろいろとご縁がある。
 御殿場にはFISCOがあって、そのスタート時代からよく行ってたし、
 伊豆半島の丸の山高原では2年続けてモトクロスの全日本があった。
 この辺りでクルマで走ったコースだが、結構よく走っていて、
 大体の地図はあたまに入っている。
 
 

 
 特に伊豆半島とはいろいろとご縁があってよく車で走ったものである。
 最初に走ったのは青森のモトクロスの特に往復した箱根越えだが、
 そのあとすぐ丸の山高原での全日本モトクロスが2年続けてあったので、
 2年続けて訪れている。
 ちょうど東京オリンピックが開催されたころのことである。

 


 それからずっと後のことだが、カワサキもマリンを扱った時代があって、
 松崎にあった「松崎マリーナ」を訪問したことがあるのだが、
 その時は沼津から海岸線を走ってそのまま伊豆半島を1周したのである。
 熱海にはいろんな会合で何回もいったことがる。

 川奈に行ったのはいつのことだったか忘れてしまったが、それが一番最後の伊豆半島だったと思う。

★二輪に関係があったお陰で、全国の販売店を訪問する機会も多かったし、各地でのレース関係などもあって、全国すべての県を車で走っているのだが、
この辺りも結構走っているものである。
 ただ最近はクルマには毎日乗ってはいるが、遠出をすることは無くなってしまって、
 日本の道も想い出だけが残っている。


 

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東南アジア調査団の想い出

2023-04-19 07:04:07 | カワサキ単車の昔話

★カワサキの二輪事業の国内市場を担当して、オモシロいことばかりだったのだが、
10年間の国内市場の出向から事業本部の企画室に戻ったのである。
サラリーマンの動くルートとしては最高の部門で、企画でじっと大人しくしていたら、昇格・出世は間違いないいい部門なのだが、
 性格的にどうも「じっとはしておれない」のである。

 当時は川重の吉田専務が先頭で旗を振られていて、
 ちょっと陰りの出たアメリカ市場の大型車に代わって、
 効率的な生産設備による安価な小型車を大量に生産・販売するという
 「小型車プロジェクト」が真っ盛りで、1980年に50万台を売るという構想で進められていたのである。
 10年間販売分野を担当してきて、開発・生産とはちょっと異なる販売分野のムツカシさは解っていて、こんな構想はとても実現するわけはないと思ったのだが、
 専務が先頭で走っているプロジェクトなので真正面から反対は出来ないのである。
 
 企画部門という基本計画の推進部門担当なので、具体的な反対は諦めて、
 「東南アジアの小型車のCKDプロジェクト」を提言し、
 先ずはその市場調査を行う計画を上程したのである。
 ちょうど企画に戻って5か月目の1976年春のことである。

 CKDプロジェクトなら明石に膨大な設備投資は必要ないし、 
 東南アジアの小型車は日本の50ccと違って100㏄なのである。

 技術本部長の高橋鐵郎さんを団長に生産の安藤、技術部の川崎、営業の山辺さんに加えて国内販売から松田さんと、
私が纏めの事務局という調査団を創り、
 5月17日から6月18日までの1か月間、
 台湾・インドネシア・タイ・イラン・マレーシア・フィリッピンの各国の市場調査を行ったのである。




 

その結果は秋には「市場開発プロジェクト室」という新職制ができて、
 私もその一員として折角の企画部門を1年で自ら飛び出した結果となったのである。


★二輪事業の調査は各地のデーラー訪問が中心になるので、
 各国の末端の状況も解るし、車での移動が中心なので、
 非常に面白いのだが、世界の各国のこんな末端を1か月かけて観た人などはそう多くはないと思う。

 先ずはインドネシアではジャカルタ・スラバヤなど当時ネシアは、
 二輪車の市場としては最大で、どの町も二輪車であふれていたのである。

 
 

 そのあとのタイでは、北の都・チェンマイにも行ったし、
 バンコク周辺では観光地バタヤにも行けて
 ある意味観光旅行のようだった。





 
 一番大変だったのがイランで、まだ王政が敷かれていた時代なのだが、
 サベイにすでに大きな工場を持ったデイーラ―と契約が交わされていて、
 テヘランから約100kmの現地まで車で往復したし、
 この地図を見てもお解りのように、緑地は全くないと言っていい。
 延々と広大な砂漠が広がっていて、
 突然現れるシーラーズなどは人が創った美しい街なのである。

 


 南のシラーズアスファハーンのデイーラ―訪問もしたのだが、
 アスファハーンでは突然飛行機が欠航になって、
 空港の係の方に聞いても、いつ飛ぶのか解らない」のである。
 この辺りが「イランらしさ」で、神様だけが知っていると仰るし、
 当時のデーラーに「事業計画」がないのである。
 そんな先の話は、「神様の世界」だとホントにまじめに仰るのである。
 
 仕方がないのでテヘランまで400kmの距離だったが、
 タクシー2台でテヘランまで戻ってきたのである。
 どこまで行っても真っすぐな砂漠の中の道だった。

 今はイランなどなかなか行けないので、貴重な経験だったと思っている。


★この1か月の調査団の出張で、私がつくづく思ったのは
 「世界は広いな」と言うことと
 「世界にはいろんな考え方」があって、特に日本人は自分の方から他人を観ることが多いのだが、
 世界の人口では日本人よりはアラブの宗教を信じる人たちが圧倒的なので、それが「おかしい」などとは言えないのである。
 先方から見ると「日本人のほうがおかしい」のかも知れないのである。

 そんなことが、よく解った1か月で
 この調査団の現地報告から、カワサキの小型車のCKD事業はイラン・タイ・インドネシアの3国を中心に新たにスタートしたのである。
 この調査団の報告を契機にカワサキのCKD事業本格化して、
 今では事業の中心になっているし、日本への逆輸入なども行われているようである。


 
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