雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキ ZEPHRE400 のこと   雑感

2023-03-12 06:07:10 | カワサキ単車の昔話

★1989年と言えばまだレーサーレプリカ全盛期と言ってもいい時代に
 「カワサキZEPHRE400」は登場して何年間も売れ続けたヒット商品なのだが、
 発売までにこれほど期待されていなかったのは珍しいと言ってもいいほど期待されていなかったのである。

 新製品の発売時期は期待された商品はみんな春のシーズン前の2月や3月に発売されるのだが、
ZEPHRE400が発売されたのは、4月の末でそれも生産台数はほんのわずかだったのである。
 

   


 私は1988年10月に「7万台販売目標」と言うとてつもない大きな目標を与えられての3度目の国内市場担当となった。
そんな目標の中では、当時のスポーツ・レプリカなどが中心で、ZEPHRE400などは全然期待されてはいなかったのである。

性能的に何の魅力もなくて「ZEPHRE」と言うのは「西からの風」と言う意味なのだが、
レーサーレプリカ全盛期に、カウルなしの懐古的なスタイルを前面に押して登場したのである。

ZEPHYRの広告も性能などは訴えるものが何もないので、こんなイメージ広告に終始したのである。


 
 
 


これがフルカウル以外の選択肢を求めるユーザーに受け爆発的な売れ行きを見せ、「ネイキッドブーム」の立役者となるのだが、
そんな人気は、ある意味作られたものでそれは「私が創った」とも言えるかも知れない。

誰もこんな車が売れるなどとは思っていなかったので、その生産台数はほんのわずかだったものだから、
発売してちょっと人気が出たらすぐ足りなくなってしまって『バックオーダー』となったのだが、
バックオーダー』になるということは『よく売れてる』という証明だし、「バックオーダーがバックオーダーを産む」と言う現象になるのである。
あまりにもバックオーダーが増えたので少しだけ増産はしたのだが、上手に調整して3年間もZEPHYRのバックオーダーは続いたのである。
そう言う意味では、これはハードというよりも『ソフト』でヒット商品にしたと言えるのかもしれない。

 性能的に訴えるものは何もなかったのだが、
デザインコンセプトも変わっていて、タンクマークはKawasakiではなく、Zephreだし Kawasakiのレタリングは1か所だけと言うのも当時としては初めてで、そんなこともあってZEPHREを買ってくれたお客さんは、従来のカワサキユーザー層ではなかったので、
即台数の上乗せになったのだと思う。

★この『バックオーダー』を3年間も続けることが出来たのは、私が「バックオーダーが消えないように」生産台数を調整し続けたからだと言っていい。
実はずっと以前のFX400の時のことだが、3ヶ月分のバックオーダーが続いたのだが、増産した途端に3ヶ月のバックオーダーは消えてしまったのである。

その時解ったのは、お客はあちこちの店に行くので独りの客が3台ぐらいになってしまっていて、モノが足りたらたちまちバックオーダーは解消されてしまうのである。
そんなFX400の時の経験から、ZEPHYRの時は3ヶ月のバックオーダーなど無視して少量生産を続けていたら『足りない=いい商品』ということで延々とバックオーダーが続いたのである。 
ホントに特徴のない車だったのだが、空前のヒット商品となり、『7万台目標』に大いに貢献したのである。

若し、初期に増産していたら『バックオーダーは一瞬に消えてしまっただろう』と思っている。

「7万台目標」も達成できたし、利益貢献も出来て最後の国内担当は「有終の美」を飾ることが出来てよかったなと思っている。

 






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カワサキの昔話 3題

2023-03-01 06:56:02 | カワサキ単車の昔話

カワサキの二輪事業には、私はご縁があって
 カワサキが2輪事業をスタートさせた1960年(昭和35年)から
 約40年1999年まで担当させていただいたので、
 その間の想い出話もいっぱい持っている。

 今では普通に語られていることも、
 ちょっとしたことから残っているので、
 若しあの時「そんな判断」をしなかったら、どんなことになっているのだろうか?

 そんな「カワサキの昔話 3題」をご紹介してみよう。


★まずはカワサキだけが今も持っている「ユーザークラブKAZE」だが、
 kAZEがスタートした1989年当時は、
 ホンダはHART,ヤマハはYESS、スズキはじゃじゃ馬など各メーカーともユーザークラブを持っていて、
 むしろカワサキはそれに追随する形だったのである。

 ただ遅れてスタートしたカワサキは、 
 KAZEのユーザー管理をするソフト会社ケイ・スポーツ・システム」を立ち上げて、
 本格的に取り組んでスタートしたので、30年も経った今も、残っているのはKAZEだけなので、
 当時は3万人に近い会員で他メーカーを圧倒していたのである。
 
 当時ホンダのHARTは会員10万人と豪語していたが、
 現場に集まるユーザーの数はカワサキが圧倒していたので、
 ホンダさんから「カワサキは一体何人いるの」との質問を受けたりしたのだが、
 「ホンダさんは10万人」と言ってるじゃないですかというと、
 「あれは延べ10万人で、現実は1万人ちょっとです」というお答えだったのである。

  

 カワサキが3万人もいて、今も残っている理由は、
 どのメーカーも年会費を取るので1年経つとその期限が来て、
 毎年人数を維持するのは結構ムツカシイのである。
 カワサキはそれを見越して会員カードをJCBと組んで「JCBカード」にしたので、
 その期限が来ても辞めることがムツカシイのである。





 
 その第1号の機関誌は1989年1月に発行されているのだが、
 こんな立派な形ではなくて、カワサキのニュースを何枚か、
 一つの封筒に入れて送っていたのが最初で、
 こんな立派な形になったのは数か月後のことなのである。


★今回の機関誌にはこんな「ジェットスキー」のニュースも載っているのだが、
 ジェットスキーがカワサキの正規の商品として取り扱われるようになったのは1983年からで、
 それまではこれは二輪事業部の商品ではなくて、
 発動機事業部が開発し、アメリカのリンカーン工場で生産し、
 アメリカの販社KMCだけがアメリカ市場で販売していて、
 当時、日本には商社を通じてホントに少数が輸入されていたのある。


 


 そういう意味では「カワサキの正規商品」ではなかったのだが、
 これを川崎重工業の正規商品として、取り扱うようになったのは、
 1983年大庭浩本部長の頃で、当時の企画課長武本一郎さんが発議し、
 ジェットスキーが日本を含め世界展開になったのは、それ以降のことなのである。
 若しあの時、武本課長がそんなことを言いださなかったら、
 ジェットスキーはその後どのような展開になってたのだろうか?
 ただ、その時も私は国内に「ジェットスキー専門」の販売会社を設立し、
 ボート屋などではなくて「ジェットスキー専門販売網」を創ったし、
 JJSBAなどのレース協会と新しい遊びジェットスキーの世界を創りだしたのである。


★ 今回のKAZEの裏表紙には「Ninja」が載っている。
 最初の「Ninja」もちょうどその頃、大庭本部長時代に開発されたものだが、
 そのネーミング「Ninja」はアメリカのKMCのアメリカ人の発案で、
 このネーミングに明石サイドの技術部が「忍者の印象」が暗いと猛反発だったのである。

 


 その「Ninjaのネーミング」について、
 今では日本側が反対したとネットなどでも書かれているが、その記述は何となく迫力がない。

 実はより具体的にその経緯を知ってるのは私だけなのである。
 日本側の猛反対の意向を受けて、アメリカ出張時大庭本部長自らKMCに説得を試みられたのだが、
 アメリカ側の反発が強硬で、当時のKMCの田崎社長が徹底的に反論、
「Ninja」はそんな暗いイメージではなくて「007ようにカッコいい」イメージだというのである。
 事実アメリカでは当時Ninja という映画などもあって、そのイメージは日本とは全く違った新しいものだったようである。
 その時は大庭本部長をしても説得することが出来ずに、
 最初のマシンはアメリカだけが「Ninja」で、




 欧州市場などには「GPZ900」のネーミングで発売されたのである。
 その大庭さんと田崎さんの「Ninja論争」のその場に同席してたのが私だけなので、そんな経緯を知ってるのも私だけなのである。

  
   


 
 その後、Ninja のネーミングは好評で
 このGPZ900シリーズだけではなくて、
 いまではカワサキを代表する「スーパースポーツ車の冠」として使われているのである。


★ こんなカワサキの昔話を語れるのも、今では私だけになってしまったのかも知れない。
 世の中は「ひょんなこと」から「ひょんなこと」になるのである。
 何事も物事は片手間ではなくて「ちゃんと専門的に取り組むこと」が肝用なのである。
 
 私だけが語れる「カワサキの昔話 3題」である。


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カワサキコンバットのこと

2022-12-23 06:29:53 | カワサキ単車の昔話


★昨日アップしたモトクロスの写真に映っている
 カワサキのライダーはカワサキコンバット13番が岡部能夫9番は三橋実だと思う。
 ヘルメットの1の字のマークがあるから間違いない。

 左側はそのライデイングから神戸木の実の歳森康師ではないかと思うが、
 よく解らない。







★このブログは2006年9月にスタートさせたのだが、その年の11月3日の記事である。
 文章もそっけないが、当時を思い出しながら補足してみたい


●「カワサキコンバットのこと
2006-11-03 15:34:38 | M/Cレース

1965年前後、神奈川県海老名で三橋実の率いたカワサキコンバットは、有名ライダーを擁しモトクロス界で名を馳せていた。
カワサキファクトリーの契約ライダーとしては、三橋、安良岡、梅津、岡部、星野がいた。
私はその頃、このクラブとの契約やライダー個人との契約を直接担当していたのだが、どのようにしてこのクラブがスタートしたのか詳しいことは解らない。私がレースを担当したのは、63年だが既にコンバットは存在していた。」

カワサキの初レースとされる青野ヶ原モトクロスは1963年5月で、
マシンは125B8なのだが、
その前の125B7でもカワサキ自動車販売でMCFAJのレースに出場していた記録がある。
 そのライダーは三吉一行とかではなかったのか?
 ライダー契約を川崎航空機工業が正規に行ったのは1963年末からで
それは私が担当した部門だったのだが、私は直接の担当でなかったので、詳細は解らない。
 気が付いた時にはカワサキコンバット三橋実・梅津次郎・岡部能夫
 神戸木の実歳森康師・山本隆がすでにいた。


  


  
 この5人のライダーでレースがスタートしたことは間違いない。
 正規にカワサキに広告宣伝課が出来て、
 私がそれを担当したのは1964年1月のことである。


●「昔のことは、なかなか正確には残っていないものだ。
今からの話は、私の記憶と推測も混じるが、多分当たっていると思う。
当時、カワサキ自販の広宣課長に小野田滋郎さんが居た。
あのフィリッピンから生還された小野田中尉の弟さんである。
ヤマハにいた三橋を強引にカワサキに引っ張ったのは、これは間違いなく小野田さんである。川崎航空機が直接レースを担当するまでは、小野田さんが独りでライダー関係をやっておられたと思う。
カワサキコンバットも、多分この頃出来たのだと思う。」


川崎航空機の広告宣伝課カワサキ自販の宣伝課の業務を引き継いだのだが、 小野田滋郎さんには私はいろいろと教えて頂いた。
 当時の写真はないのだが、この写真の左側の方で
 陸士出だったから位はお兄さんよりも上だったのである。

 
  



●「どこの世界にもあることだが、カワサキのレースも、全員賛成でスタートしたわけではない。むしろ、その逆である
カワサキが、運よく青野ヶ原のレースで優勝ほか上位を独占し、数日後記念写真を撮ったとき、勿論苦労した直接の関係者もいたが、ひな壇に並んだ人の大半は反対をしていた人たちだった。」


 
 


 このレースは製造部と営業部の有志の人たちが非公式に出場したもので、
 カワサキが正規に認めたレース出場ではなかったのである。
 「大半は」はちょっと書き過ぎだと思うが、
 少なくとも勤労部長と企画室長は反対だったのである



●「その数ヶ月後、広告宣伝の仕事を小野田さんから引き継ぐことになり、レースも担当の一部になった。レースとの関わりのスタートである。
三橋とは個人契約のほかにカワサキコンバットの運営契約を結んだ。
クラブ員の募集、面倒、練習に拘る費用、宿舎、運搬車両など一切を含んで、月20万円の契約だった。私の年収が50万円に届かぬ時代であったから、相当な額である。」

 この青野ヶ原のレースの完全優勝も大きな契機となって、カワサキは二輪事業を本格的に進めることになり、
 広告宣伝課も出来たし、その予算は1億2000万円もあったのである。


★この青野ヶ原のレースはその前年、1962年11月に鈴鹿サーキットで開催された、日本で初めてのロードレースをカワサキの製造部のメンバーが観に行き、感動して「カワサキもレースを」とスタートしたものだったのだが、
 この250㏄の優勝者が三橋実350ccの優勝者が片山義美で、当時はいずれもヤマハだったのだが、
 その三橋実カワサキコンバットを創り、片山義美の神戸木の実クラブのメンバーが多数カワサキとの契約を結ぶことになったのである。

 鈴鹿サーキットが出来たのが1962年だから、
 若し鈴鹿が出来ていなかったら、カワサキの二輪事業もなかったかも知れないのである。

 その鈴鹿のレース観戦を裏で画策されたのは兵庫メグロの西海義治社長で、
 これは後年兵庫県のモトクロスの時の写真だと思うが、
 本田宗一郎と西海義治さんが若しいなかったらカワサキの二輪事業もなかったのではと思ったりもする。

   
    
 


● 「有望な若手ライダーが全国から集まった。その中に静岡の星野栗山もいたし、秋田の金子豊(星野インパル経営)もその一人であった。
何事も、逆風の中で、ものごとを進めた人を忘れてはならない。
小野田滋郎さんは、カワサキのレースをスタートさせた一人であることは間違いない。
然し、今、小野田さんのことも、カワサキコンバットのことも詳しく正確に知っている人は、カワサキの関係者でも、殆ど居ないだろう。
カワサキコンバッは、三橋、梅津、岡部の契約が切れた時点でなくなり、星野は神戸木の実へ移籍した。私には懐かしいクラブチームであった。」


 これはずっとのち、私がシャッターを押した写真だが、
 後列が金子豊・岡部能夫
 前列が山本隆・星野一義である。

 



もう金子と岡部はこの世にいない。
カワサキコンバットのこと」語れる人も私ぐらいしかいなくなってしまった。
 遠い昔の出来事なのである。




 




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カワサキのGPレース参戦 物語

2022-10-05 05:37:38 | カワサキ単車の昔話

★昨日、David L de Bottn さんがFacebook のコメントで、
 このように言ってこられたのだが、
 このご返事を書くのは簡単ではないので、
 当時のカワサキのレースについてブログに纏めてみることにする。

 カワサキがGPに参戦したのはこの前年の1966年のことなのだが、
 それは大変なスタートだったのである。
 


 


1966年カワサキが初めて世界GPに参戦した年で、
 
 GPレース大槻幸雄監督
 ジュニア・ロードレースが 安藤吉朗監督
 マネージャーが私・古谷錬太郎ライダー契約担当だった。
 
この年1966年の日本グランプリは、10月15日から16日にかけて、
この年開業した静岡県の富士スピードウェイで開催されたのだが、
ホンダのワークスチームは、FISCOの30度バンクが危険という理由で欠場したが、
この年からカワサキブリヂストンが参加することとなったのである。


★この年からカワサキは世界GPに参戦したのだが、それは大変な年だったのである。

 この年の1月に藤井敏雄と契約し欧州GPの転戦からスタートしたのだが、
 8月27日マン島でのプラクティスで転倒死亡するという事故に出会うのである。

     

 
 
 10月に行われる日本GPには、シモンズ・安良岡に加え
 デグナーと契約する方向で決まったのが9月の初めのことである。

 カワサキにとってはGP参戦も初めてだが、
 外人ライダーとの契約も初めてで、どんな契約内容にすべきか全く解らないので、契約担当の私は困ってしまって、
 外人関係の契約についいてホンダの前川さんに教えて貰いに、
 鈴鹿まで伺ったのが9月10日のことなのである。

 契約書の最後に書く「疑義を生じた場合は甲乙円満に話し合い・・・」という日本式は絶対ダメで、
疑義を生じた場合は甲の判断に基づくものとする」と明確に書くことと
教えられたりした。

 そしてデグナーとの契約も無事完了したのだが、
 9月29日FISCOでのプラクテイスでデグナーは転倒し、
 頭を打って、入院してしまうのである。

 10月16日のGPレースには、
 シモンズ・谷口尚己・安良岡健の3人で出場するのだが
 その時のマシンである。

 

 
  結果は安良岡健が7位だった。

  



★ 翌1967年はマシンもこのように変わって、


   

  
  金谷秀夫が見事3位に入賞するのである。
  下表では車両スズキとなっているが、カワサキの間違いである。
 


 

 金谷秀夫神戸木の実レーシング」からカワサキに加入し
 1967年の日本GPで世界GPでは125ccクラスで3位入でし、
 1969年の全日本セニア250ccクラスチャンピオンになるが、
 カワサキがレース活動を縮小したため、
 1970年ヤマハに移籍するのだが、
 彼の故郷はカワサキであることは間違いない。

 晩年、カワサキの催しにも必ず出席していたのだが・・
 これは星野一義神戸木の実の新田さんと。

 
 

  金谷秀夫カワサキのGPレースの草分けと言ってもいい。
  私個人とは特にいろいろと親しい関係がって、
  カワサキのゴルフ会・Z1会のメンバーでもあったのだが、
  ほんとに早く逝ってしまった。
 


 
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カワサキコンバット三橋実と 神戸木の実の片山義美 と・・・・

2022-09-27 05:10:30 | カワサキ単車の昔話

 若いころカワサキのファクトリーチームを担当したこともあって、
 当時の世のライダーたちとは、いろんな形で繋がっていて、
 今回、11月に開催する『Z50周年祭』にも多くの有名ライダーが参加してくれるのだが、
 そんなカワサキの二輪事業に直接大きな影響を与えたのが、
 1962年(昭和37)11月に開催された
 日本で初めての本格的な鈴鹿ロードレースだったのである。


     
   

 このレースでは、250㏄が三橋実・350㏄が片山義美と二人のヤマハライダーが優勝するのだが、
 三橋実・片山義美のこの二人のライダーこそ、
 カワサキのレースを育ててくれたと言っても過言ではないのである。

 こんな当時の250ccの記録をネットで見つけたが、
 ここに名を連ねている三橋・本橋・片山・宇野さんは知ってるし、
 宇野順一郎さんは今回の『Z50周年祭』にもご出席なのである。
 
 
 


★ この250㏄優勝者の三橋実は、
 カワサキが本格的にレースを始めた時から関東の厚木に『カワサキコンバット』というチームを創って、
 安良岡健とともに梅津次郎・岡部能夫・星野一義などの若手ライダーの育成にあったってくれたし、
 当初は自らライダーとして出場してくれたのである。

 こんな貴重な写真がネットの中にあった。
 多分、第1回MFJ 全日本モトクロスの相馬が原での写真ではなかろうか?
 ヘルメットの『1の字』がコンバットのマークである。

 
  

 これがスタート間もないころのカワサキのファクトリチームのメンバーで、
 右から6人目が三橋実なのである。





 このメンバーの殆どがカワサキコンバットなのだが、
 その中の二人右から3番目と4番目が神戸木の実クラブ山本隆・歳森康師で、
 皆さん後にはみんな有名ライダーに成長するのだが、このころはまだ名もない若手ライダーだったのである。


 片山義美さんは、ヤマハ・スズキとの契約で、カワサキとの関係は直接なかったのだが、
 そのメンバーたちがみんなカワサキとの契約だったのである。
 これはその『神戸木の実クラブ』の会合が三木で開催された時の
 片山義美を囲むカワサキのレースライダーである。
 このほかに歳森康師と星野一義も一時『神戸木の実』に名を連ねたのである。


 


 
 日本での初めてのロードレースの優勝者・三橋実と片山義美がカワサキとこのように密接に繋がっていたのは、ほんとに不思議なご縁なのである。


★ 若し鈴鹿サーキットが無ければ、
  三橋実と片山義美との出会いが無ければ
  カワサキの二輪事業もレースも全然違ったものになっていたのだろう。
  そんな鈴鹿のロードレースレースだったし、
  このレースの見学を裏で画策したのは
  兵庫メグロの西海義治社長なのである。

  もっと極端に言えば、本田宗一郎さんが鈴鹿サーキットを造らなかったら
  カワサキの二輪事業もなかったかも知れない。

    
     

  これはずっとのち、兵庫県でのモトクロスレースに本田宗一郎さんがお見えになった時の、西海さんとの貴重な写真である。


  
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カワサキの二輪事業の黎明期 その2   雑感

2022-09-16 05:30:04 | カワサキ単車の昔話

★「カワサキの二輪事業の黎明期」とは何年ぐらいまでのことなのだろう?
 私自身のことでいうと昭和36年(1961)12月に単車営業が出来てそこに異動してから、
 広告宣伝課の担当が終った昭和41年(1966)までの5年間だったと言っていいのではなかろうか?

 そんな時代に一緒だったメンバーも60年も経つと先に逝ってしまわれた人も多いのだが、
 今もなお元気で今回のZ50年記念祭にも顔をだしてくれる仲間もいて、
 その一人が「福田康秀くん」である。

 彼とは私が初めて出来た「単車営業課」に異動した時に同じ課の仲間として出会たのである。
 「単車営業課」と言っても生産・技術以外のことはすべてやらねばならなくて、
 今でいう品証部門のサービス員3人の一人だったのである。
 そんなことで、その後も結構気安く付き合った仲間なのだが、
 それから4年経って彼が品証にいた時に突然私のところにやって来て、
 「85J1で、品証の仲間で富士山に登りたいのだが、その費用を都合してくれないか?」と言うのである。 

 当時、私は広告宣伝課担当で結構な予算を持っていたので、
 いろんなことで理屈をつけて「たかりに来る」人たち多かったのだが、
 富士山登頂に成功したら、これは広告に使えるなと思って、
 「富士山山頂での写真を撮ってきたら、その費用は全部見てあげる」と言うことにしたのである。


★ それは見事に成功して沢山の写真を撮ってきたのである。
  昭和40年(1965)8月3日のことである。
  
 そんな写真の中から

 







 登頂には成功したがなかなか大変だったようである。
 2台の85-J1はモトクロス職場でチューニングして
 タイヤも特別にモトクロスタイヤを装着したのだが、
 戻ってきたマシンのタイヤのヤマはすり減って殆どなかった状態だった。





 
 勿論、広告宣伝にも大いに利用させていただいて、
 当時のバイク雑誌2誌、オートバイ誌とモーターサイクリスト誌
 派手な広告を打ったのである。

 その中のサイクリスト誌の記事を「二輪文化を伝える会」さんが
 探し当ててくれたのが、この写真である。




 


★ この時期は映画界とも繋がっていて、
 特に日活映画とはいろんな繋がりがあって、
 当時のトップスター浜田光夫と吉永小百合とカワサキのこんな写真もあるのだが、


  

 

 その浜田光夫が明石日活に挨拶来た時には、
 飛び込みで「明石工場まで来ませんか」と「ダメ元」で言ってみたら、「
 浜田光夫が明石工場ま来てくれたのである。
 事業部長と対談し、そのあとテストコースでバイクに乗ったりしたのである。
 昭和39年(1964)7月14日のことで、
 浜田光夫が来たというニュースが流れて、
 テストコース横の発動機工場の女工さんたちが浜田光夫を見に飛び出してきて、一時ラインが止まってしまったりしたのである


 日活とはホントにいろいろ密接に繋がっていて
 花咲く乙女たちのロケが岐阜であった時にも
 バイクを貸したのだが、サービスが出来る人を出して欲しいという要求で、
 「福田康秀」クンんと二人で岐阜まで行ったのだが、
 立派な旅館に泊めて頂いて最高のおもてなしをして頂いたのもいい思い出である。
 別にバイクも問題なかったので、仕事は何にもなくて
 いいご馳走を食い、映画館での舞台挨拶などを見てただけの楽な出張だったのである。


 
 


 この映画には堺正章も出てたのだが、
 まだ有名ではない駆け出し時代で「堺駿二 の息子」さんと言うことで紹介されていた。


当時のテレビの人気番組「源平芸能合戦」にも川崎航空機と三洋電機の対戦として出場したのだが、
これも昭和39年8月のことで、これには明石工場だけでなく本社岐阜工場も巻き込んで頑張ったのである。
 結果は107:105点と言う稀に見る高得点での接戦だったのだが、結果は三洋に名を成さしめたのである。

 
 
 この時には後に単車の事業本部長をされた岩城常務がまだ本社総務部長の頃だったが、熱心に応援して頂いて、
 「芸人を養っている訳ではないから、応援だけは負けるな」と連日応援団の練習を熱心にやって、
番組を担当されてた方が、こんな熱心な会社は見たことが無い」と感心されていたのである。


★ 単車事業もまだスタートしたばかりで若かったが
 私もまだ30歳そこそこの若さで広告宣伝課を担当したお陰で、
 一般サラリーマンでは経験できないような面白いことばかりだった時代なのである。



 
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カワサキの二輪事業の黎明期    雑感

2022-09-14 05:07:34 | カワサキ単車の昔話

ふとしたことで書き出した日記だが20歳からだから、
 もう70年も続いていて、たまに読み返すこともあるのだが、
自分の記憶」として覚えていないことも結構ある。

 この11月には「Z50周年記念祭」が明石であって、Zファンなど100人以上が集まるのだが、
 その最初のスピーチで「カワサキの二輪事業の黎明期」の話をすることになっているのである。
 大体は覚えてはいるのだが、単なる昔話の雑談でもないので、
 もう一度当時の日記を読み返して確かめているのである。


 
  
 
 カワサキが二輪事業の一貫生産をスタートさせたのは、
 昭和35年(1960)のことだが、営業部の中に単車課がスタートしたのは翌年の12月のことで、
 最初に発売した125B7に欠陥があってとても順調とは言えないスタートだったのだが、
 いろんな幸運が繋がって、単車事業再建が決定されたのは4年後のことで、
 単車事業本部がスタートしたのは、1964年1月のことなのである。
 これは日本能率協会が「単車事業継続の可否」について調査し、
 その結果は「単車事業継続」の結論が出るのだが、
 その条件の中に「広告宣伝課の設置」と言うのがあって、その新しい課を担当することになったのが私なのである。

 それまでは広告宣伝については、当時の「カワサキ自動車販売」が担当していて、
 その責任者はあのフィリッピンの小野田敏郎さんの弟さんの小野田滋郎さんだったのである。
 この写真の左の方で陸士出の秀才で、現役時代いろんな方に出会たが
この人にはとても敵わない」と思った数少ない方の一人である。



     

 
 小野田さんには「広告宣伝課」を引き継ぐに当たり、
 ほんとに親身になっていろいろ教えて頂いたのである。
 
 これがその年前半の日記からの抜粋だが、
 私にとってそれまでのサラリーマン生活とは一変した「突然変異」した期間だったと言えるのである。



 

 
  
広告宣伝課を新しく設置なのだが、
与えられた予算は年間1億2000万円と言う膨大な予算で、
今の金に換算すると10億円は軽く超す額だったし、
その課の課長は次長が兼務で課長も掛長もおらずにまだ係長にもなっていない32歳の私に100%任されたのである。

上記のメモ書きにもあるように
広告代理店は予算目当てに電通・博報堂などが押しかけてきて、
その代理店選定基準を小野田さんと二人で創ってやったのだが、
広告の専門家たちから、「お褒めの言葉」を頂いたような素人離れしたものだったのである。
 
雑音に耳を貸すな」とは、その時小野田さんが私にくれた言葉で、
その後の人生は「雑音に耳を貸すことなく」生き抜けたと思っている。

★人生にはいろんな時期があるが、思い返してみるとこの年の半年間は私にとって、
今まで全く経験のなかったことへの挑戦の期間だったと言えるだろう。

本格的な広告宣伝」に出会ったのも初めてだし、
マーケッテング」とか「広報・広告」についても広告代理店の本社メンバーとの間で本格的な理論の勉強もしたし、
今までは横で眺めていた「レース活動」についても本格的に取り組み、
ライダー契約なども広告宣伝費の中から負担していたのである。


 その当時の5人の契約ライダーである。
 左から岡部能夫・歳森康師・山本隆・三橋実・梅津次郎で、
 マシンは懐かしいB8モトクロス車である。
  私より若いのに先に逝ってしまって今残っているのは
 私より10歳若い山本隆さんだけである。

 
 

 同じような写真だが、これは安良岡健星野一義もいるので
 もうすこし後の頃の写真である。





上記のメモにもあるように6月にはMCFAJの全日本で山本隆がオープンで優勝していて、
これがカワサキの初めての全日本での優勝なのである。

すぐ後には、ヤマハと契約でトラブったとかで、荒井市次が勝手にカワサキに訪ねてきたりしている。
こんなレース界のスター選手だった人たちとも面識が出来て話が出来るようになったりした。

 このようにこの年の「広告宣伝課」との出会いは、
 突然1億2000万円と言うとてつもない額の広告宣伝費を任されて、
 流石にこれは7000万円ぐらいしか使えずに 
 本社の担当専務に「お前らは金をやってもよう使わん」と怒られたりしたのだが、
 私自身はいろんな「初めての経験」が出来て、その後の人生にも大いに役立ついい経験になった半年間だったのである。


★今日はここまでしか読めなかったが
Zが世に出る1972年まで日記を読み返してみて、
自分の記憶を確かめておきたいと思っている。

Zの開発責任者だった大槻幸雄さんとは、
こののちカワサキがロードレースを始めた時からレース監督をされたので、
それ以降今日までのおつき合いなのでもう60年ものお付き合いになる。

そんないろいろなことのあった「カワサキの二輪事業の黎明期」だが、
日記を読み返してみると、忘れていたことも思いだすかも知れないのである。



 
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カワサキが初めて鈴鹿を走った日 Ⅱ   

2022-02-10 06:43:02 | カワサキ単車の昔話
★「カワサキが初めて鈴鹿を走った日」というブログをアップしたのは
 9月にブログをスタートしたばかりの2006年11月2日なのである。
 
 実は北陸の竹田学さんから昨日、Facebook のメッセージで
 「古谷さん「塩本選手」という御名前のライダーご存知では無いでしょう か? 
 私の居住しております石川県と関係のある方らしいのですが詳細を知る方がこちらに居ないので・・・・」というメッセージを頂いたのである。

 私は「塩本選手とは直接お会いしたことはない」のだが 、
 塩本選手のことは知ってたので、それなりのご返事はしたのだが、
 その中で「カワサキが初めて鈴鹿を走った日」というブログがあるから、
 「それを検索してみて下さい」とご返事したのである。

 これはカワサキのロードレースのスタートの話で、
 なかなかオモシロイ話だから、改めてそのままご紹介してみることにする。


★「カワサキが初めて鈴鹿を走った日」 

1965年(昭和40年)5月3日、カワサキがはじめてスズカのロードレースに登場した日である。

当時カワサキは、モトクロスでは頭角を表わし始めていた。
4月18日朝霧で行われたMCFAJの全日本モトクロスで、星野一義が90ccノービスクラスで優勝した。彼の初優勝である。

当時は、ロードレース出場は、未だ会社で認められていなかったのだが、モトクロスのトップクラスのライダーであった、山本隆君がどうしてもスズカのジュニアロードレースに、出場したいと言い出したのである。

メカニックたちにレーサーが造れるか打診したら、何とかなるだろうという。
スズカのモトクロスに出場することにして、会社には黙ってこっそり出てみるかということになり、2台のレーサーを造り上げたのである。
あまり大きな声では言えないが、2台のマシンを都合してくれたのは、当時は生産部門にいてレースにも絡んでいた田崎さん(後川崎重工業社長)だった。

★モトクロスの山本だけではもう一つ自信がないので、ロードの経験のある陸の塩本にも出場を要請したのである。
案の定、山本は3分40秒前後でしか、走ることは出来なくて、これではとても入賞できるタイムではなかった。

駄目かなと思っていた本番のレースで山本隆は、見事3位に入賞したのである。
私の記憶が正しければ、1,2位はその後もロードレース界で活躍したホンダの神谷,佐藤(佐藤ではなくて鈴木だったようです)であった。
結果はホンダ、ホンダ、カワサキと初出場で表彰台に立ったのである。

なぜ?
当日のスズカは雨になった。この雨がカワサキに味方した。
終始、BSの滋野のあとにスリップストリームでついて、最後の最後、滋野をかわして3位になったというのである。

雨でタイムが遅くなったこと、滑りやすいコースが、モトクロスライダーの山本に幸いしたのである。
私は、現場には行っていなかったが、

チームマネージャーの川合さんから、
5月の連休中の自宅に『ヤマ3、シオ8、セイコウ,カワ』の電報が入った。
喜ぶより、びっくりしたのをよく覚えている。

       

★カワサキの初レース、モトクロスの青野ヶ原でも、このスズカでも、雨が助となった。 本当に何かの運である。
3位入賞して大きなカップを持ち帰ったので、黙っていた会社にも、その結果を報告したら、『ホンダに次いで2位か』ということになって、
一挙にロードレース熱も上がり、この結果が会社でも正式にロードレースの参を認めることになったのである。
約1ヵ月後の6月13日、アマチュアスズカ6H耐久レースにカワサキとして正規のデビューを飾ることになった。
3台のマシンを造り、6人のライダーで出場することになった。
関東のカワサキコンバットから梅津、岡部、テストライダーチームから加藤飯原(いずれもキヨさんの先輩ライダーである)は決まったのだが、
関西の神戸木の実の歳森の相手の山本が先月のジュニアロードレースに出てしまっていて、アマチュアでは走れないのである。
そんなことで歳森康師が『相棒に速いのが居るので連れてきていいですか?』と呼んできたのが、金谷秀夫なのである。 このレースが歳森康師と組んだ、金谷秀夫の初レースでもある。

★ もう、40年も前のことである。
このことを、正確に記憶しているカワサキの関係者も少なくなった。

このレースのマネージャーだった、川合さん,塩本君、塩本を出してくれたさん、ロードレースを許可してくれた苧野さん。みんな故人になってしまわれた。

こんなレース創生期に苦労した先人たちの努力が、今のカワサキのロードレースに繋がっているのである。
 
●不思議なことだが、カワサキが初めて鈴鹿を走ったのは、1965年5月3日、ライダーは、後全日本モトクロスチャンピオンを3年連続で獲得した山本隆君
●1ヶ月後のアマチュア6H耐久の監督は、Z1の開発責任者の大槻幸雄さん、副監督が田崎雅元さん(のち川重社長)である。
●走ったマシンは90cc、  この耐久レースヤマハは確か鈴木忠さん、スズキは菅家などみんなモトクロスライダーが走ったのである。
タイムは3分20秒は切れなかったと思う。


 以上がその全文なのだが、
 そのブログに山本隆さんがこんなコメントを寄せてくれているので、
 それもご紹介してみる事にする。


     
   


一番最初にカワサキを鈴鹿で走らせた男! (山本隆)

そうです思い出は鮮明に記憶しています!
私が鈴鹿ジュニアーロード参戦に駆り立てたのは訳があります!
その年の初春にブリジストンサイクル工業への移籍を密かに目論見、仮契約まで行っていました!
その内容は勿論MXエースライダー契約でしたが、新たに始まる鈴鹿ジュニアーRRの参戦も入っていました。
一度は憧れの鈴鹿を走るチャンスが来た!と色気の多い私はその気になっていたのに、大きなプレッシャーのせいで?元の鞘に収まってしまいました!
それじゃ自費でもRR参戦を!と固い決心をしたのを知った田崎さんが「山本君僕に任せなさい!」と言って生産ラインからカワサキ85J-1の新車を1台宛がってくれました。"(-""-)"


 そうです。
 こんな山本・歳森のBSへの仮契約事件があって、
 山本隆さんは「大きなプレッシャーがあって」とそれが実現しなかったと書いているのだが、
 それには私も関係があって、このBSへの移籍を止めるために
 神戸木の実の片山義美さんに頼んだのは私なのです。
 片山義美さんと兵庫メグロの西海社長というレース界の大先輩が二人を説得してカワサキに留まることになったのです。
 そして、私はそれまではレースには直接関わっていなかったのですが、
 この事件を機に直接「レース担当」することになったのです。

 もう昔のことですが、私にとってもこの事件がなければレースを直接担当しなかったかも知れません。
一つの岐路になった事件であり、その結果のロードレース参戦だったのです。

 
 
 

 
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カワサキバイクマガジン新年号

2021-12-04 06:48:11 | カワサキ単車の昔話

★先日取材を受けたカワサキバイクマガジンの新年号が送られてきた。
 今回は「川重事変」と称して
 カワサキの単車の創成期の出来事から現在までを繋いだ内容になっている。





 それはこんな内容になっていて、
 私の知っている仲間たちもいっぱい登場する。


 


 そんな中で、特に個人的に親しく今もお付き合いのある方も沢山登場するので、
 ご紹介をしてみよう。

 まずは山田浩平さん、今はニンジャH2Rの開発者として有名だが




  若いころは X11 の開発担当をしていて、
 そのころサーキットなどいろいろ面倒をみたので、
 そんなことからのご縁である。

  

 今でもFacebook の友達で「いいね」など頂いている。
 ここでは二輪開発について彼独特の熱い想いを語っている。


 百合草三佐雄さんも登場する。
 若いころ250ccA1の開発やレースなども担当したのだが、
 ここでは、もっと若いころの「メグロとの関係」を語っている。


 


 私も百合草さんがメグロ工場に出張していたなど、初めて知ったのである。

 
    メグロから来た北見紀生さんも登場する。
 北見さんは私が東京営業所の所長を兼務してた時のサービス工場長だった。
 その頃から独特の個性で面白かった人である。


 

 
 こんな写真も載っていたが、
 このトラックの後ろに立っているのは、
 間違いなく、当時の神戸営業所の営業だった「渡部達也」さんである。


 


 旧い写真では、もっと旧い旧明発時代の「平井稔男」さんの
 若いころである。

 
  


  お二人とも、今でもお付き合いが続いている仲間たちなのだが、
 当時はこんなに若かったのである。

 因みに、平井稔男さんは、私と同い年で、
 カワサキの国内営業の最古参であることは間違いないのである。


★ 取材を受けた「私の関係」の記事も6ページに亘っていて、
 結構、詳しく昔のことが語られているので、

 ご関心のある方はぜひお読みになればと思う。
 
 



  SPA直入のことにも触れられているし、
    


 
30年前の私の担当時代に創られた、KAZEについては
 2ページに亘っての記事となっている。
 

    


  
 これは大阪の特約店制度の記事の中で使われている
 当時はまだ「伊藤モータース」と称してた現在の「株・忍者」の展示会風景と
 当時のお店の写真なのである。
 

 



 旧い写真と言えば、
 これは間違いなく昭和35年(1960)当時の60年も前の写真だが、
 明石工場も建物など少なかった時代に、テストコースだけは作られていたのである。

 「単車製造準備室」は昭和34年頃の話で、
 私も入社3年目ぐらいだったのだが、資材の方に熱心に誘われたのだが、
 当時は財産物件の減価償却のIBM化に取り組んでいる最中でお断りしたのを思いだす。
 


 


 私が新設された「単車営業課」に異動したのは昭和36年11月のことなのである。
 当時はまだ明発を引き継いだ「カワサキ自動車販売」が国内市場を担当していた時代で、そのメンバーの殆どが明発とメグロの方たちで
 社長・専務だけが川崎航空機工業籍だった時代で、
 新設された単車営業課はその「カワサキ自動車販」に出荷・販売していたのである。

 その時代の営業を語れるのも、ホントに私だけになってしまったのである。


 
 

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旧いカワサキの創生期の写真から  2

2020-12-06 06:31:57 | カワサキ単車の昔話

★ この写真に写っている方、私にとってはいろんな思い出いっぱいの方たちである。

 まずは最後尾の列の中央の大柄な方が、営業部で青野が原のレースを支援された『小野助治さん』である。
新しく出来た単車営業を担当されて、私をその営業に引っ張られたのも小野さんだし、
私の仲人をして頂いたのも『小野助治さん』である。
 
当時の営業部には『苧野豊秋さん』と二人の次長がおられて、
小さい小野さん』『いもの苧野さん』などと言っていたのである。
その苧野さんは写真前列右から2番目である。

苧野豊秋さんも明石高校の先輩で、
その後もご縁があって長く国内を担当されたし、
最後の方では国内のジェットスキー販売時に大いに援けて頂いて、
初代のJJSBA会長もされたのである。
 



青野ヶ原に出場したライダーたちは、みんな社内の人たちだったのだが、
左から3番目が秋原くんである。
私が新しく出来た単車の営業部に移って一番最初に仕事でおつきあいの出来た人である。

カワサキB7、ご存じだろうか?
カワサキが最初に世に出したバイクだが、フレームに欠陥があって
毎日、毎日返品が続いたのである。



当時はまだ125cc以上のバイクには物品税が掛けられていて、
物品税の納入は至極簡単なのだが、
返品した場合の戻入はなかなか大変なのである。
 
要は、工場を出たままの形でないと、戻入は出来ない。
少しでもメーターが回っていたりすると許可にならなくて、
メーターの巻き戻し』などという中古車屋のようなことを当時はメーカーでもやってたのである。
秋原くんとは、そんな作業で毎日のように会っていたが、 
彼がレースのライダーをやれるなど知らなかったのである。

そんな大変だったB7は1年で生産中止になり、
翌年はB8が新発売されて、そのB8で青野ヶ原の優勝が決まったのである。
 
不思議なことに『カワサキ優勝』・『1位から6位まで独占』と言われるのだが、
1位が誰だったのかはよく解っていないのである。
なぜそれをみんな話題にしなかったのだろう?
 
この写真には4人のライダーが写っているが、
右側の二人は加藤・飯原くんで
彼らは鈴鹿6時間耐久レースにペアで出場している。
因みにそのレースに神戸木の実から金谷秀夫・歳森康師コンビが出場し、
それが金谷のカワサキでの最初のレースだったのである。


 

 
 
★ この写真の髙橋鐵郎さんの右が川合寿一さんである。
 営業部には私の後に入ってきて、青野ヶ原のチームの面倒を見たのだが、
最初のレース担当が川合さんで『ライダー契約』などをやったリ、チーム運営などもやっていた。

当時は全国各地で毎週草レースがあったのだが、
城北ライダースなど強いチームがくるところは避けて出場していたので、
カワサキは連戦連勝だったのである。
私が担当してた広告宣伝課がレースも担当してたので、
その結果は新聞社に広報してたので『カワサキはレースは強い』ということになっていたのである。
 レースのことなど全く知らない私もホントに『強いのだ』と思っていた。

青野ヶ原』の翌年、MFJ 第1回全日本モトクロスが相馬ヶ原で開催されたが、
川合さんが『困った困った』と言うので、
なぜそんなことを言うのかと思ったら、
そこには全国の強豪が集まるので、なかなか勝てないというのである。
結果はホントにその通りで7位が最高の成績だった。

然し、この年の秋のMCFAJ全日本では4種目中3種目に優勝するなど、
カワサキのレース活動の進化は早かったのである。

ところがその年の暮れだったか『歳森・山本のBS仮契』事件が発生して、川合さんが私に『片山義美さんに話をしてくれ』というのである。
そんなことで、レースなど全く解らなかった私が最初に話をしたのは、
歳森・山本の所属した神戸木の実の御大・片山義美さんなのである。

西海義治さんなども出てこられて、この件は何とか無事決着したのだが、
その時の話の流れで、レースを直接担当するようなことになったのである。
今思い出しても、純粋に川合寿一さんはいい人だった。


髙橋鐵郎さんの左隣が多賀井君である。

1976年に、10年間の国内出向から川重企画室に復帰するのだが、
小型車開発プロジェクト』として、
私は東南アジアの市場調査チームを起案すしたのである。

その時の調査団長を務めて頂いたのが髙橋鐵郎さんで、
現地の案内役を務めてくれたのが多賀井君なのである。

この調査団には、技術部から写真の川崎芳夫さんも参加されたし、
製造関係からは安藤佶郎さんが参加されていて副団長を務められた。

因みに、この東南アジア市場調査チームの団長は
当時の塚本事業部長は最初に『大槻幸雄』さんを指名されたのだが、
大槻さんが辞退されたので髙橋鐵郎さんに代わったという経緯なのである。


★この調査団は私にとっても髙橋鐵郎さんにとっても『転機』になったのは間違いない。
調査の結果は『このプロジェクト進めるべし』という結論になって、
市場開発プロジェクト室』が出来て、その室長を髙橋鐵郎さんが技術本部長と兼任されることになるのである。
そして『お前も来い』ということになって、
私も企画室から異動になったのである。

その後、髙橋鐵郎さんは技術本部長から、営業本部長・事業部長となられて、その後ずっとと言ってもいいほど、私とのコンビでの展開が続くのである。

これはずっと後の1990年代、
髙橋さんが川崎重工の副社長におなりになる直前まで、
高橋さんが社長を兼務され、私が専務を務めたのだが、

その最初が『市場開発プロジェクト室』でのコンビだったのである。

   
 

 
そういう意味では『青野ヶ原モトクロス』は単なるレースの優勝だけではなくて、
カワサキの二輪事業に大きな転機をもたらした出来事だったと言えるのである。

 

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旧いカワサキの創生期の写真から  1

2020-12-05 07:20:47 | カワサキ単車の昔話

★ コロナで閑なものだから、旧い日記などを見たりして時間つぶしをしているのだが、

 こんな写真が出てきた。
 昭和38年(1963)5月、青野ヶ原モトクロスでの1位から6位まで
 カワサキが独占したレースの優勝記念撮影なのである。


  


 このレースに関係したのは製造部と営業部で、
 この写真では神武事業部長を真ん中にまさに記念撮影となっている。

 ただ、このレース出場は正規のレース活動などではなくて、
 製造部の有志のメンバーが出場を決めて、それを営業部の有志が支援したもので、
 市販車B8のレーサーに改造作業も、正規の仕事が終わってから
 サービス残業で創り上げたものなのである。

 優勝など思ってもいなかったはずだが、このような結果になったのは、
 『神様が援けて下さった』のだと思うのである。


★ なぜそんなことを知っているのかと言うと、
 当時私は営業部にいて小野助治次長の下にいたのだが、
 営業部でもこのレースを支援した張本人が小野次長なのである。
 
    小野さんはこのレース活動に、かって野球部のマネージャーをしていた
 川合寿一さんにチームの面倒を見るように指示し、
 私には『残業料もなしにやっているので、パンでも買う金を出してやれ』との指示があって、
 私は営業の経費の中から幾らかの『パン代』を支援したので知っているのである。
 因みに『川合寿一』さんは私の係で私の下にいた人なのである。


 製造部でこのチームの指揮を採られたのが中村治道さんで、
 その下に髙橋鐵さん、実際にマネージされたのは川崎芳夫さんだと思う。

 上の写真を拡大したものだが、この3人の名前が書かれている。
 髙橋鐵郎さんの右隣りが川合寿一さんなのである。

   



★このレースのホントの仕掛け人は、社内の方ではなくて
 間違いなくこの方兵庫メグロの西海義治社長なのである。

    

 
    西海さんは元オートレースのプロライダーで、レースにかけては玄人、
 当時の兵庫県のMFJ支部長もされていたのである。

 このレースをやるきっかけは、昭和37年(1962年)11月3、4日の両日、鈴鹿サーキットで第1回全日本選手権ロードレースが開催され、 
日本では初の本格的ロードレースだったのだが、
このレースをバスを仕立てて、製造部のメンバーが見学に行ったのである。

この企画を仕組んだのも西海さんで、中村治道さん以下、
レースを観人たちは、『燃え上がって』しまったのである。
 
青野ヶ原』はそれから半年後なのだが、
当時のカワサキにはレーサーのノウハウなどなかったので、
西海さんは子飼いの『松尾勇』さんをカワサキに送り込んで、
松尾さんが独りで創り上げたものなのである。


★それにしても、レース初出場のカワサキが『1位から6位までを独占』するような快挙は、ライダーも社内の人たちだし、
実力ではなく『雨のお陰』だったと言っていい。

当日のレース場はこの写真のように水溜りだらけで、
他メーカーのマシンはみんな水を被って止まってしまったのだが、
防水対策が完全だったカワサキだけが止まらずに完走した結果なのである。
長いカワサキのレースの中でも1位から6位まで独占はこのレースが最初で最後なのである。

ご存じ、山本隆さんなども当時はまだ他メーカーのマシンで参加してたようだが、
やはり水で止まってしまったようである。

   

 
何はともあれ、こんな結果が『カワサキの二輪事業』の本格的な再建に繋がったのである。

 中村治道さんについては、あまり語られていないが、
 当時のカワサキの二輪事業の先頭を走った方であることは間違いない。
 年次は髙橋鐵郎さんよりもちょっと上で、
 その後、私が事務局を務めた『レース運営委員会』に於いても
 実質的に『旗を振られた』方なのである。

 明石の出身で明石高校の先輩・後輩にもなるので私は特に面倒を見て頂いたのだが、
 兎に角『あんなに熱心で迫力のある』人はいないと言っていい。
 当時の日曜日にあったレースの結果を、正門の横に張りだせと言う指示を受けたのだが、
 月曜日に来て火曜日の朝に張りだしたら、ご機嫌が悪いのである。
月曜日の朝になぜ張らんのか』と仰るのである。

それは・・・』と言ってたら『では俺がやる』と言われて、
日曜日に家でご自分で書かれて、月曜日の朝早く張り出されたりするものだから、
私がやります』とその後は日曜日に家で書いて、
 朝早く正門の横に張り出すようになったりしたのである。

 当時のカワサキの単車事業部を支えた人たちは、
 不思議なほどユニークな人たちが揃っていたと思う。

 何度もご紹介している写真だが、
 この最前列にお座りの方が単車事業を引っ張ったと言っていい。
 真ん中にお座りの方が『兵庫メグロの西海さん』でその左は元川重山田副社長、右が髙橋鐵郎さん(元川重副社長)。
 山田さんのヨコが『松尾勇』さんである。
 そして右から二人目、大槻幸雄さんと並んでるのが『中村治道』さんなのである。

 2列目は左から岡部・金谷・平井・田崎(元川重社長)古谷・安良岡・和田・山本・清原・大西と錚々たるメンバーが並んでいる。
 最後尾の右端が星野一義で梅津と並んでいる。

 3列目以降の左側は現役諸君だが、宗和・多田などの顔を見えるし
 ごく最近までカワサキのレースを引っ張った安井君などもいる。
 

  



 今回は主としてレースの話に限定したのだが、これら写真に載ってる方とは
 『レース以外』の実務でもいろいろとお付き合いがあったので
 次回に、そんな旧いカワサキの話を纏めてみたいと思っている。


  
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カワサキ メグロの話など  昔話を

2020-11-22 04:50:23 | カワサキ単車の昔話

★カワサキのこんなニュースが流れた。

 カワサキが『メグロブランド』を復活させたという。

  

 

 カワサキ500メグロK2  私にとっても懐かしいバイクである。
 
 1965年発売とあるが、当時は広告宣伝課で広告やレースを担当していたし、
 1967年からは第1線でこのバイクの販売を実際に担当したりした。

  

 
 当時の白バイは殆どがメグロで、ホンダは少なかった時代。
 カワサキも国内だけの販売の時代だが、
 国内の代理店網も旧メグロと旧メイハツの代理店で構成されていた。

 川崎航空機工業の明石工場は元々エンジン工場で、
 そんなことから二輪のエンジンは開発・生産しメイハツに供給してたのだが、
 車体のことは、というよりオートバイのことはあまり解っていなかったと言ってもいい、そんな旧い時代もあったのである。

 
 そんなカワサキがメイハツ・メグロを吸収して
 メイハツやメグロの人たちもカワサキの仲間になったので、
 何とか二輪事業が成り立ったのだと言っていい。


★私はその営業がスタートした頃から単車営業にいて、
 その営業先は『カワサキ自動車販売』で、社長・専務は川崎航空機の方だったが、
 そこは殆どがメイハツ・メグロからの方たちだった。
 そんなことで、旧いメイハツ・メグロの方とは親しかったのである。

 
 この写真はずっと後のものなのだが、
 その最右翼と言ってもいい、メイハツからの平井稔男さん
 メグロのサービスからの北見紀さん

 そんなスリーショットのこんな貴重な写真もある。


  



 平井稔男さんとは、ずっと最近までいろんなことで一緒だし、
 北見紀生くんは、今はちょっとした有名人だが、
 彼は、私が東京営業所長時代のサービス担当なのである。



★カワサキの誇る世界の名車Zのエンジン開発は稲村暁一さんだが、
 その車体設計を担当されたのはメグロから来た富樫俊雄さんなのである。


  



★ 1965年5月、初めて鈴鹿を走ったのは山本隆で、
 これがカワサキの初めてのロードレース出場なのだが、
 当時北陸にいて一緒に手伝ってくれたのが、メグロから来た内田道男さんである。

 彼はその後、川崎航空機に異動して
 カワサキがヨーロッパ市場を開拓した時の先駆者なのである。
 開発・生産は兎も角、販売会社設立などの営業面が解る人材がいなかったのだろう。

 彼は、カワサキが最初にヨーロッパで販売会社を設立したUKの初代社長だし、
 ドイツ市場も彼が最初に手を付け、さらにその後カナダの開拓も手掛けたのである。

 
 私が初めてヨーロッパ市場やアフリカ・ナイジェリアに出向いた時も、
 いろいろとロンドンで面倒を見てくれた。

 レースが好きで、UKでもレースを手掛けていたし、
 ヨーロッパのGPレース運営もUKで『ケン・鈴木』さんと組んでの展開だったのである。
 そんな彼も若くして逝ってしまった。

     
 

   
  

 そんな『ケン・鈴木』ご夫妻ともいろんなことから繋がって
 昨年は軽井沢Silver Stone で楽しい時間を過ごしたりしたのである。

 鈴木さんは元トーハツから、BSのレースチームに移り
 その後UKでのカワサキGP監督を務められたのである。

 カワサキのレースでいえば、初代監督が大槻幸雄さん 
 2代目が、安藤佶郎さん
 そしてそれを受け継がれたのはメグロから来られた糠谷監督だったのである。



★そんなことでカワサキの二輪事業はメイハツやメグロや、
さらに言えばトーハツやなどかっての旧い二輪業界の方々の方々の協力でのスタートだった。

そんなカワサキが、新しく『メグロブランドの復活!』
これはそんな時代を生きてきた私にとって、なかなか嬉しいことなのである。

 
 

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カワサキ二輪事業の昔話

2020-09-30 07:51:52 | カワサキ単車の昔話

★時間があって閑なものだから、ネット検索を毎日楽しんでいるのだが、
昨日は旧いカワサキの人たちが登場するこんな動画に出会ってびっくりした。
内容は旧いが創られたのは2019年なのである。

 記事はカワサキバイクイチバン編集部が纏められたようである。

 このように説明されていた。


     




『カワサキが「Heritage Video 2019」と題し、カワサキ創成期の歴史を3人の証言者とともに振り返った動画を公開している。
動画の冒頭では、英語のナレーションながら、1924年の目黒製作所設立から1964年の川崎航空機工業による吸収、650-W1デビューなどの歴史を、当時の写真やカタログを交えて紹介。
そして次のインタビューに登場するのは、川崎重工業の元社長であり名誉顧問の田崎雅元氏と、カワサキ4サイクルエンジンの元開発者である稲村暁一氏、そしてカワサキのテストライダーやレーシングライダーとして活躍した、ミスターカワサキこと清原明彦氏の3人で、当時のアメリカでのテストや開発当時の貴重なエピソードを語っている。』



★ 何でもスタートの物語は『オモシロく語られる』ものなのだが、
カワサキの二輪事業のスタートは、確かにエンジンのプロたちはいっぱいいたのだが、二論車に関しては全く素人の集まりだったので、
ホントのところ『何も解ってはいなかった』のである。

当時の川崎航空機に入社した人たちは『二輪車』など何の関係もなかったのだが、いざやってみると『二輪独特のオモシロさ』があって、
みんな『ハマってしまった』感がある。

この動画には田崎さん、稲村さんが登場するのだが、お二人は昭和33年入社で、田崎さんはジェットエンジン、稲村さんは4輪車のエンジン開発などやっていた。
私はその1年前の昭和32年の入社なのだが、川﨑航空機が二輪車の一貫生産を始めたのは昭和35年(1960)のことなのである。

私が単車に異動したのは昭和36年で当時、田崎さんは未だジェットにいたし、多分稲村さんも未だ単車には関係していなかったのではと思う。


最初に出した125B7がフレームの欠陥で返品の山となり、二輪事業を続けるかどうか日本能率協会が市場調査をするのだが、昭和37年の『青野ヶ原モトクロスでの快勝』もあって現場の意気は盛り上がっていたこともあって、
単車事業やるべし』との結論になるのである。

このモトクロスに関係した人たちは中村治道・髙橋鐵郎さんなど製造部の人たちだったのだが、それ以降カワサキの単車事業は本格的に動き始めるのである。




★ この動画に現れる画面から何枚かを抜き取って、ちょっと当時の状況など補足説明をしてみたい。 
こんな時代のことが語れる人ももう本当に少なくなってしまったのである。

販売関係は当時は旧メイハツ工業の人たちが中心の『カワサキ自動車販売』が担当していて、市場は日本国内だけだったのである。
私は初めてできた単車の営業部門で、この『カワサキ自販』への販売の窓口をやっていた。

川﨑航空機の人たちは昭和35年度(1960)に初めて二輪事業を展開するための人材が入社してこの年度の人たちは、最初から二輪事業を担当した人もいるのだろう。
二輪事業が解っている人たちと言えば、旧メイハツからの人たちと、メグロからカワサキにやってきた人たちだけだったと言っていい。

 ただ当時の川崎航空機は戦後の中断があってばらばらになっていたのだが、
それが集約されたのが昭和27年度(1952)からなので、会社も大企業というよりは、まさに『若い会社』で、私なども入社早々から自由に『やりたいことがやれる』そんな雰囲気を持っていたのである。 

 
 さて、最初の方に現れる場面だが、
 この画面にはメグロから来られた糠谷さん(一番右)が写っているので
 昭和39年以降のことだろう。

 


 

糠谷さんは実験研究などやっておられたのだが、
カワサキファクトリのレース監督大槻幸雄・安藤佶郎さんのあとおやりになったので私もよく知っているのである。 


動画では田崎さんがいろいろと話されているのだが
まずはこんな画面が現れる。

 
 


 
これは1966年のことだと思うが、アメリカ市場への進出で明石工場からは田崎さんが一番最初にアメリカに渡ったのである。
丁度その頃650W1がアメリカ市場に登場するのだが、当時アメリカにいた日本人でバイクに乗れるのは田崎さん1人だったものだから、
アメリカのハイウエイをW1に乗って初めて走った日本人は私』と、これは田崎さんの自慢なのだが、このお話が登場している。

 当時はまだシカゴに事務所があるころで、ちょうどその頃、あの250A1
の開発テストを百合草三佐雄さんがアメリカでやったのだが、それを田崎さんが手伝ったりしている。

  

 
 A1が開発中の時期には日本でも名神高速道路が出来たばかりの時期で、そのテストにはファクトリーライダーの歳森康師・金谷秀夫なども参加したりしていた。
金谷は『ミッション焼き付き』に出会ったがうまく処理して『何とか怪我もしなかった』というのが自慢だったが、今になってよく考えてみると、契約条件には開発テストなどなかったから、もし事故にでもなってたら大変だったのだが、昔はそんなことは頓着なくやってたのである。



 稲村暁一さんは、この動画では技術的なことを語っておられるが、
 稲村さんは『4サイクルエンジンの開発』で知られている。

 
  


 
カワサキの4サイクルは最初のクルマがあのZ1でそれは1972年の上市なので、『それまでの稲村さんは何をやってたの?』と私は稲村さんに聞いたことがあるのだが、昭和33年(1958)の入社以来、陽の目は見なかったがカワサキの4輪車のエンジン開発担当だったらしい。


 
その名車Z1は、大槻幸雄さんが開発責任者で基本コンセプトは大槻さんの発想で、そのエンジン開発を稲村暁一さんが担当されている。


 



大槻さんはカワサキの初代レース監督で助監督が田崎雅元さんだったのだが、
大槻さんも私も1967年のFISCOでの日本GPを最後にレースチームを離れて、大槻さんは技術部の市販車開発部門に戻られ、私は東北6県の営業担当として仙台に異動するのである。

 1968年の初めに東北の販売店会議が開催されて大槻さんはその技術説明者として東北に来られたのだが、
その時『世界一のバイクを創る』とその夢を語られたのである。
 それが『Z1』になったのだと思うが、ひょっとしたらそんな大槻さんの夢を私が最初に聞いたのでは、と思ったりしている。

 Z1が世に出るまでは、それから約5年の歳月が掛かっている。
 因みに、大槻さんが技術部の市販車開発に戻られて最初に世に出た車は
 あのH1なのである。

 

 この車の担当はあの松本博之さんだが、
 初めてこの車を見た時の印象は『痛烈だった』のを思い出すのである。



★カだワサキの二輪事業の創生期に事業全体をリードしたのはある意味『レースだった』と言ってもいいのだが、
当時はエンジン開発=技術部マシン制作=製造部レース運営=広告宣伝課という三者の協働で『レース運営委員会』でその基本方針が検討されていたのだが、そのメンバーは以下の通りだったのである。

 山田熙明・苧野豊秋・中村治道・髙橋鐵郎・大槻幸雄安藤佶郎
 田崎雅元・古谷錬太郎

 そして大槻・安藤さんの後の監督が糠谷・岩崎茂樹コンビ
 その後を引き継がれたのが百合草三佐雄さんなのである。
 その百合草さんの時代に『レース』は開発・運営が技術本部となるのだが、
 その時の技術本部長は国内販社出向から戻られた髙橋鐵郎さんなのである。


★カワサキの創生期の昔話をしてきたが、ここに名前が登場した方々の内、
 川﨑重工業の社長が1人、副社長が2人、常務が2人と5人にもなる。
 別に役職の上位が特にどうだということもないのかも知れぬが、
 それはそれで大したことであるとも言える。

 何はともあれ『カワサキの創生期』はレースチームのメンバーたちが、
 その事業を引っ張ったということは間違いない事実なのである。


 
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国道1号線の想い出 など 昔の話

2020-08-05 06:49:22 | カワサキ単車の昔話

★現役時代約40年だったのだが、ちょうど半分の20年間を
 3度、国内市場の担当で出向したこともあって、日本の主な道路は
 殆ど何度も自分で車を運転して走った経験がある。

 免許を取ったのは1965年(昭和40年)で33歳の時なのだが、
 当時は車の免許を持っている人は少なくて、ましてや自家用車を持ってる人など、
 本当に珍しい時代だったのである。

 ちょうどその頃は、ファクトリーチームを担当していて、
 全国のモトクロス場や鈴鹿サーキット、富士スピードウエイなど
 全国各地にクルマを運転して出かけていたのである。

 そんな中でも1966年には青森の津軽の岩木山であった
 MCFAJの全日本モトクロスには、
 明石から津軽まで往復3000キロを車で移動したりしたのである。
 朝7時に明石をでて御殿場泊、翌日は仙台に泊っての走行だった。

 今のような高速道路のない時代だから、国道1号線だと言っても大変なのである。


★国道1号線は富士丸の山や、伊豆のモトクロス、
 富士スピードウエイのロードレースなど、
 ホントに走りなれた道だったのである。


  


   

   
 


★ こんな国道1号線と国道4号線を走っての津軽行きだったのだが、
  1967年(昭和42年)度からは、私自身が東北6県の代理店営業担当として、
  仙台に新しい仙台事務所を作ることを命じられるのである。

  昨今の異動と違って、何もないところに新しい事務所を創れという指示で、
  それ以外は具体的に何もなくて、
  私は異動の餞別みたいな感じで、『コロナのトラック』を頂いての異動だった。

  こんなに綺麗ではなかったと思うが、こんな車だった。

   

  ホントに何もないのである。
  従業員の仲間もいないし、事務所もなくて、
  宮城県代理店『宮城カワサキ』の事務所に机をひとつ置かせて貰っての
  スタートだったのだが、

  この『コロナのトラック』に適当な荷物を積んで、
  明石から1号線を走り、東京で一泊して仙台まで
  約1000キロを独りで運転して走ったのである。

  その時の明石から東京までのスケジュールと実際が
  日記に記録されている。
  東京まで635キロ、
  一宮までの名神以外は一般道路なので、14時間も掛っている。


   
   





★ 東北6県は岩手県を筆頭に日本の有数な大県ばかりなのである。

  この13号線も仙台を起点によく走ったが、
  隣の仙台ー盛岡も、盛岡―青森も200kmなのである。

  この地図にある時間も、今は多分高速道路を使ってのモノだと思うが、
  当時は高速道路などないうえに、奥羽山脈を越える山越えの道は
  未舗装の砂利道だった。
 

 


 
★ そんな昔のことをいろいろ懐かしく思い出しているのだが、
 この東北6県を担当してた当時は、長距離走行には慣れてしまって
 少々、長い距離でもなんともなかったものだから。
 明石への出張などもちょうど1000キロを朝早く出たら、夕方には明石に着く
 というような強行軍も何度もやったし、
 仙台から大阪に異動した年には、仙台で全日本モトクロスがあったのだが、
 大阪から所員と一緒に仙台までレースを観に行ったりしたのである。

 そんな車での走行話は、いろいろあるので、
 また、幾つか改めてご紹介してみたい。


 



  
   

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全体最適値を求めた『仕組み創り』   雑感

2020-07-26 07:31:56 | カワサキ単車の昔話

★『岩手県』いま、コロナウイルス感染者ゼロで、話題である。

 そんな『岩手県』など東北6県を私は担当していた。
 旧い旧い時代だが、『実用車のカワサキの時代

    こんな車だった。



 



 
 当時、東北6県が最大の市場だったし、
 岩手カワサキはダントツの『全国1位』の販売台数を誇っていたのである。

 1972~76までの4年間、私も未だ、30代前半、初めての営業経験だった。

 実用車も売れたが、こんなC2SSもめちゃくちゃ売れたのである。
 なぜ?
 それは当時東北6県は全国で最もモトクロスが盛んで、
 このC2SSの仕様に関しては、
 当時の東北の意見が大いに取り入れられていたのである。


 


 当時のカワサキのモトクロスのファクトリーライダーたち、
 山本・歳森・梅津・岡部・星野などは毎月のように東北にやってきていたのである。




★そんな東北6県の中でも『岩手カワサキ』は群を抜いた実績だった。

 その岩手カワサキの社長が久保克夫さんで、
 私は久保さんから学んだことは多い。
 
 なぜ岩手県などの田舎県が日本一を続けたのか?
 まさに、その販売システムというか、『久保克夫さんの力』だったと言っていい。

 それはなんだったのか?
 ひとつは   『久保克夫さんと販売店の信頼関係
 もう一つは  『岩手カワサキ独特の仕組み』  だったと思う。

 

 若い時に、私は久保克夫さんに会えて本当によかったと思っている。
 1976年以降はカワサキも『スポーツのカワサキ』に脱皮して
 私は大阪市場を担当することになるのだが、
 そこで創った『カワサキ共栄会』や、日本で初めての『特約店制度』など
 すべて『久保克夫さんから学んだもの』なのである。
 

★仙台時代、私は岩手カワサキの久保さんと一緒に行動することが多かった。
 久保さんは運転がダメで、私が運転手で岩手県内の販売店廻りを一緒にして、
 久保さんが、販売店に対してどのように対応されるのかを見せて頂いた。

 久保さんは販売店を訪問しても雑談ばかりで、
 『売ってください』などとは全く仰らないのである。
 『売りたい』のは販売店の方だと言うのだが、これは間違いない。
 人間関係は『貸し>借り』の関係でないと、その逆ではうまくいかないのである。
 
 一般に『お願い』などするものだから、『借り>貸し』になってしまうのである。
 販売店にはお願いなどせずに、
 相手が『望むこと』を支援するのが、『いい信頼関係』を創る鉄則なのである。
 
 そんな久保さんの販売店との対応場面を数多く見て、
 こんな対応はその後の私の『人間関係の基盤』になっいて、
 『頼まれたこと』はどんなことでもまず『断ること』はないように心がけている。


 
   


 ところが、岩手県は南北200キロ、東西100キロもある大県なのである。
 販売店を訪問するといっても、そんなに簡単ではないのである。
 そんな販売店に社長が突然訪問するものだから、
 販売店の方が恐縮してしまうのは、ヨコで見ていてよく解かった。
 間違いなく『貸し>借りの関係』が成立するのである。
 

★ もう一つの『仕組み』の話だが、
 ちょっと専門的で、お解り難いかも知れぬが・・・

 ●当時は全て『委託販売』の時代である。
 ●今のような回収システムではなくて、なかなか現金にはならない時代
 ●委託-販売ー売掛金ー手形ー現金化 と結構時間が掛かる
 ●数を売ろうとすれば、普通では大量の資金が寝る
 ●そのための『資金繰り』が大変で、
 ●ちょっと油断すると営業外で赤字になってしまうのである

 そんな時代岩手カワサキは独特で、
 ●実際は『委託』なのだが、
 ●委託すると同時にその月から『売り上げに計上』し
 ●毎月『請求書』を発送する
 ●販売店としては即支払う訳ではないが、ずっと『貸して貰っている』ことになる
 ●従って売れると即『手形支払い』となるケースがほとんどで
 ●大量に売るのに結構『実質回転』はよかったのである

 岩手カワサキ側の経理処理としては
 ●売上が経つので『利益が計上』されるのだが
 ●それは『引当金』を計上して相殺する
 ●売り上げが経っているので在庫からは消えているのだが
 ●在庫が『極小』になっても一切気にしない

 そんな『仕組み』になっていた。
 そんな『岩手カワサキ独特の仕組みの創造』を非常に興味深く思っていて、
 私の二輪経営は常に『独特の仕組み』の上に成り立っていたのである。


★ 『いい仕組み』さえ創れたら、殆どいろんなことは解決できるのだが、
 一番大事なのはTOPの立場での『全体最適値』を求めることである。
 
 現在の国の『コロナ対策の仕組み』など見ていると、
 部分最適値が優先されていて、上手く機能していないように思う。

 日本の縦割り組織を見ていると、
 各省の立場からの『部分最適値』ばかりが優先されて、
 『全体最適値』になっていないことが殆どなのである。

 国と地方との関係も明確ではないし、
 日本の組織機能は、なかなかムツカシイ。
 
 今こそ『全体最適値』を求めた『仕組み創』が求められているのだが・・・・


 
 
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