雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

上海万博が開幕、『大阪万博の思い出』

2010-05-03 04:58:58 | カワサキ単車の昔話
上海万博が開幕した。
今から、6ヶ月いろんな関連ニュースが飛び込んでくることだろう。
何はともあれ『その活気』と『中国の元気さ』が感じられる。


★昭和45年、1970年、今からちょうど40年も前のことだが、
大阪万博があった年である。

私もまだ30代後半で、元気だった。
日本自体が今の中国のように元気だったのだと思う。

中国もオリンピックがあって、その次が万博だが、
日本も東京オリンピックで盛り上がって、新幹線も走りようになったし、東京には高速道路も出来た。

一般家庭にもカラーテレビが普及しだし、いわゆる自家用車、車を持つ家庭も増えてきた、そんな時代であった。
個人的なことを言えば、やっと給料が10万円の大台に乗ったのをよく覚えている。


★国も元気であったが、私たちも無鉄砲で元気だったのである。
万博のときはまだ東北、北海道の担当で仙台に居た。

若かったけど、一応は責任者であった。
どうしても万博が見たいと、所員と3人で明石出張を口実に行くことにしたのである。
流石に新幹線を使うのは気が引けて、3人で車を運転して仙台を出発した。
東京までは高速道路もない時代の片道1000kmを3人で大阪までやってきた。

やっとたどり着いた万博会場だが、
渋滞にびっくりし、
車を止める駐車場もない。
この人では、果たして入場券が買えるかどうかも解らない。
入場しても見るのは大変だ。

静かな東北に慣れた田舎者は、直ぐ入場するのを諦めてしまったのである。
とても予想することの出来なかった状態だったのである。

★上海万博の賑わいを見て、40年前を思い出した。
国も、人もそんな若く元気なときがあるのだ。

二輪業界もカブ代表されるモペット全盛の時代から、カワサキもA1からマッハⅢ、さらにはW1画でてようやく実用車のカワサキからスポーツ、中、大型車のカワサキに脱皮しようとする時期であった。

万博が始まる頃は、実用車の中心市場仙台にいたのだが、
万博も終わったその秋には、カワサキにとって今からの市場大阪を担当することになったのである。

大阪に着任したら、船場モータースの岡田社長に、
『東北ではどうか知らぬが、大阪では、
ホンダは別格、世界のヤマハ、日本のスズキ、明石のカワサキ、ですよ』とおちょくられた。そんな時代であった。

その3年後、昭和48年、『カワサキ特約店制度』が大阪、京都、名古屋でスタート。
その中心的な役割を果たしてくれたのは、船場の岡田さんだった。
今の忍者の伊藤さんも若くてやんちゃな時期であった。

大阪万博の頃、そんな40年前が懐かしい。

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コメント (2)
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