★戦後の3年間、神戸一中で過ごしたが、中学3年の時、突如として厳しい学区制の洗礼に出会って、地元の明石高校へ入学することになった。
当時のGHQの勧告に基づくものであり、全国的に行われたのか、一部の地域だったのかは解らぬが、とにかく厳しいものでちょっと住所をごまかすぐらいでは通用しなかったのである。
それでも何とか切り抜けてそのまま神戸高校に残った人もいるにはいるが、ほとんどは地元の学校に転校していったのである。
生徒だけでなく先生もと言うことでどれくらいの人数が神戸高校から分かれて行ったのか定かではないが、一番大挙して転校したのが私立の灘高校である。
私たちより下の年次の人は、当時の地元の新制中学には行かずに、灘中学を目指した人も多く、このころから灘は進学校としての地位を築いていったのだと思う。
神戸から地元の明石高校に移ってきたのは、男女各2名4人だった。
★神戸一中にも試験を受けずに入ったが、明石高校も試験は受けていない。
明石高校に入って、すぐ野球部にも入部したが、神戸一中との違いにびっくりした
明石は強豪だったが私が入部した時は、3年生が4人2年生が5人でその全員がレギュラー、1年生は全員が補欠で10人ぐらいいたそんなチームであった。
キャプテンは大津淳さんで県下でも屈指のバッター超高校級と言われていた。
明石のあと、関大―日生―全日本ー阪神と進むのだが、阪神に入って初めて大津さんの4番以外の打順を見たのである。
野球をやらしたらその才能は飛び抜けていたし練習熱心だった。
当時入学早々の夏の予選前までの3カ月だったのだが、何か1年ぐらいの期間があったような気がする。
学校のグランドでも勿論練習はあったのだが、明石公園の球場を使うことも多く、大津さんが時々授業をさぼって球場に行ってしまうのである。
そんなニュースが入ると1年生はみんな授業をさぼって球場に入らないと怒られるのである。
入学早々、午後の授業をさぼることも多く、そんなのがずっと授業をさぼったりする週間になってしまった。
当時は、運悪くサマータイムの実施時期で、今よりは1時間日暮れが遅いのである。
明石の練習は、ボールが見えなくなるまでだったので8時ごろまでノックをしたりして、暗くなってからランニング、練習が終わってからも1年生はグランド整備などしていたら、
毎日家に帰って晩飯を食うのは12時近かったのである。
★そんな1年生の夏までは所謂ボール拾いで、バッテングなどはさせて貰えなかったし、バッテングピッチャー、と守ることのみの練習であった。
どちらかと言うと内野手でぼるも素直でコントロールもよかったから、指名がかかってバッテングの第一ピッチャーばかりやらされた。
当時は、そんなに暑くなかったのだろうか?
練習中は水は一切ダメだしよく、熱中症などにならなかったものである。
★学校ではあまり勉強はしなかったが、落ちこぼれなどにはならずについては行けたが、
野球8割の学生生活で、野球部以外の連中とは顔は知っているが、あまり話もしたこともなく、卒業したような気がする。
特に他の連中は地元なので小学校以来のトモダチが多いのである。
私の場合は、小学校は朝鮮、中学校は神戸だったが、神戸一中の時は全員あちこちから集まってきていて、あまりハンデイを感じなかったが、
明石では、ちょっと違った感じで、野球部の連中との付き合いがほとんどであった。
★高校に入ったころから、父は病に倒れてずっと寝込んでしまった。
金が一番なかった時代であたが、世の中まだ食糧難で、金が仮にあってもなんでも食える時代ではなく、そういう意味では助かったのである。
高校2年の夏に、初めて野獣部の合宿があり、コメの飯を腹いっぱい食えてみんなそれを一番喜んでいた時代なのである。
歌謡曲が流行りだし、確かNHKの紅白歌合戦がスタートしたころ、美空ひばりもいたがその前の笠置しずこや津村謙上海帰りのリル、岡晴夫あこがれのハワイ航路全盛のころである。
大学に行く人もまだ少なくて、東大などの公立大は難しかったのだろが、早慶や関西の関関同立の私立校はそんなに難しくはなかったのだろう。
大学を浪人するなどは、私たちが卒業する年次ぐらいから始まったのだろう。
昭和25年6月、朝鮮戦争が始まった。
これは西宮球場で広島の盈進高校との練習試合当日で、場内放送があったのでよく覚えている。盈進は後、国鉄スワローズに進んだ箱田が投げていた。
この戦争を契機に日本は好景気になって戦後の復興が進んでいくのである。
★そんな高校時代であった。
男女共学ではあったが、男女交際などはほとんどなかったのではないかと思う。
そんな甘い時代はもう少し先だったように思う。
私たち野球部の連中だけがそうだったのかもしれぬが。
昭和24年から、昭和26年ごろの話である。
写真はつい先日写した明石高校である、グランドは昔のままだが、校舎は当然だが建て直されている。
当時のGHQの勧告に基づくものであり、全国的に行われたのか、一部の地域だったのかは解らぬが、とにかく厳しいものでちょっと住所をごまかすぐらいでは通用しなかったのである。
それでも何とか切り抜けてそのまま神戸高校に残った人もいるにはいるが、ほとんどは地元の学校に転校していったのである。
生徒だけでなく先生もと言うことでどれくらいの人数が神戸高校から分かれて行ったのか定かではないが、一番大挙して転校したのが私立の灘高校である。
私たちより下の年次の人は、当時の地元の新制中学には行かずに、灘中学を目指した人も多く、このころから灘は進学校としての地位を築いていったのだと思う。
神戸から地元の明石高校に移ってきたのは、男女各2名4人だった。
★神戸一中にも試験を受けずに入ったが、明石高校も試験は受けていない。
明石高校に入って、すぐ野球部にも入部したが、神戸一中との違いにびっくりした
明石は強豪だったが私が入部した時は、3年生が4人2年生が5人でその全員がレギュラー、1年生は全員が補欠で10人ぐらいいたそんなチームであった。
キャプテンは大津淳さんで県下でも屈指のバッター超高校級と言われていた。
明石のあと、関大―日生―全日本ー阪神と進むのだが、阪神に入って初めて大津さんの4番以外の打順を見たのである。
野球をやらしたらその才能は飛び抜けていたし練習熱心だった。
当時入学早々の夏の予選前までの3カ月だったのだが、何か1年ぐらいの期間があったような気がする。
学校のグランドでも勿論練習はあったのだが、明石公園の球場を使うことも多く、大津さんが時々授業をさぼって球場に行ってしまうのである。
そんなニュースが入ると1年生はみんな授業をさぼって球場に入らないと怒られるのである。
入学早々、午後の授業をさぼることも多く、そんなのがずっと授業をさぼったりする週間になってしまった。
当時は、運悪くサマータイムの実施時期で、今よりは1時間日暮れが遅いのである。
明石の練習は、ボールが見えなくなるまでだったので8時ごろまでノックをしたりして、暗くなってからランニング、練習が終わってからも1年生はグランド整備などしていたら、
毎日家に帰って晩飯を食うのは12時近かったのである。
★そんな1年生の夏までは所謂ボール拾いで、バッテングなどはさせて貰えなかったし、バッテングピッチャー、と守ることのみの練習であった。
どちらかと言うと内野手でぼるも素直でコントロールもよかったから、指名がかかってバッテングの第一ピッチャーばかりやらされた。
当時は、そんなに暑くなかったのだろうか?
練習中は水は一切ダメだしよく、熱中症などにならなかったものである。
★学校ではあまり勉強はしなかったが、落ちこぼれなどにはならずについては行けたが、
野球8割の学生生活で、野球部以外の連中とは顔は知っているが、あまり話もしたこともなく、卒業したような気がする。
特に他の連中は地元なので小学校以来のトモダチが多いのである。
私の場合は、小学校は朝鮮、中学校は神戸だったが、神戸一中の時は全員あちこちから集まってきていて、あまりハンデイを感じなかったが、
明石では、ちょっと違った感じで、野球部の連中との付き合いがほとんどであった。
★高校に入ったころから、父は病に倒れてずっと寝込んでしまった。
金が一番なかった時代であたが、世の中まだ食糧難で、金が仮にあってもなんでも食える時代ではなく、そういう意味では助かったのである。
高校2年の夏に、初めて野獣部の合宿があり、コメの飯を腹いっぱい食えてみんなそれを一番喜んでいた時代なのである。
歌謡曲が流行りだし、確かNHKの紅白歌合戦がスタートしたころ、美空ひばりもいたがその前の笠置しずこや津村謙上海帰りのリル、岡晴夫あこがれのハワイ航路全盛のころである。
大学に行く人もまだ少なくて、東大などの公立大は難しかったのだろが、早慶や関西の関関同立の私立校はそんなに難しくはなかったのだろう。
大学を浪人するなどは、私たちが卒業する年次ぐらいから始まったのだろう。
昭和25年6月、朝鮮戦争が始まった。
これは西宮球場で広島の盈進高校との練習試合当日で、場内放送があったのでよく覚えている。盈進は後、国鉄スワローズに進んだ箱田が投げていた。
この戦争を契機に日本は好景気になって戦後の復興が進んでいくのである。
★そんな高校時代であった。
男女共学ではあったが、男女交際などはほとんどなかったのではないかと思う。
そんな甘い時代はもう少し先だったように思う。
私たち野球部の連中だけがそうだったのかもしれぬが。
昭和24年から、昭和26年ごろの話である。
写真はつい先日写した明石高校である、グランドは昔のままだが、校舎は当然だが建て直されている。