★この年64歳、6月で川崎重工の技監の職は退任で、あとどうなるかは解ってはいなかったが、不思議なほど気にもならなかった。
当時まだ4つほど仕事を持っていたのだが、
二輪車専門の自動車学校の設立は、1月末に大型免許の認定が下りてそれ以降は生徒の申し込みも多く忙しい毎日で順調だった。阪神ライディングスクールの有馬社長に援けて貰っての学校免許の取得であったが、この免許取得は普通ではとても取れない難しさである。多分これ以降日本で取得したところはないのではなかろうか? 二輪専門学校の免許をこれ以上出さないために造られたようなハードルの高さなのである。
関東のサーキット松井田は、3月10日に松井田町の議員総会も通り、川重サイドは3月19日の経営会議で26億円の建設予算とともに許可になり、一応の区切りも付けた。
ジェットスキーの関連でのヤマハさんなどとの業界団体PWSAの会長職は3月末を持ってヤマハの三浦さんに引き継いだ。
★もう一つ、ホンダの宗国さん(のち自動車工業会会長、当時副社長)や水島さんたちとで立ちあげてきた、二輪ユーザーが主体の団体二輪車協会(NMCA)も1月に設立され、動き出していた。この設立には結構力を入れて、何度もホンダの青山で、ホンダの企画の人たちと打ち合わせなどしたものである。水島さんには特にお世話になった。
いまはちょっと設立の趣旨とは違って『ユーザー主体の動きにはなっていない』のは残念に思っている。
NMCA のホームページの『設立の理念』にはこう記述されている。
人々の暮しが、豊かになるにつれ、時間的ゆとりや、心の解放、自然への関心が急速に高まっています。
二輪車は本来、便利な生活の道具としてばかりではなく、人に近く、また地球にやさしい遊びや文化としての楽しさを兼ね備えています。
このような時代だからこそ、人と社会に、二輪車の「夢」と「素晴らしさ」、「楽しさ」をもっと伝えたい。もっと分かちあいたい。
私たちはそう考え、国内二輪車4メーカーが発起人となって、1997年1月、NMCA日本二輪車協会を設立しました。
二輪車ユーザーと二輪車に関心を持つ人、二輪車販売店、卸、メーカーが一体となり取り組む、それがNMCA日本二輪車協会です。
二輪車の遊びや楽しさ、利便性や有用性、使い方の可能性を追求し、販売環境や利用環境の整備、社会へのイメージアップ、そして省資源や環境保護などへの対応、社会貢献、といった二輪車を取り巻くさまざまなテーマに取り組み、広く社会のお役に立ちたいと考えています。
いまNPO The Good Times では、二輪の分野ではこんなコンセプトを引き継いで、活動している積りなのである。
『カワサキの想い出、そして未来』や、先日の『袖ケ浦のマル耐』などは、どちらもユーザーが主役のイベントだった。いつの日にかNMCAのお手伝いができたらと思っている。
★こんなことで、最後まで忙しかったのだが、
3月19日、東京で経営会議があって、松井田のGOが決まったその晩に、高橋鉄郎さんから家に電話があったのである。
『建機の北海道の販社を2年ほど見てくれないか?』 と言うことだった。
当時、高橋さんは副社長で単車と建機を見ておられたのである。電話だったし突然の話だったので、中味もよく解らぬし、札幌に行くなら単身赴任と言う初めての経験でもあったので、その日は即答をしなかった。会社ではいろんな職場を歩いたが、いままでは言われたことは全て即答で『Yes』と応えているのである。
翌日から、いろいろ聞いてみると、6月からは田崎さんが単車と建機を見ることになり、建機事業の再建のために特に生産部門は単車から藤浦さんが行き、事業部長を大学の野球部の後輩の原田君がやるようである。
北海道川重建機と名前だけは子会社のようだが、子会社ではなくて地元資本の自前の会社なのである。どんな状況なのかよく解らぬが、これはなかなか難しそうなのである。昔は二輪も自前の販社はあちこちにあったが、時代は変わって販売会社は全てが直販子会社だから、自前の代理店など扱ったことがない人ばかりなのである。
自前の会社と言うだけで、非常に興味があったし、『原田君が是非』と言うので、数日後高橋さんには『行きます』とお引き受けしたのである。
『ホッと』されていたようだった。
環境が変わると、直ぐそれに反応して、そこにハマってしまうのである。
4月からは、殆ど建機の販社に行くための準備に掛った。
札幌の会社は5月末の役員会で議決し、6月からと言うことだったので、それに向けてスケジュールを組んだ。
6月に退任したら、海外旅行でもと思っていたが、それも出来そうにないので、
5月の連休明けから12日間、ヨーロッパ旅行を計画して、帰ってから1回現地を見て、5月末からは札幌に行くということにした。
★会社を退職するのは初めての経験だが、そんな手続きは全て総務に任して、どのような形で仕事をするのかと言うことだけを考えていた。
北海道川重建機はオ―ナ―の社長が亡くなって、そのあと社長はおられたのだが、何故かその方が退任されるので、そのあとにと言う話なのである。
勿論、専務も常務もおられて、役員には川重から出向の取締役もいるのだが、専務、常務はタダの役員ではなくて株主でもある。そのほかに株主がいっぱいいて、強力な発言もあり、なかなか運営が難しそうなのである。
これはむしろ面白くて遣り甲斐があるなと思ったのは事実である。
高橋さんはそのあたりのことを心配されて、4月ごろには『技監のままで行くか』などと仰って頂いたのだが、むしろ川重は離れて、フリーの身分で行く方がいい思ったのである。
結果は、退職時期を1ヶ月早めて、5月末とし、初めての単身赴任経験となったのである。
なぜ、川重建機が、川崎重工に社長要請をしたのかは聞いていないのでよく解らないが、待遇は非常に手厚くして頂いた。
不思議なことだが、給与は川重の技監時代より多くなったのである。
クルマはトヨタ2800ccの4輪駆動の新車を、『運転手を付けましょうか』と仰るので、それは『お断りをした』 クルマは自分で運転するものと思っていたし、運転は好きだったのである。
家は札幌は支店長などの単身赴任者いっぱいのまちで、そんな人専用の2食付き24時間大浴場の風呂が沸いている豪華マンションを用意してくれたのである。
駅や繁華街も直ぐ近くの最高の立地であった。
『運転者を付けましょうか』と仰るのもよく解った。出勤時間には、マンションにはお迎えのクルマが列をなすのである。そんな人たちばかりが住んでいた。
5月末まで、実際の勤務までにそんなことぐらいは解ったが、会社の中身などは全く調べずに現地に行ってからと言うことにしたのである。
★そんなことで川崎重工の明石工場での最後の5カ月間は、結構バタバタして実質明石に出社したのは4月末までで、
二輪車の最後の会議は、東京での二輪車協会の会議が最後となった。宗国さんが気を遣って頂いて、最後に挨拶の時間を取って頂いたのである。
サラリーマン40年間の殆どを二輪事業の中で過ごしたが、その最後が自ら起案した二輪車協会での会議で最後の挨拶が出来たのは、ホントに自分らしくてよかったと思っている。
40年間の殆どを、自分の思うことが出来たのは、サラリーマンとしては最高に幸せであった。
そして、そのほとんどの期間が、『経営』に関することだったのは、二輪業界と言う世界の各地で事業を展開するビジネスだったからである。
規模はともかく、ずっと経営者をやってきたようなものである。これは私だけではなくて、当時の人たちはみんなそんな環境だったし、『係長の社長』はそんなに珍しくはなかったのである。
★家では、娘に2番目の子供が1月に生まれたりした。
早産になるかもと一時入院などして心配したのだが、無事生まれて何よりであった。
5月4日、世の中はみんな連休で帰国ラッシュの最中に、ヨーロッパ12日間のツアーに出発した。家内との海外旅行は2度目だったが、ツアーは初めての経験であった。
前回のオーストラリアは、レンタカーを借りて、自分の行きたいところを地方まで見て回ったのだが、ツアーは予定通り、イギリス―イタリアードイツースイスーフランスとのんびりした旅であった。初めての国はイタリアだけだったのだが、イギリスも、ドイツもスイスもフランスも名所、旧跡はこの旅で初めてのところばかりだった。
何度行っても、仕事での出張では、なかなかいいところには行けないものである。
この年前半の5ヶ月、何かばたばたしているうちに過ぎてしまったのである。
6月からは、札幌で全く新しい経験が始まったのである。
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