雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキ単車物語  その4  1965年(昭和40年)からの10年間

2013-04-17 05:18:25 | カワサキ単車の昔話

 

★ カワサキの単車事業がどのような形で進んでいったのか?

非常に粗っぽく言うなら、1960年と言う年が一つの契機になったのだろうと思う。

メイハツとはそれ以前に繋がっていたのだろうが、この年にメグロとの提携も行われている。明石の工場の中に『単車準備室』と言う職制が出来たのが1960年からである。明石での一貫生産を想定して、資材部門など部品調達なども含めた生産準備の検討を主として行う部門であったと思う。

昭和35年のスタートからこの職制もスタートしたが、私なども未だ財産課時代で単車事業に関わった人など未だ少なかったのだが、この年の4月に、なぜか大量に大学卒を採用しているのである。それが単車事業展開のためのものであったのかどうか? 多分そうだと思う。

事実、その後カワサキの単車事業展開の中心的な役割を果たした、所謂 『昭和35年組』 、その人数は例年と比べ突出して多かったのである。

 

 ★ カワサキの単車事業は実質的に事業として動き出したのは、アメリカ市場開発が始まり、国内市場に対しても積極的な出向政策などをスタートさせた1965年、(昭和40年)ごろからなのである。この年に私はカワサキオートバイ販売に川崎航空機から出向になっている。

これからの1975年(昭和50年)までの10年間は、カワサキにとって、アメリカを中心にZの大成功などもあって大きく飛躍した10年間であったと言っていいだろう。非常にハリのあった、新しい事業に参加した人たちがそれぞれに頑張ったそんな10年間だったと思う。

この期間、事業を引っ張ったのはアメリカ市場ではあったが、国内市場もカワサキのモペットなど小型車を捨てて中大型スポーツ車を中心に、それに見合ったカワサキ独特の特約店制度など、各社に先んじた新しい時代の販売網政策などに集中していた時代なのである。

 

●この期間トップで引っ張った人たちは、粗っぽく言って『大正生まれの人たち』である。戦時中に入社して、川崎航空機が中断されている間は、川崎機械などに避難?していた人たちで、技術部門が山田熙明さん、営業が田中誠さんや苧野豊秋さん、生産技術が中村治道さんなどで大体部長クラスであった。

●そして、ホントに中枢で動いた人達が 高橋鉄郎、矢野昭典、浜脇洋二、安藤佶郎、大槻幸雄、高橋宏、桑畑禎文、田村一郎さんたちなのだが、高橋さん矢野さんは海軍兵学校、他の方たちも旧制高校だとかいろいろあって、その年次がもう一つよく解らないのだが、

昭和30年までの入社なのである。

昭和31年入社が柏木茂、川崎さん、

昭和32年入社が私とアメリカの7人の侍の一人久保勝平さんで、ここまでが『昭和1桁組』なのである。

わざわざ『昭和1桁』と言っているのは、どちらかと言うと『戦中派』で 『昭和2桁』とはちょっと違っているのかなと思っている。

何と言ってもこの期間の中心は、市場で言えばアメリカ、そのアメリカ市場を強烈なリーダーシッップでひっぱった浜脇洋二さんだろう。

そしてこの時代1963年には、カワサキの世界の名車と言われているZの販売が世界で始まっている。そのZ1の開発を主導したのもアメリカなのだが、その開発の責任者がミスターホースパワーと言われた大槻幸雄さんなのである。

 

●続いて昭和33年入社が、田崎雅元、那波義治、稲村暁一と実力者揃いで、昭和34年組は、北村敏さんただ一人である。

昭和33年からは『昭和2桁組』なのだが、その筆頭格の田崎さんに言わしたら、『昭和1桁は早飯で、女に弱くて、英語が喋れず、ダンスが出来ん』 などとよく言っていた。 言われてみると当たっていて、昭和2桁の連中は、なかなかスマートなのである。

 ここまでが、昭和34年(1959)までに川崎航空機に入社したメンバーなのだが、先に入社していただけで、別に単車事業に先に関係していた訳ではないのである。

 

●そんな状況の中で、昭和35年(1960)4月には大量に、新しい人たちが入社してきて、後、単車事業の中枢で活躍することになるのである。

順不同に名前を列挙しておくと、(下の名前が解らぬ人もいるが)

武本一郎、武本晃、百合草三佐雄、大前太、種子島経、斎藤定一、上月さん、角野さん未だ他にもいるのだろうが、兎に角個性派揃いで、この年次がいろいろと単車事業に影響を与えたのは間違いない。

武本一郎さんは私とは企画で2度のコンビを組んだ東大出の秀才である。武本晃さんは技術部でも、リンカーン工場でも、レース監督でもユニークだった。百合草三佐雄さん、A1の開発時代からアメリカを駆け巡り、レース監督も、アメリカKMCの社長も、ジェットスキーのエンジン440、550化には色濃く関係された。大前太さんは生産や品証から企画に。斎藤定一さんはKMCのR&Dの創立者だし、リンカーン工場を造ったし、上月さんも技術部でユニークだったがレース監督などもおやりになった。角野さんは本社からKMC その後カワ販にも。種子島経さんは一般には有名なので説明の要はないと思う。

こんな35年組で特に私とも関係の深かった方は武本一郎さん、私の企画時代を支えてくれた恩人である。百合草さんとも非常に深く関係があった。特にアメリカKMC社長時代は、一緒にやったと言う実感がある。大前さんも私が2度目の企画の時に品証から企画に招いた人材である。当時の企画部長武本一郎、生産企画部長大前太、アメリカKMC社長百合草三佐雄、特にこの3人の35年組とは一緒に仕事をさせて頂いた、そんな時代もあったのである。

●解る範囲で、昭和36年は野田浩志、佐伯武彦、 昭和37年が前田祐作、永友節雄、原田紀男、昭和38年が井川清次、鍋島英雄、昭和39年、中島直行、昭和40年、鶴谷将俊さんと続くのである。

 、

(この3社合併を遂行された、砂野仁さん、四本潔さんは、私など川崎航空機に入社したころは川航におられたお二人だったのでスムースだったのかも知れない。)

 

 

★ この期間の間には、川崎重工、川崎車輛、川崎航空機の三社合併が昭和44年に行われて川崎重工業になるのだが、

カワサキのこの期間を支えた人たちは、

●一つには、川崎航空機時代に入社の人たちであったこと、

●もう一つは、上記の大学卒の人たちだけではなくて、当時の高校卒の実力派の人たち などが第1線で活躍したのは特筆すべきことなのである。

●さらに言えば、川崎航空機の人たちだけでなく、旧メイハツ、メグロの人たちや地方代理店出身の人たち、カワサキオートバイ販売の定期採用も昭和41年度からは始まって、そんな新人達もようやく戦力化してきたそんな時代なのである。

海外で言えば、徹底した現地主義から現地アメリカ人たちが100%活躍したそんな時代であったと言えよう。

この時代の初期、レース関係のフレームなどマシンの完成を担当したのは、大学卒のエンジニアではなくて兵庫メグロからやってきた松尾勇さんだったりしたのである

大メーカー川崎重工業だけの体質ではない、そんな雑草的な強さが、その当時のカワサキにはあったと言えるのだろう。

 

こんなムードがなぜ出来たのか?

当時の単車に関係した人たちは、ホントにユニークだった。よくまあ、こんなに変わった人たちばかりが集まったものだとも思うのだが、

別に当時のカワサキが変わりものばかりが集まっていたのではなくて、普通世の中では、ユニークな人もホントは多いのだろうが、みんなその芽を摘み取られてしまっているのではないかと思うのである。大体、大きな企業になればなるほど、何もしない、ミスをしない人がエラクなるようなところがあって、みんな自分の個性を発揮できていないのではないかなと思っている。当時のカワサキにはそんなムードは微塵もなくて、職位などには全く関係なく、それぞれが個性を発揮して頑張れる雰囲気があったと思う。

この時代、単車の世界で経験豊かなのは、地方代理店や、メイハツ、メグロの人たち、アメリカ人たちで、川崎航空機の人たちは入社年次などには全く関係なく みんなヨコ一線の新人達 で、スタートラインは同じだったからかも知れない。

 二輪と言う世界は、商品の開発にしても全く自由だし、世界の市場もその環境は一つではない。未だスタートしたばかりの事業であったし、教えてくれる先輩などいないし、それぞれが自らの仕事を自分で考えてやらねばならない環境にあったのだと思う。

 

★ いろいろ理由はあると思うが、『自由にやらせた』当時のトップが偉かったと思うのである。

岩城良三さんも怖かったが、下がやることに細かく口を挟まなかったし、山田さんも、塚本さんも青野さんも、下がやることにあまり文句など仰らなかったのである。上に立たれた方たちも、ご自身に経験のあることでもないし、現地を担当する人たちを信頼して任さざるを得なかったのかも知れない。

 

この時代の人たちで一般によく知られている人で言えば、

まずは『浜脇洋二』さん、ご自身で本も書かれているし、カワサキのアメリカ市場開拓の旗を振られたことでよく知られている。もし浜脇さんが当時のアメリカ市場での成功がなかったらカワサキの単車事業がここまで大きくはならなかったのは間違いない。『種子島経』さんも本を書かれているし、二輪雑誌にも登場する機会も多いので、カワサキの顔のようによく知られている。

今年はZの販売40周年なのだが、そのZ1の開発責任者が大槻幸雄さんだし、そのエンジン担当したのが稲村暁一さんなのである。

カワサキが一番華やかであったように思われている1975年(昭和50年)ごろまでは、カワサキの中心はアメリカ市場であり、ヒット車種の中心はZで、それらによってカワサキいのイメージも徐々にだが確立されていくのである。

リンカーン工場が日本の自動車工業会のトップを切ってアメリカに進出し、Kawasaki . Let the good times roll !  と言う基本コンセプトが創られたのもこの時期だし、ジェットスキーと言う新商品もアメリカ市場向けに開発されたのである。その1973、74年当時が絶頂期であったと言えよう。

巷でカワサキのことがよく知られているのは、このころまでである

 

★国内市場ではZ2が発売された昭和48年から大阪、京都、愛知などから新しい特約店制度をスタートさせて、日本にもようやく自転車屋中心の販売網から、二輪専門店がスタートし出したそんな時期であった。カワサキはその先頭を走っていたが、1975年には3年目にしてようやく全国展開の販売網として、ほぼ完成を見たのである。ここ国内の販売網政策については項を改めて別途書いてみたい。

その販売網の推進を直接担当していた私はその完成を機に、カワサキオートバイへの出向期間を終わって、10年ぶりに川崎重工業単車事業本部企画室に戻ってきたのである。

1975年(昭和50年)の10月のことである。

 

当時、既にアメリカの絶頂期は峠を越していた

発動機の商品であったスノ―モービルが、雪不足で全然売れなかったこともあって、冬しか売れないシーズン商品の在庫などがリンカーン工場の足を引っ張りかけていたし、雲行きが怪しくなりかけていた時期であった。

当時の企画室は企画室長が本社財務から来られていた堀川運平さん、企画部長が高橋宏さん、その部員課長として田崎、田付、種子島さんと私で年次の関係で私が纏める立場にはあった。田崎雅元さんは、岩崎茂樹さんと主としてアメリカKMMのリンカーン工場などを担当し、スノ―モービルなども彼の担当だったのである。種子島さんは、アメリカから戻ったところで、ドイツへ行くちょっと前の時期だったのである。私のグループは35年組の武本一郎、森田進一さん(年次は多分39年)などもいたし、後単車も川崎重工も背負った人たちがいっぱいだった。

アメリカKMCは未だ浜脇洋二さんが最後のころである。

塚本事業本部長、青野副事業部長、技術本部長は高橋鉄郎さん、営業本部長は矢野昭典さんの時代である。

ようやくカワサキの単車事業も今後どのような展開を図るべきなのか?

本社の吉田専務が単車事業を担当されしょっちゅう明石にも来られていた。アメリカ市場の今後、スノーモービルの扱い方針、ヨーロッパ対策、開発途上国対策方針などなど、発動機を含む発動機事業本部の長期事業戦略の検討が吉田専務を中心に進められていた。

私のグループは、その『発本戦略』を直接担当していたのである。

 

これは当時私が纏めた『発本基本戦略』である。 

昭和50年(1975)自分史

昭和51年(1976)自分史   もあるのだが、

 

1976年からの10年間は、カワサキにとって激動の時代に突入するのである。

これらについてもまたいろいろと書ける範囲で、書いてみたい。

 

 

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