50年前には今の現役諸君はまだ入社していないし、どんな状況だったのかご存知の方はもうなかなかおられないのである。私は当時は国内を担当していて直接は関係はなかったのだが、当時のレース仲間だった田崎雅元さんや安藤吉郎さんらが続いてKMC を担当されたので、どんな状況だったのかは結構ちゃんとわかっているのである。 カワサキの二輪の長い歴史の中で、アメリカ市場は常にその中心を担ってきたし、カワサキの二輪事業はKMCなくして存立しなかったのも確かなのだが、1983年当時は一転、そのKMCの巨額の赤字が二輪事業部も川崎重工業本体までも揺るがして、大変な時代になったのである。その時代には私自身が企画を担当して再建に直接関与したので、KMCは特別の思いを持つ販売会社の一つなのである。 KMCのスタート時点は浜脇洋二社長で、Santa Ana に事務所を構えていたのである。1985年当時には、その規模も大きくなって、当初の事務所には収容仕切れずに4か所にも分散していた状況だったのである。赤字対策と言えば経費の削減だとか、面白くないことばかりで、意気も上がらないので、この機会にSanta Ana の事務所を売って新しい場所に事務所の統合をしようと当時の社長の田崎さんと二人で画策してスタートしたのである。 調べてみたら当時開拓中のIrvine なら、Santa Ana の事務所を売れば、その費用で膨大な土地が買えることが分かって、その計画が進むように本社筋に働きかけたのである。土地も新事務所も資産なので資金繰りさえつけば損益には関係ないので、当時の金で20億円で新事務所を建設したのである。買った土地は大きすぎたので数年後には半分売却したりした。 監査役などからは『赤字事業部が新しい社屋を建てるなど』と反対されたりしたのだが、結果的には借りていた3つの事務所の家賃なども浮いてそんなに負担などにはならなかったのである。 鹿島建設が担当してくれたので立派な建物が建ったし、何しろ規模がでかいので、社長室などはも東京の川重の社長室よりも立派で広かったのである。ただ当時の田崎雅元社長も川重でいえば新参部長だから、日本から事業本部長などエライさんが来られた時の部屋も同じように立派に並べて作るなどの配慮もしたのである。当時の川重関係の社屋ではその大きさも立派さ加減も群を抜いていた事務所だったのである。 そんなこともあって、かっての事務所は私にとっても思い出いっぱいの事務所だったのである。