★1992年は、前年度に7万台の台数目標も達成して、文字通り『リストラクチャリング構造改革フェーズⅡ』スタートの年だった。
これはこの年の1月29日に開催されたARKミーテングで話した私のスピーチを纏めた冊子の表紙なのである。
★1989年からスタートした基本コンセプト『新しいカワサキのイメージ創造』は、それからの3年間でこんな実績で具現しているのである。
3年間でイメージ総量も大きくなったし、『レースに強く常にチャレンジする』積極的なグループイメージ創造に成功したのである。
この3年間で、確かに業界のシェアも中大型分野ではホンダを抜いてTOP になることも珍しくなかった。
ユーザークラブKAZEの活動は間違いなく業界トップを走っていたし、前年度オープンした大分県の『SPA直入』は文字通り一般ユーザーのサーキットとして、全国のサーキットの先導役を果たしたりしていたのである。
前年度の『SPA直入』に続いてこの年業界の話題となったのは、『新宿ショールーム』だと言っていい。
全国に展開した『PLAZA』の中でも 新宿 は大都会の一等地の最高の場所に開設したショールームで当時の二輪業界のレベルを大きく飛び越えたものだったのである。
このビルの屋上には、Kawasaki .Let the good times roll と KAZE の看板が設置され、その一階がショールームで、お借りしたものではあったのだが、『カワサキのビルですか?』などとも言われて、世の注目を浴びたのである。
さらに、このショールーム運営は夕方の5時までで、5時からは『アフター・ファイブ』という店に変身して、東京のARKの関・五島さんのカワサキOBが、ケイ・スポーツ・システムと協働して、実際に販売活動を展開するという実験店舗にもなったのである。
当時のヒット商品 ZEPHYR が従来のカワサキのイメージとは、ちょっと変わったものであったこともあたのか、この『アフター・ファイブ』に来られるお客さんは従来の『カワサキユーザー』とはちょっと違った層の方も多くて、『マーケッテング』のソフト導入分野でも『新しいカワサキイメージ創造』でも独特の役割を果たした核だったのである。
確かに相当の費用は発生したのだが、それがトータルの経営の中でどのように位置づけるかは、まさに経営の基本コンセプトの問題であって、その判断はなかなかムツカシイのだが、少なくとも私自身が国内市場を引っ張った核戦略であったことは間違いないのである。
この当時の国内基本戦略を評価頂いたのは、むしろ一般の外の方たちで、この年の初めから中央大学の中江教授からも『カワサキ独特の市場戦略』について興味を持たれて、先方から面談申し入れがあったりしたのである。
20年以上も前の1990年代に、中江剛毅先生はこのように言っておられるのである。
●『好感企業の時代』 好感とは感性の領域で好きと感じられる
●マーケットシェアとは、企業システムとマインドシェア
●環境=関心度*イメージ
●『エクセレントカンパニー』よりは『グッドカンパニー』
その教義は、当時のカワサキの『総合営業活動』そのものだったのである。
そんなカワサキオートバイ販売に興味・関心を持たれての面談申し入れだったのである。高橋鐵郎社長と私でお会いして、さらに先生は、明石工場にもSPA直入にも来られたし、TIサーキットでは、X-11に自ら乗られて走らされたりされたのである。
服部吉伸先生からも、『これからの流通業』という本に書かれたことを『実践している企業がある』と興味を持たれて、この年の12月には中小企業大学での先生の授業の講師を依頼されたりしているのである。
服部先生はその後、立命館大学の教授などもされたのだが、今もFacebook では、繋がっている。
https://www.facebook.com/profile.php?id=100014185723961&fref=ts
★この年の10月には、ジェットスキーも主力商品として取り扱っていることもあって、社名もカワサキオートバイ販売から、株・カワサキモータースジャパンと改名することとして、川重経営会議の承認を頂いたのである。
遊びやこころの満足を追求するCS活動や、当時の経営の基本コンセプトを具体的に実現できる新体制なのである。
『売ることに頑張る』のではなく、遊んでいても『自然に売れる仕組み』を創って、『売る』ことはその専門である『ARK』に任せて、販売会社はJSと二輪関連の4社で、あとはソフト会社などの専門会社3社とし、カワサキモータースジャパンの社長は高橋鐵郎さん(CP事業本部長)で私が常勤専務を務めたのだが、その下の7社の社長を私が兼務する方向としたのである。
特にソフト会社、株ケイ・スポーツ・システムの遊び専門会社とJJSBAや二輪レースなどの分野にも販売以上に注力できる体制として翌年1993年から約4年間、国内市場を担当しているのである。
★この国内グループの構造改革も、他社や一般販売会社とは全く差別化された独特な体制であったのだが、当時は単車本部長をされていた大庭浩社長の時代だったのでその信頼は厚く、川崎重工業では前例のなかったSPA直入・松井田サーキットプロジェクトやこのグループ再編計画も、殆ど何の問題もなく本社経営会議で承認頂いていたのである。
この年、6月にはCP 事業本部も、取締役人事などいろいろあって、その結果としては柏木さんが監査役に、田崎さんが取締役に、そして私は川崎重工業始まって以来初めての『事務屋の技監』となったのである。
5月26日には、大庭社長からわざわざお呼び出しがあって、64歳まで技監として待遇するとの通達を頂いたのである。
『技監』とは技術的に高い知識を持っておられる技術博士や官庁からの天下りの方たちを処遇するためにある職位なのだが、大庭さん曰く『君はマーケッテングの分野では専門家』だから『国内市場を任すから頑張れ』と言って頂いたのである。そんな大庭さんの意向を受けてのグループ再編成であったと言えるのである。
そういう意味では、私にとっても非常に大きな転機で、理事から役員ではなく『技監という専門職』となったのである。
この時、取締役となった田崎さんは、私が技術音痴なことを知っているものだから『古谷さん、あんた名刺の裏の肩書の英文はどう書くの』と冷やかしたりされたのだが、『技監』という肩書は、その後中央官庁では大いに評価して頂いたのである。中央官庁から民間企業に天下りされる方が『技監』の職位に付かれることが多いようで、同じような評価をして頂けるのである。
この年 Jet Sky 関係でヤマハさんなどと、『PWSA(パーソナル・ウオーター・クラフト協会』を創り、その会長もさせて頂いたのだが、その時も中央官庁の課長さんなどは、大会社の役員さんよりも業界団体の会長というとそれなりの対応をして頂けるのだが、その時に差し上げる名刺の肩書の『技監』は大いに効果があったりしたのである。
その他にもいろいろあった1992年だが、この年の一番の課題は、
『リストラクチャリング構造改革フェーズⅡ』だったのである。
★ その歴史ー「カワサキ二輪事業と私」を最初からすべて纏めて頂いています
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