★ 昭和32年(1957)4月に川崎航空機に入社して、最初の仕事は財産課だったのだが、
ここでは実質2年ちょっとで肺結核になってしまって三田の療養所に10か月ほど入院することになったのである。
ちょうどその頃、新しく単車事業がスタートすることになり、
昭和35年(1960)から明石工場で単車の一貫生産が始まるのだが、
営業部にも新しく『単車営業課』が新設されて
それが11月にスタートしたちょうどその時期に退院だったこともあって、
その『単車営業課』に異動することになったのである。
そんな好運に恵まれて私の単車事業とのお付き合いが始まるのである。
最初に造られた車が『125ccB7』なのだが、
これが大変な車で、フレームに欠陥があって毎日、毎日返却されるのである。
その返却台数も半端ではなくて、
私が営業に異動した翌月の1月には返却が生産を上回って
『生産台数がマイナス17台』を記録したというウソみたいな話だったのである。
当時の二輪車は125cc以上は贅沢品ということで、『物品税』が掛けられていたのだが、
この物品税は納入するのは簡単なのだが、
返却があって収めた税額を戻してもらう『戻入手続き』は大変だったのである。
戻ってきた車は工場を出た時と同じ状態でないと『戻入』は認められないのである。
例えばもし『メーターが回っていたらダメ』なのである。
そんなことだから、『メーターの巻き戻し』などと言う中古車屋のようなことをメーカーでやったりしていて、
今思うと信じられないようなことをやっていたのである。
そんなこともあって、私の営業での最初の仕事は『物品税対策』だったのである。
★そんな状態だからカワサキの単車事業のスタートは大変で当然大赤字だし、
この事業を続けるかどうかの大々的な調査を日本能率協会に依頼したりしたのだが、
思わぬ幸運もあって単車事業の継続が決まるのである。
★ 鈴鹿サーキットが出来たのが、昭和37年(1962)で、
この年の11月に日本で初めての本格的な二輪ロードレースが開催されたのだが、
このレースをカワサキの製造部の人たちが観戦に行ったのである。
このレースを見て感動し、カワサキもレースを!と
翌年の6月に開催された青野ヶ原モトクロスに、出場するのである。
その結果は1位から6位までを独占する完全優勝で、
事業部全体の意気は一挙に上がり、
その時、この事業存続の可否を調査していた日本能率協会は、
この末端の意気を感じて『この事業続けるべし』という結論を出したのである。
★ これは『青野ヶ原モトクロス』に関係したメンバーの記念写真なのだが、
このメンバーは全て当時の製造部門と営業部のメンバーなのである。
あまり語られていない『青野ヶ原モトクロス』の裏話を。
実はこのレースへの出場は、会社の正式な業務としての出場ではなくて、
製造部と営業部の有志による『プライべート』な出場だったのである。
例えばレーサーを造る時間も、会社の仕事が終わってからだったし、
兵庫メグロから来た松尾勇さんを中心に残業料などは貰わずに作られたものなのである。
このチームのマネジャーを私の下にいた川合寿一さんが担当していたのだが、
上司であった小野助治さんから
『残業代も出ていないし、残業食も出ないのでパンでも買う金を営業の経費から出してやってくれ』と言われて、
私がやったと言えばなにがしかの金を出したぐらいのことなのである。
もう一つ初出場のカワサキがなぜ1位から6位まで独占できたのか?
このレースには他メーカーの有力選手も出場していたのである。
あの山本隆さんもヤマハで出場していたのだが、
当日は雨で水溜りがいっぱいできて、みんな車が止まってしまったのだが、
カワサキだけが『防水対策』が出来ていて、
止まることなく『走り続けた』結果なのである。
さらに言うと、このレースの仕掛け人は兵庫メグロの西海義治さんで、
西海さんは元オートレーサーのプロ選手で、カワサキでレースをやるべく、
● 鈴鹿サーキットの『レース見学のバス』を仕立てたのも、
● 松尾勇さんをカワサキに送り込んだのも、
● 『青野ヶ原のレースを開催』したのも
当時MFJの兵庫支部長だった西海さんなのである。
ここにこんな写真を出したのも、
若し本田宗一郎さんが、鈴鹿サーキットを創らなかったら、
多分カワサキが単車事業の存続の決定はしなかったのでは?
そういう意味で、今この世にカワサキがあるのは
西海義治さんと本田宗一郎さんのお陰だと
私は秘かにそう思っているのである。