★カワサキの単車事業のスタートは大変なことの連続だったのだが、
『青野ヶ原のモトクロスの完全優勝』で
日本能率協会は『この事業続けるべし』という決断を下すのである。
ただ『広告宣伝課を創るべし』という条件が付されていて、
川崎航空機工業で初めての広告宣伝課が創られることになるのである。
それまでのカワサキの広告宣伝は当時のカワサキ自動車販売で担当していて
あのフィリッピンの小野田寛郎中尉の実弟の
小野田滋郎さんが総務課長兼務でおやりになっていたのだが、
その実務が川崎航空機に移ることになったのである。
そして単車営業課で企画・営業実務のすべてを担当していた私が、
新しく出来る広告宣伝課を担当することになるのである。
この時点で、従来の単車営業課のあった発動機事業本部から
新しく単車事業本部が発足し、岩城良三常務が本部長を担当され、
本社や明石事業所の各分野から多くの優秀な事務屋が単車に異動し、
見違えるような立派な組織になるのだが、
広告宣伝課を担当した私は未だ入社5年目で係長にもなっていない平社員だったのだが、
課長は苧野部長が兼務されたが、実質100%任されることになるのである。
2年目からは、全員がカワサキオートバイ販売に出向することになって、
私は『広告宣伝課長』となるのである。
そんなことで私はぺいぺいからいきなり『課長』となったのである。
その広告宣伝費予算は1億2000万円という膨大な額で、
川崎航空機の本社が開発費として3年間支給されることになったのである。
1億2000万円と言えば今でも大きな額だが、
当時の私の年収が40万円の時代だから、それは大変な額だったのである。
1年目は一生懸命使ったが7000万円ぐらいしか使えず
本社の専務に『お前らは金をやってもよう使わん』と怒られるのだが、
なぜ使えなかったかというと、
テレビや新聞広告の所謂『マスコミ』が使えないのである。
それは当時のカワサキの二輪車は全て実用車で、東北や九州などの田舎中心で、
東京・名古屋・大阪などの大都会では全くと言っていいほど売れていなかったので、
大都会がメインのマスコミは使えなかったそんな事情があったのである。
★ 本社の専務に怒られたので、2年目はちょっと無茶苦茶をやったのである。
朝日・毎日・読売という全国紙ではなく、地方紙50紙に全頁広告を打ったりしたのだが、
これは『カワサキはとんでもないことをやる』と広告業界で大きな話題になったのである。
テレビコマーシャルも破れかぶれで
当時売り出しの『藤田まこと』を使って
『かあちゃん わても さんせい きめた カワサキ 』
という短いコマーシャルを流したりしたのだが、
1965年のことだから、ご覧になった方も少ないと思う。
そのほか、レース活動をこの広告宣伝予算を使って
本格的に私自身が直接担当してスタートしたのである。
★特に『レース活動』は広告宣伝費の多くの部分を費やして、結構派手に動いたのである。
『カワサキのレースのスタート』については
こんなブログもアップしているので詳しくお知りになりたい方は是非ご一読を!
1962年に行われた第一回全日本選手権ロードレースを製造部のメンバーが観戦して
大いに感激したという話を披露したが
その250・350の優勝者が三橋実・片山義美(いずれもヤマハ)で
カワサキのレースのスタートはこのお二人と密接に関係があるのである。
三橋実は、前述の小野田滋郎さんがヤマハから引っこ抜いて、
厚木にカワサキコンバットを創ったので、
カワサキのレースは、『青野ヶ原』以前のB7時代にカワサキ自販で行われていたのが、そのスタートと言っていい。
関西では山本隆・歳森康師・金谷秀夫など
片山義美さんの『神戸木の実』のメンバーたちがカワサキと契約を結んだのである。
これは当時のMCFAJの朝霧高原での、全日本モトクロスだが、
山本隆・歳森康師と
カワサキコンバットの三橋実・安良岡健・岡部能夫・梅津次郎と
未だ未契約の星野一義などが並んでいる。
★ みんな『世界の』とか『日本の』と語られる有名選手になっていくのだが、
当時はまだそんなに有名でもなかった選手たちに、
日本のトップクラスの選手とほぼ同額の契約金を弾んだので、
全国のモトクロスライダーたちの注目を集めたのは間違いないのである。
当時はそんなにトップライダーは多くなかったので、
ライダーの殆どをカワサキにしたら『間違いなく勝てる』と
私は本気で思っていたのである。
当時のトップライダーの契約金が100万円ぐらいだったので、
1億2000万円の予算なら、ホントにどうにでもなったのである。
当時のカワサキは何をやってもホンダ・スズキ・ヤマハに太刀打ちできずに
『ドンケツ』に位置していたのだが、
何とか『レースだけ』は『一番になる』といろいろと思い切ったことをやったのである。
前述の『カワサキ・コンバット』に対しても。
この広告宣伝費から毎月20万円の運営費を三橋実に渡していたのだが、
20万円は相当な額だったので、厚木には全国からライダーたちが集まったのである。
その中の一人が星野一義であったり、
後『星野インパル』を運営した金子豊などもその時秋田から来ていたメンバーなのである。
カワサキの中では『レース運営』はこんなメンバーたちで構成されていて、
『レース運営委員会』が基本方針を出すことになっていたが、
その具体的な運営費は、金を持っていた私が担当していたのである。
これは今思うと錚々たるメンバーだし、
当時、やってたレース運営は、その後の予算ではとても出来ないような
豪勢な運営だったのである。
ヘリコプターも持っていて、レース開催地に持っていったりしてたので、
他メーカーの選手たちに乗せてくれと頼まれて、
そんなこともあって、いろんな有名選手と私は親しくなったりしたのである。
このメンバーの中から、後川崎重工業の社長が1人、副社長が2人、常務が1人、出ているのである。
当時はみんな若かったから、レースに関しては『気違いじみた熱心さ』だったのである。
このメンバーは私の単車現役時代本当に密接に関係のあった方々で
大槻さん・田崎さんとは今でも密接なお付き合いがあるのである。
お二人は、当然この『カワサキアーカイブス』でも私と同じように、
カワサキの歴史を語っておられるのである。
★この広告宣伝課時代は3年間、1億2000万円の予算がある間を担当したのだが、
このような膨大な額の予算を持っていたので
電通・博報堂・大広などの広告代理店は神戸支店の管轄ではなくて、
全て本社企画部門の優秀なメンバーたちが担当してくれたので、
お蔭様で私はマーケッテングなるものの本質を3年間勉強することが出来たのである。
多分、川崎重工業の中でもこのような経験をされた方は少ないのだと思う。
そういう意味で、私自身ホントに若い時分にこの広告宣伝課を担当できたことは『よかった』と思っているのである。
この3年間、いろんな意味で私の人生の糧を与えて頂いた方々に感謝である。
それは
● 広告代理店の優秀なメンバーの方々
● カワサキ自販の広告宣伝課長であった陸士出の小野田滋郎さん
小野田さんからは本格的な戦略・戦術・戦闘論を
● その後もカワサキの二輪事業の中心であったレース運営委員会のメンバー
● それに当時の単車本部長であった岩城良三常務
岩城さんについては次回の『その4』で述べることにしたい