雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキコンバットのこと

2022-12-23 06:29:53 | カワサキ単車の昔話


★昨日アップしたモトクロスの写真に映っている
 カワサキのライダーはカワサキコンバット13番が岡部能夫9番は三橋実だと思う。
 ヘルメットの1の字のマークがあるから間違いない。

 左側はそのライデイングから神戸木の実の歳森康師ではないかと思うが、
 よく解らない。







★このブログは2006年9月にスタートさせたのだが、その年の11月3日の記事である。
 文章もそっけないが、当時を思い出しながら補足してみたい


●「カワサキコンバットのこと
2006-11-03 15:34:38 | M/Cレース

1965年前後、神奈川県海老名で三橋実の率いたカワサキコンバットは、有名ライダーを擁しモトクロス界で名を馳せていた。
カワサキファクトリーの契約ライダーとしては、三橋、安良岡、梅津、岡部、星野がいた。
私はその頃、このクラブとの契約やライダー個人との契約を直接担当していたのだが、どのようにしてこのクラブがスタートしたのか詳しいことは解らない。私がレースを担当したのは、63年だが既にコンバットは存在していた。」

カワサキの初レースとされる青野ヶ原モトクロスは1963年5月で、
マシンは125B8なのだが、
その前の125B7でもカワサキ自動車販売でMCFAJのレースに出場していた記録がある。
 そのライダーは三吉一行とかではなかったのか?
 ライダー契約を川崎航空機工業が正規に行ったのは1963年末からで
それは私が担当した部門だったのだが、私は直接の担当でなかったので、詳細は解らない。
 気が付いた時にはカワサキコンバット三橋実・梅津次郎・岡部能夫
 神戸木の実歳森康師・山本隆がすでにいた。


  


  
 この5人のライダーでレースがスタートしたことは間違いない。
 正規にカワサキに広告宣伝課が出来て、
 私がそれを担当したのは1964年1月のことである。


●「昔のことは、なかなか正確には残っていないものだ。
今からの話は、私の記憶と推測も混じるが、多分当たっていると思う。
当時、カワサキ自販の広宣課長に小野田滋郎さんが居た。
あのフィリッピンから生還された小野田中尉の弟さんである。
ヤマハにいた三橋を強引にカワサキに引っ張ったのは、これは間違いなく小野田さんである。川崎航空機が直接レースを担当するまでは、小野田さんが独りでライダー関係をやっておられたと思う。
カワサキコンバットも、多分この頃出来たのだと思う。」


川崎航空機の広告宣伝課カワサキ自販の宣伝課の業務を引き継いだのだが、 小野田滋郎さんには私はいろいろと教えて頂いた。
 当時の写真はないのだが、この写真の左側の方で
 陸士出だったから位はお兄さんよりも上だったのである。

 
  



●「どこの世界にもあることだが、カワサキのレースも、全員賛成でスタートしたわけではない。むしろ、その逆である
カワサキが、運よく青野ヶ原のレースで優勝ほか上位を独占し、数日後記念写真を撮ったとき、勿論苦労した直接の関係者もいたが、ひな壇に並んだ人の大半は反対をしていた人たちだった。」


 
 


 このレースは製造部と営業部の有志の人たちが非公式に出場したもので、
 カワサキが正規に認めたレース出場ではなかったのである。
 「大半は」はちょっと書き過ぎだと思うが、
 少なくとも勤労部長と企画室長は反対だったのである



●「その数ヶ月後、広告宣伝の仕事を小野田さんから引き継ぐことになり、レースも担当の一部になった。レースとの関わりのスタートである。
三橋とは個人契約のほかにカワサキコンバットの運営契約を結んだ。
クラブ員の募集、面倒、練習に拘る費用、宿舎、運搬車両など一切を含んで、月20万円の契約だった。私の年収が50万円に届かぬ時代であったから、相当な額である。」

 この青野ヶ原のレースの完全優勝も大きな契機となって、カワサキは二輪事業を本格的に進めることになり、
 広告宣伝課も出来たし、その予算は1億2000万円もあったのである。


★この青野ヶ原のレースはその前年、1962年11月に鈴鹿サーキットで開催された、日本で初めてのロードレースをカワサキの製造部のメンバーが観に行き、感動して「カワサキもレースを」とスタートしたものだったのだが、
 この250㏄の優勝者が三橋実350ccの優勝者が片山義美で、当時はいずれもヤマハだったのだが、
 その三橋実カワサキコンバットを創り、片山義美の神戸木の実クラブのメンバーが多数カワサキとの契約を結ぶことになったのである。

 鈴鹿サーキットが出来たのが1962年だから、
 若し鈴鹿が出来ていなかったら、カワサキの二輪事業もなかったかも知れないのである。

 その鈴鹿のレース観戦を裏で画策されたのは兵庫メグロの西海義治社長で、
 これは後年兵庫県のモトクロスの時の写真だと思うが、
 本田宗一郎と西海義治さんが若しいなかったらカワサキの二輪事業もなかったのではと思ったりもする。

   
    
 


● 「有望な若手ライダーが全国から集まった。その中に静岡の星野栗山もいたし、秋田の金子豊(星野インパル経営)もその一人であった。
何事も、逆風の中で、ものごとを進めた人を忘れてはならない。
小野田滋郎さんは、カワサキのレースをスタートさせた一人であることは間違いない。
然し、今、小野田さんのことも、カワサキコンバットのことも詳しく正確に知っている人は、カワサキの関係者でも、殆ど居ないだろう。
カワサキコンバッは、三橋、梅津、岡部の契約が切れた時点でなくなり、星野は神戸木の実へ移籍した。私には懐かしいクラブチームであった。」


 これはずっとのち、私がシャッターを押した写真だが、
 後列が金子豊・岡部能夫
 前列が山本隆・星野一義である。

 



もう金子と岡部はこの世にいない。
カワサキコンバットのこと」語れる人も私ぐらいしかいなくなってしまった。
 遠い昔の出来事なのである。




 




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