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大阪の橋下さんが、自衛隊の式典で朝日新聞の悪口を言ったとかで、またニュースである。
これは橋下流だから、ニュースに取り上げた時点で、橋下さんの思惑通りになっているということかも知れない。
普通、知事はこういうことは言わないものである。
自衛隊の式典か何かの席で、普通こういう話題は話さないものである。
それを普通のように喋ってしまうところが、橋下流なのだろう。
それがいいや悪いと言ってみても、多分修正はしないだろう。
私個人は、誰が言っても通用するような『おざなりの祝辞』よりは面白いと思っている。
それはともかく、『朝日新聞はケシカラン』と言う人は意外に多い。
思想が、どうも『左より』だということなのだろう。
あまり読んだこともないが、『右よりの』産経新聞と対峙しているのだろう。
私自身も、朝日、特に朝日の社説などは、あまり意見が合わないことが多い。
その論調も好きではない。
だけど、家で読んでいる新聞はずっと朝日新聞である。
他の新聞で、家で取ったことがあるのは神戸新聞くらいだが、今は止めてしまった。
読売や、毎日、産経など他紙に変えようとも思わないし、最近のように情報がどこからでもいっぱい入手できるのだから、新聞などそんなに読まなくても、大丈夫だと思ったりしている。
仮に、朝日の意見と合わなくても、反対意見を知ることは、非常にプラスである。
それに影響されて、そちらに流されたりはしない。
反対意見は、『考える幅を広くしてくれていい』と思っている。
これは読んで当然のように、みんなが読む新聞がある。
『日経新聞』である。
会社の職位が上がるとみんなが読むのが当然のように読み出すのである。
職場の話題も、そこからと言うよなことになる。
経済の話題でなくて『その連載小説』であったりする。
私は、どうもそんな風潮が嫌いで、現役のころ半ば意地もあって、一切日経は読まなかった。
幾つもの会社の経営など任されたことはあるが、日経など読まなくても何の問題もなかった。
そんなものだと、思っている。
大体、新聞の記事はそんなに正確で正しいとも限らない。
記者の何か思惑みたいなものがあって、その裏付けのために取材をしているのでは、と言う記事も多い。
取材を受けてみるとよくそんな感じを抱いたものである。
だから、朝日の記事は、朝日の主張に従って、その内容もそんな風になるのだと思う。
それに『目くじらを立てる』 と 『朝日はケシカラン』 ということになるのだろう。
毎日、読んでいるとそれに染まることもあるのかと思ったりするが、
何十年読み続けてもそんなことはない。
だから、『朝日を読んだら、ろくな大人にならぬ』という橋下さんの主張もどうかと思う。
ただ、子供の頃からの家庭や学校の教育は、大きな影響をそのひとに与えるものだとは思っている。
小学校、少なくとも中学までの教育の通りに、私は生きてきたと思っている。
小学校は戦前の教育、教育勅語も修身もあった。軍国調だった。
中学校は、戦後民主主義のスタート、『自重、自治』が校訓であった。
中学校までは、学校で確り勉強した。
それ以降は、ずっと野球をしていたように思う。
大阪の橋下さんが、自衛隊の式典で朝日新聞の悪口を言ったとかで、またニュースである。
これは橋下流だから、ニュースに取り上げた時点で、橋下さんの思惑通りになっているということかも知れない。
普通、知事はこういうことは言わないものである。
自衛隊の式典か何かの席で、普通こういう話題は話さないものである。
それを普通のように喋ってしまうところが、橋下流なのだろう。
それがいいや悪いと言ってみても、多分修正はしないだろう。
私個人は、誰が言っても通用するような『おざなりの祝辞』よりは面白いと思っている。
それはともかく、『朝日新聞はケシカラン』と言う人は意外に多い。
思想が、どうも『左より』だということなのだろう。
あまり読んだこともないが、『右よりの』産経新聞と対峙しているのだろう。
私自身も、朝日、特に朝日の社説などは、あまり意見が合わないことが多い。
その論調も好きではない。
だけど、家で読んでいる新聞はずっと朝日新聞である。
他の新聞で、家で取ったことがあるのは神戸新聞くらいだが、今は止めてしまった。
読売や、毎日、産経など他紙に変えようとも思わないし、最近のように情報がどこからでもいっぱい入手できるのだから、新聞などそんなに読まなくても、大丈夫だと思ったりしている。
仮に、朝日の意見と合わなくても、反対意見を知ることは、非常にプラスである。
それに影響されて、そちらに流されたりはしない。
反対意見は、『考える幅を広くしてくれていい』と思っている。
これは読んで当然のように、みんなが読む新聞がある。
『日経新聞』である。
会社の職位が上がるとみんなが読むのが当然のように読み出すのである。
職場の話題も、そこからと言うよなことになる。
経済の話題でなくて『その連載小説』であったりする。
私は、どうもそんな風潮が嫌いで、現役のころ半ば意地もあって、一切日経は読まなかった。
幾つもの会社の経営など任されたことはあるが、日経など読まなくても何の問題もなかった。
そんなものだと、思っている。
大体、新聞の記事はそんなに正確で正しいとも限らない。
記者の何か思惑みたいなものがあって、その裏付けのために取材をしているのでは、と言う記事も多い。
取材を受けてみるとよくそんな感じを抱いたものである。
だから、朝日の記事は、朝日の主張に従って、その内容もそんな風になるのだと思う。
それに『目くじらを立てる』 と 『朝日はケシカラン』 ということになるのだろう。
毎日、読んでいるとそれに染まることもあるのかと思ったりするが、
何十年読み続けてもそんなことはない。
だから、『朝日を読んだら、ろくな大人にならぬ』という橋下さんの主張もどうかと思う。
ただ、子供の頃からの家庭や学校の教育は、大きな影響をそのひとに与えるものだとは思っている。
小学校、少なくとも中学までの教育の通りに、私は生きてきたと思っている。
小学校は戦前の教育、教育勅語も修身もあった。軍国調だった。
中学校は、戦後民主主義のスタート、『自重、自治』が校訓であった。
中学校までは、学校で確り勉強した。
それ以降は、ずっと野球をしていたように思う。