雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

 二輪車新聞社 衛藤誠さんのこと

2020-02-16 04:50:51 | カワサキワールド

★ 衛藤 誠さん、 二輪車新聞の記者さんである。
 1959年(昭和34年)二輪車新聞創刊と同時に入社され、61年間勤務されていたのだが、
この2月末を以って退社されるというご挨拶を二輪車新聞の代表取締役木村様から頂いた。

カワサキが二輪事業をスタートさせたのが1960年(昭和35年)だし、
私が単車営業部に配属されたのが1961年なのだが、
その時には衛藤さんはカワサキの担当として既に出入りされていたのである。

2007年に『衛藤誠さんのこと』というこんなブログをアップしているが、
 

衛藤さんとは以来60年間のお付き合いで、
今回の退社に関しても、つい先日ご本人からお電話を頂いていたのである。


★ そういう意味では、私の『カワサキ単車』のお付き合いでは、
販売店の方々なども含めて、現在に至るまでいろんなお付き合いがあるのだが、
何と言っても『最長』は衛藤誠さんなのである。

単なる記者さんとのおつき合いだけではなく、
カワサキの単車事業そのものに対しても、いろんな意味でご尽力を頂いたと言っていい。
特に私はお互いに『スタート』からのお付き合いだったこともあって、いろんな意味で、具体的に援けて頂いたのである。


これはごく最近『二輪車新聞のネット版』に、
衛藤さんが『カワサキの販売網創り』を紹介されているのだが、
カワサキの最初の特約店制度実施は大阪からだったのだが、その趣旨説明を二輪車新聞のトップ記事で大々的に報じて頂いたことが、その成功に繋がったと言っても過言ではない。

       
 


その時のことを書いておられるのである。

  



★私だけでなく、カワサキの単車事業60年の間、衛藤さんはずっと大阪支社でカワサキを担当されたのだが、関西では二輪メーカはカワサキ1社であったこともあって、
歴代のカワサキの方たちと繋がっていて、まさに『カワサキの生き字引』と言ってもいい方だった。

 こんな記事も書かれていて、ちょっとその記事を抜粋してご紹介すると、
 

 
現在の「カワサキ」が、本格的な一貫生産を開始したのは、1960年(昭和35年)からだと思う。
当時は川崎航空機工業の発動機事業部。これより2年前の58年に「単車生産準備室が、設置された。弊紙創刊の1年前である。・・・・
そこでまず「単車生産準備室」を設置し、組み付け部品や資材の調達対策、人材の確保、二輪車生産ラインの建設など準備を進め、約2年後の1960年、遂に単車一貫生産のスタートをみたのである。
これを支えた人材は、生産技術関係は主にジェットエンジン事業部から、その他発動機事業の営業部や勤労部からなど、言うならば“寄せ集め”人事であった。・・・・

一貫生産を開始したが、なかなか軌道に乗らなかった。・・・・・・・
ところが、63年に奇跡が起こった。それは、兵庫県下・青野ヶ原でMFJ第1回モトクロス大会が開かれ、欠陥車B7の次に開発した“B8”がなんと1〜6位を独占したのだ。
この快挙に発動機事業部の志気が一気に高揚し、これを見て経営診断をしていた日本能率協会は、「単車事業部を続けるべし」の答えを出し、単車事業の再建が図られることになったという。・・・・・・
後に、川崎重工業副社長となった高橋鐵郎氏は「あのとき、青野ヶ原のモトクロス大会に出場していなければ、現在のカワサキはなかった。さらに言うなら、ホンダさんが鈴鹿サーキットを建設していなければ、現在のカワサキはなかった。つまり、現在のカワサキは鈴鹿サーキットのおかげとも言える」とおっしゃっていた。・・・・
そうして65年には、単車事業本部に格上げとなり、本部長には本社の常務取締役の役職にある岩城良三氏が就任した。この岩城本部長により米国現地生産の“リンカーン工場”建設が進められた。

   

さて、これまでのカワサキの生い立ちをあれこれと綴ってきたが、ここで書きたかった本題は、カワサキが本格的に一貫生産をスタートさせてから約10年間の激動の時代を支えた“カワサキマン”たちの話である。

この時代を生きた人たちは、現在もなお強い絆で結ばれ、ほぼ毎月、神戸・灘の酒蔵(料亭)「酒心館」に集まっている。
この会は既に10数年以上続いているが、主宰者は桑畑禎文氏で、・・・・事務局の世話係を務めているのが野田活志氏で、・・・・・特別な議題があるわけでなく、“来たい人がふらっと来て”美味しい酒を飲み、昔話に花を咲かせるといった会である。
メンバーには2年前逝去された高橋鐵郎氏もいたが、今なお元気な田崎雅元氏(元川重社長)・大前太氏・川崎芳夫氏・古谷錬太郎氏・野田浩志氏・井川清次氏・北村敏氏他。・・・・・
変わったところでは、元伊藤忠商事社員で、カワサキフランス(KMF)社長などを歴任し、ルマン24時間耐久レースへのエントリーにも貢献した遠藤治一氏も。・・・・
なお、16年にメンバーの高橋鐵郎氏死去にあたっては、「酒心館」でメンバーによる「偲ぶ会」も開かれた。

   

などと書かれていて、60年間のカワサキのことよくご存じなのである。


★ 今でこそ順調に育っているのだが、
大分県直入町に日本で初めての『一般ユーザーが走れるサーキットSPA 直入
の開拓は1987年当時私と岩崎茂樹との二人でスタートしたのだが、
その現地調査を含め、いろんな意味で手伝って頂いたのが衛藤誠さんなのである。

衛藤さんは大分県のご出身で、その故郷の地にカワサキのサーキットが出来ることに賛同して頂いて、その情報発信で大いに援けて頂いたし、勿論『オープンセレモニー』にもわざわざ足を運んで頂いたのである。

大阪の『特約店制』のスタートの時もそうだったが、
世の中で初めてのこと』の場合は、第3者が客観的な立場で記事を書いて頂くことが、非常に機能するのは間違いないのである。

そんな長い衛藤誠さんとカワサキのお付き合いだったのだが、そんな衛藤さんともこの2月でお別れなのである。

 衛藤さん、60年間、本当に有難うございました。

 
 

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孫・古谷仁 がやって来る

2020-02-14 06:13:47 | 発想$感想
★突然、孫・古谷仁からFacebook にメッセージが届いた。

・・・急なんだけど、土曜日→日曜あそびいっていいですか?
 普通に考え事したく、単純に居場所を変えたくて。・・・

 上の行は兎も角、2行目はもう一つよく解らない。

私には4人の孫がいるが下二人はサッカー選手なので極めて解りやすいのだが、
娘の方の長男も息子の方の古谷仁も
よく言えば現代風でよく解らないところが多いのである。

二人とも慶応大学の湘南キャンパスの卒業なのだが、
二人ともわざわざ1年留年して『自分のやりたいこと』をやって卒業するところなどは『私にそっくり』なのだが、
その関心がネットであったり、ダンスであったりするので、
ついて行けないところがある。



★ただ、子どもの頃から古谷仁は、
私を『気に入っている』ところがあって、
突然三木にやって来ることもしょっちゅうなのである。
 
こんなツイッターもやってるのでよく見るのだが、
書いていることが『理解できない』ことの方が多いので、
今回その意味を聞いてみようと思ったりしている。


これがツイッターの自己紹介で、
小倉ヒラクとか、高木新平は有名人らしいのだが、
そのホームページなどを見ても、
先進的過ぎて』よく理解できないのである。


    

 


こちらも自分の紹介文なのである。

  



★こんなツイートの連続なのだが、

  




 たまには『私や息子のこと』にも触れてるし、

 




 私のツイートを『リツイート』してくれることもあるので、
 『単なるおじん』とバカにしたりはしていないと思っている。







★ 大学を卒業して2年間ほど、自分の好きなようにしていたが、
 4月からは『リクルート』だったかに就職するとか言ってたし、
 今回来たら、『どんな考え事』がしたかったのか?

 その辺のことも聞いてみたいと思っている。

 このブログも、多分読むと思うので、
 今回やってくる 孫・古谷仁 への質問状 みたいなものである。


明日10時ごろに伊丹にやってきて日曜日の朝7時の便で帰るという予定だから、
結構忙しいスケジュールなのである。
いつものことだが、伊丹空港への送迎は私の仕事なのである。

 この週末は、どんな1日になるのだろう。


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野村克也監督   雑感

2020-02-13 08:16:27 | 発想$感想

★ 野村監督が亡くなった。

野村克也さんは私より二つ下なので、若い頃は『同年代の野球選手』というイメージが強かったのだが、
晩年はその風貌などからどうしても私より年上に見えてしまうし、

現役時代は若々しい名選手であったのになぜか監督になってからのイメージが強すぎて、現役時代の野村克也のイメージが世の中では少ないのである。

私が野村を意識したのは長嶋茂雄と同期の杉浦とバッテリーを組んでいたし、


  


当時は関西の人気球団だった南海ホークスで皆川ともバッテリーを組んだこの3人は、私の記憶に鮮明に残っている。
当時の杉浦や皆川はプロ野球界を代表するピッチャーだったし、
長嶋の人気が飛び抜けてはいたが、同期の杉浦も人気の名投手だったのである。


野村が南海に入ったころのこともよく解っていて、
私の『野村観』は、阪神に同じくテスト生で入った小山正明とどうしても重なってしまうのである。
小山正明は兵庫県の高砂高校で1年下で、明石高と同じ東播地区だったので試合もしたが、当時は明石は高砂高など問題にはしなかったのだが、人はどんどん進歩するものである。
大学時代のリーグ戦は甲子園球場だったのだが、そこで練習していたテスト生時代の小山もよく知ってるし、その頃野村は小山と同じ『テスト生』で南海ホークスに入ってきたのである。

    

 
 そんなこともあって、小山と同じテスト生の『野村克也』には、何となく関心を持っていたのだと思う。私の記憶が正しければ、野村克也の方が小山正明より先に球界にデヴューしたような気もする。    

Wikipediaで調べてみたら

1957年に山内和弘(毎日)、中西太(西鉄)ら並み居るスラッガーを抑え本塁打王のタイトルを獲得。以降毎年のようにタイトルを獲得し、杉浦忠、広瀬叔功、皆川睦雄らと共に南海の黄金時代に大きく貢献した。

とあるし

南海は1959年、1961年、1964年、1965年、1966年にリーグ優勝、そのうち1959年と1964年は日本一になっている。 1962年、別当薫の持っていたパ・リーグ記録のシーズン43本塁打を抜く44本を記録。1963年には小鶴誠のプロ野球記録シーズン51本塁打を破る52本を残した。
さらに同年は盗塁阻止率でもキャリアハイの.524を記録するなど、パ・リーグを代表する強肩強打の捕手として名を馳せた。 
その後、8年連続本塁打王、1965年には戦後初の三冠王に輝く。
しかし、当時の日本のプロ野球を取り巻く世情は人気面・知名度いずれも巨人を中心としたセ・リーグ偏重傾向が現在より圧倒的に高かったため、同時期にセ・リーグで活躍していた巨人の長嶋茂雄や王貞治に比べて世間からの注目は少なく、今に伝えられる野村の打者としての評価も目立たないものである。

とあるので、私の野村に対する印象は当たっているように思う。
当時は別当薫小鶴誠の人気も高かったし、長嶋や王が入団してプロ野球人気はある意味すさまじかった時代なのである。

そんな時代に『テスト生』から入ってきた野村の活躍は、何故か私はよく覚えていて、
野村監督時代の野村克也よりは選手時代の野村の方が好きだし、強烈な印象ももっていて、テレビによく出だした晩年の野村克也は何となくスポーツ選手よりは『芸能人のような有名人』のような印象しか持っていなかったのである。


★ それにしても『人の寿命』は解らぬものである。

 こんな写真が出たのは、昨年の夏のことなのだが、





 
元気に野球をしている『野村監督』が半年後にこの世を去るなど、
ホントに信じられないのである。

考えてみれば私も86歳だし、健康には注意しないといけないなと思う。

野球の同期で元気な有名人と言えば阪神の吉田義男さんなのだが、
豊岡市の1950年の記念行事に明石・米子東・山城高のその年の夏、甲子園に出た3校が招待されて試合をしたことがあったのだが、その時の山城高のショートが吉田義男さんだった。
当時から小さかったが3番を打っていて、よく打たれたのを覚えている。

      



野村克也さんもそうだが、小山正明さんにしても、吉田義男さんにしても、
若い頃のことがいつまで経っても『昨日のように』想い出されるのである。

野村克也さんも監督時代よりは 『溌剌としていた野村克也』の印象が強いのだが、そんな野村さんももういない。

 安らかにお眠りください。


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1万歩 スロージョッギングしてきました

2020-02-12 06:42:28 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ 毎日、運動はしているのですが、
なかなか「1万歩」は記録できないので、
昨日は『1万歩になるまで続ける』という目標を立てて、
三木総合防災公園スロージョッギングしてきました。

 お蔭様でめでたく目標達成しました。


 


 


 スロージョッギングしながら、
 1万歩を目指したら、 『10353歩』 となりました。
 
 ● 歩いた距離     7.64 km
 ● 消費カロリー    1,306 kcal
 ● アクテイブな時間   85分

 と約1時間半ほど掛ったということなのです。



★ 三木総合防災公園は、ゴルフ場が3つぐらい入るほどの広さですから、
 1万歩は公園の3分の1ほどの場所を歩けば達成は出来るのです。
 右下にゴルフ場があるので、比べてみて下さい。

よく『甲子園球場が幾つ』という広さの表現がありますが、
野球場など幾つ入るのか解らないほどの広さなのです。


   

 

昨日は公園の右一帯の周回路を回って、
久しぶりに『六地蔵・どっこいさん』まで行ってきました。

そこからはこんな風景です。

  



どっこいさん』とは、こんな歴史のある石のことで、
こんな詳しい説明板ガ建てられています。

 


そのすぐ右の 公園の一番端には 有名な 『遺跡・志染の石室』もあります。
 
谷を挟んで、向う側には
屋内テニスコートの『ビーンズ・ドーム』があります。
 


この中には、立派なテニスコートが10面ほどあるのですが、
その規模と質は『世界一』と言っていい立派なもので、
テニスの国際大会などが開催されます。

こんな施設がなぜ『防災公園』の中にあるのかというと、
災害が起こった場合の『支援物』などの貯蔵場として作られているもので、
阪神大震災の時に『支援物資の置き場』に困ったことから、
こんな大きな建物を用意しているのだそうです。
東日本大震災の時には実際に西の方から集まった支援物資がここに集積されていました。


★ 兎に角広いので『1万歩』を歩くには、絶好の場所なのです。
 3月1日には、この公園の中で『みっきいマラソン』が開催されたりするのですが、
 一般道路ではないので、信号もありませんし、白バイの先導などはありません。


    
 


 このようなジョッギング用の周回路もありますので、非常に快適に走れます。
 休日にはジョッギングをする人たちがいっぱいですが、
 そんな中を、ひと際ゆっくりと『スロージョッギング』を1万歩楽しんできました。
 1時間半あれば『1万歩達成できる』ことが解ったのが収穫でした。
 

 
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アメリカのインフルエンザ

2020-02-11 07:06:56 | 発想$感想

★中国での新型コロナウイルスの話題で持ちきりだが、
アメリカではインフルエンザの患者が21万人、死者12000人というビックリするようなニュースが流れた。





米国ではインフルエンザが流行している。
2019~20年のシーズンで患者数は2200万人に上ったとし、さらに拡大する恐れが指摘されている。
インフルエンザのために21万人が入院し、死者数は1万2千人に達したとしている。
米国ではインフルエンザが原因で毎年少なくとも1万2千人以上が死亡
とりわけ感染が深刻だった17~18年のシーズンには患者数は4500万人に上り、6万1千人が死亡した。
インフルエンザ感染は例年10月ごろに始まり、5月ごろまで続く。
19~20年は過去10年で最悪規模になる可能性があると予測している。


これはちょっとビックリである。
アメリカは広いからどのあたりのことかと調べてみたら、
こんな感じで、アメリカ全体の話だと言っていい。



  




娘一家がカリフォルニアのIrvineにいるのだが、
そんな話、今まで聞いたことがなかったので、何とも思っていなかったが、
こんな話を聞くとちょっと心配である。

私たち三木市の場合は高齢者の『インフルエンザ予防注射は無料』なので、
毎年予防しているので、一応は安心なのだが、
改めて、『日本はどうなのか?』 調べてみたら、このように記述されていた。


例年のインフルエンザの感染者数は、国内で推定約1000万人いると言われています。国内の2000年以降の死亡者数は、『214~1818人(2001~2005)』です。
また、直接的及び間接的にインフルエンザの流行によって生じた死亡を推計する超過死亡概念というものがあり、
この推計によりインフルエンザによる年間死亡者数は、
世界で約25~50万人、日本で約1万人と推計されています。




★ 今まであまり関心がなかったが、改めてその数を聞いてみると
『インフルエンザの怖さ』を改めて認識した。

それにしても先進国アメリカでの死者が多いのには、改めてびっくりした。
日本に比べて、アメリカの医療費はべらぼうに高いから、
インフルエンザの予防注射など受けられないのかな』と思ったら,
そうでもないのである。 これにもちょっとビックリした。


日本人なら、病院で受けますが、驚いたことに、アメリカではドラックストアやスーパー、あのコストコなどで予防接種を受けることができます
加入している保険があればカバーされていて無料で受けられることも。
保険がなくても、費用は約15〜55ドルくらいだそうです。
日本に比べると安いと思いませんか?
ちなみに、以下のお店で予防接種が受けられます。
・Walgreens・Target・CVS・Safeway ・Rite Aid・Walmart・Costco


因みに日本の場合は、
  • 大人:3,500円/1回
  • 小児(13歳未満):6,000円/2回、3,500円/1回
とあったが、三木市の高齢者は無料だからよかったなと思っている。


 それにしても、『ネットの検索は、なんでも解る』ようになっているものである。


 




 
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電話   雑感

2020-02-10 06:20:45 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ Yahoo の意識調査に『電話に関して』 こんな調査結果が出ていた。


   




  様子を見る43%、すぐに出るは35%で、
  絶対に出ないという人が20%もいるのである。

 『絶対に出ない』という人は、多分自分から掛ける時だけに使うのかも知れない。
 それは何となく、解らぬでもない。
 

 
★確かに『掛かってくる電話』は、
全然関係ないところからのものも多いので、
自分の行動をデイスターブされるという気持ちが、こんな結果になっているのだろうと思うが、『電話恐怖症』というような極端な心理がもう一つよく解らない。

最近は電話でいろんなところから、売り込みなども掛かってくるので、対応が面倒なことは面倒である。


固定電話恐怖症』と検索したら、こんな記事などいっぱい並んだのである。


       
 


 さらに固定電話の保有状況は、『全体では65% 20代世帯は 7.6%
となっていて、この傾向が続くと、固定電話がある家庭はどんどん減ってしまうのだろうか?



  

 
★ いまは、スマホなど携帯電話を持っているし、ネットなどでもいろんなシステムがあって、幾らでも連絡はとれるから『固定電話』の必要性がどんどん薄れるのが現実かも知れない。 


私自身はいま、こんな状況なのである。

● 固定電話はあるが、当方から掛けることは毎日はない。
● 先方からは掛かってくるが、常に『留守電』にしていて、閑な時以外はとらない。
   
 
  いつも受話器はこんな状況になっている。

● 暇なときは取るのだが、『内容のある電話』は殆どないのが現実だが、暇つぶしに付き合ったりはすることもある
● スマホは持っているが、電話以外の機能を使っていて、自分で掛けることはあるが、電話番号を息子や孫以外には公開していないので掛かってはこない。
● 外との連絡で、一番利用するのはFacebook のメッセージ機能である。
● 海外の娘のところとは専らネットで無料の会話を楽しんでいる。
    

★かっては電話があるのが、裕福な家庭の象徴だったような時期もあったし、
電報』という機能もあったのだが、今は『慶弔』にしか使われない。

『電話番号簿』なども配られたりしていたのだが、今は個人情報とかで公開されなくなってしまった。

世の中はどんどん変わるものである。

 
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ヴィッセル神戸 富士ゼロックス杯を制す

2020-02-09 08:33:20 | スポーツ

★ヴィッセル神戸が天皇杯優勝に続き、
Jリーグチャンピオン横浜との対戦を、
3-3の後のPK戦で制して、今年二つ目のタイトルを手にした。

 

 
3度リードしたヴィッセル神戸だったが、
3度追いつかれて3-3の同点で迎えたPK戦は壮絶極まるものだった。


こんなPK戦は観たことがない。
プロの代表歴のあるような一流選手が『枠外のミスキック』を連発し、
キーパーの好セーブもあって、何と9人連続で『失敗』が続いたのである。




 最後に、山口蛍が決めて神戸に優勝を齎した

 


★ 横浜も好きなチームの一つではあるのだが、
 昨日はヴィッセル神戸を応援していた。

 ヴィッセル神戸のスポンサーを Kawasaki がしているし

 


 社長の三木谷浩史さんは、面識などはないが、
 『明石高校の後輩』なのである。


   


スペインのスーパースターイニエスタなどを擁して、
オモシロいサッカー見せていたのだが、
もう一つ実績が伴わなかったが、

この新春に天皇杯を制して日本一となって、
昨日はJリーグチャンピオンの横浜との対戦だったのである。
3度先制したのでそのまま勝利するのかと思いながら観ていたが、
3度追いつかれてのPK戦だったのである。

結果的にタイトルが取れてよかった。

つい先日、今年も主将を務めるイニエスタが『全タイトルを取る』との『5冠宣言』の記事が出ていたが、

  


 是非、オモシロいサッカーを見せるだけではなくて、
 『いい結果』を期待したいし、
 『アジアチャンピオン』を目指して欲しい。

 幸先いい勝利だった。



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2020年は カワサキ単車事業60周年   5

2020-02-08 07:04:36 | カワサキワールド
★カワサキの60年にもなる単車事業の歴史の中で、
第一線の販売会社が明石の事業本部をリードしていた時代が何回かあった。

カワサキの単車事業がスタートした時代は国内市場しかなかったのだが、
当時の販社が『カワサキ自動車販売』で、
そのトップは川崎航空機の専務が兼任されていて、
販売・生産会議などでも、常に販社が明石工場をリードしていたのである。

その後、アメリカ市場を浜脇洋二さんが引っ張った時代も、
明石工場の事業本部をリードしたのはKMCだったような気もする。


私自身は40年の現役生活で、企画の分野なども担当したのだが、
その中の半分以上の期間は国内市場担当で、
国内販社に3度出向したのだが
その3度目が1988年から1997年までの10年間で、その集大成のような10年間だったのである。


★当時の事業本部長は髙橋鐵郎さんでカワ販の社長も兼務されていて、
1988年の10月に私に『カワ販を担当するように』指示されて、
同時に『7万台の販売』という途方もない目標台を与えられたのである。

こんな大きな目標台数達成は、
普通に一生懸命、販売に努力してみてもダメだと思ったので、
従来の仕組みを根本的に変えた
遊んでいても自然に売れる新しい仕組みの創造』を目標に、
私流に展開しようと思って、いろいろやっていたのだが、
運も手伝って』こんなムツカシイ目標が達成できたのである。


   



★この10年間の時期も間違いなく販社が事業部をリードしていたと言えるのではなかろうか?

ちょうど川崎重工業が大庭浩社長の時代で、
大庭さんの単車本部長時代の番頭役を務めていたので、
何を提案しても、殆ど問題なく通ったそんな時代だったのである。

そんなことで結構自由にいろんな新しいことが出来て、
国内で初めての『一般ユーザーが走れるサーキット・SPA 直入』や
  
  


川重で初めての『遊びのソフト会社=ケイ・スポーツ・システム』の設立、
更には、『ユーザークラブ・KAZE』など

普通には説明のムツカシイ『ソフト分野の基本施策』や『新しいカワサキイメージの創造』に関するものばかりが中心だったのだが
要は『バイクの遊びをネタに展開していた』のである。


遊んでいても自然に売れる仕組みを創る
この発想は、若い頃からレースや広告宣伝の世界で育ったから、自然にそうなったのだと思うが、
マーケッテングこそ我が命』と思っていたのである。



★『7万台への挑戦・新しいカワサキのイメージ戦略』と題して、
事業本部の課長さん以上の方に、
スピーチしたものがこんな冊子に纏められているのだが、

    



これは髙橋本部長から、
事業本部の課長以上に『国内マーケッテングの考え方を話すように
との指示があったのだが、
私一人で喋るのももう一つだと思ったので、

●ケイ・スポーツ・システムの南常務
●当時のカワサキレーシングチームの重本部長
●広告宣伝課の小林課長
の3人にも加わって貰って『ぶっつけ本番』で喋って貰ったのである。

この時代、その活動の中心であったのが、
ケイ・スポーツ・システム』という遊びのソフト会社であったし、
具体的な展開としては『レース活動』と『広告宣伝』であったから、
自由に喋って貰っても大丈夫だという自信があったのである。


この冊子の具体的な説明を関係会社社長会で、川重全役員にも説明するよう、
大庭社長から要請があったりしたのだが、
この講演会の話はなかなか評判が良くて、当時の事業本部の販売促進課がその骨子をこのように紹介してくれているのである。
この担当部長は私といろんな仕事を一緒にやった『岩崎茂樹』くんなのだが、
彼は二輪業界にも顔が広かったからご存じの方も多いはずである。




 

日本国内市場を担当するカワサキオートバイ販売が、ここ数年の間、取り組み且つ相当の成果を上げ得た一連のマーケッテング活動をご紹介致します。
これはさる1月29日、明石に於けるCP事業本部内関係者約250名を集め、講演会の形で披露されたものを、要約することなくそのまま文章にしたものであります。
皆様方にお汲み取り頂きたいのは、そのユニークな手法ではなく、なぜそうしたのか? 何を狙っているのか? といった、
一貫して中を貫いている ”哲学”=基本的な考え方であります。・・・・

などと紹介されていて、
英文にも翻訳されて世界の販売会社に配布されたりしたのである。

これを発表した時期は、1991年1月だから、
国内担当以来3年の年月が既に経っているのだが、非常にムツカシイ目標であった『国内7万台の達成』がほぼ実現できる目途が立った時期だったのである。
 

★この最後の10年間は、
 7万台の目標達成もあったが、
● 国内ジェットスキー販売も軌道に乗り、JJSBAなどのレース組織も完成したし、
● 念願の鈴鹿8時間耐久レースの優勝
● KAZEユーザー5万人の達成、
● 二輪自動車専門学校の設立などのほか、

いろんな意味での『ソフトウエアの確立』が出来た時代で、
ホンダの親しい友人に『ホンダはカワサキに10年遅れた』と言って頂いたし、

これはあまりご存知の方はおられないが、
KAZEのノウハウをホンダさんと協働して、業界でも展開しようと、
ケイ・スポーツ・システムと一緒に、ホンダの青山を何度も訪問しているのである。

私自身は、大して大きくもない二輪事業界の中でシェア競争などするのではなく、
業界が協調』して『業界自体のパイを大きくする』ことがお互いのためだと思っていたし、今でもそう思っているのである。

 

★この時期の10年間はカワサキにとっては、
一言で言って『非常にいい時代』だったのだが、
当時の本部長でもあり、カワ販の社長を兼務された髙橋鐵郎さんをはじめ、
私の周囲にいた『いろんな人たち』がいろいろと援けてくれた成果なのである。

それは単に、
カワサキの従業員だけではなく、
カワサキの販売店も、
レースライダーも、
カワサキファンも、
他メーカーの人たちも、
みんな好意的にいろいろと動いて頂いた結果だし、
  
"Kawasaki Let the Good Times roll!"

 Kawasaki に出会う人たちがみんなハッピーになるような活動がホントに展開出来た時代だったと思っている。

遊んでいても自然に売れる仕組みの創造』は私が担当をしたのだが、
その中で動いてくれたのは、みんな『仲間たち』だったのである。


★私がこの国内専務の辞令を頂いたのが、1988年10月1付なのだが
一番最初にやったのがこのレースOB会で、10月15日に芦屋の竹園旅館に一泊どまりで豪勢に展開したのである。

7万台を売るためには『新しいカワサキのイメージ創造』が必須条件で、
その『一番のベースになるのがレース』だと思ったからである。
 
こんなメンバーたちに集まって貰っての『私の決意表明』だったのである。




 この2月1日に、神戸ポートピアホテルで、
 『片山義美を偲ぶ』 が開催され170名もの人たちが集まったのだが、
 上記の写真の中で、『片山義美さん』と一番親密に繋がっていたのは、
 前列の真ん中に座っておられる 
兵庫メグロの西海義治社長とカワサキの山田熙明(川重副社長)さんなのである。


 『片山義美を偲ぶ』には上記の写真の中から
 大槻・清原・山本・和田・古谷・星野・多田・杉本 と8人が出席しているし、
 
当日はこんなメンバーが集まっていてカワサキに関係のあったメンバーが結構多かったのである。
私自身は、レース業界の旧い方たちとは殆ど面識があって、この会でもホントに懐かしいいい時間が過ごせたのである。

 
 



★カワサキの独特のイメージは勿論強烈な個性のあるハードの商品からの部分が大きいのは勿論だが、

このようなライダーたちが果たした役割は大きいし、
カワサキに乗る末端のユーザーたちの動きも大きのだと思っている。
かって1990年代には各メーカーのユーザークラブの活動も活発だったのだが、
30年経って残っているのはKAZE だけなのである。

なぜ? 
それはスタート時に仕組んだ 『JCBと組んだKAZEの会員カード』の仕組み にあると今でも私はそう思っている。

当時、『会員カードをJCB と組む』と言ったら、周囲の人はみんな『なぜ?』と言ったのだが、年会費が3000円要るのだが、1年経つと継続しない限り会員資格は
切れてしまうのである。 
それをもう一度勧誘して継続するのは手間が掛かってなかなかムツカシイのだが、
JCB のカードにしておくと、むしろ『止めるのがムツカシイはず』という『私独特仮説』がその『仕組みのベース』になっていて、その通りになった結果だとということなのだろう。
この仕組みなども『ケイ・スポーツ・システム』というソフト会社があったから、より専門的に中味の濃い活動が出来たのである。


★流通業とは自らの仮説の正当性を問うビジネス』と言われている
仮説に基づいて『いい仕組み』さえ創れば、その中での展開は、そんなにムツカシクなくないのだが、その仕組みが上手く創れる人が少なくなった。
私自身は現役時代40年間 『仕組み創り』ばかりをやってきた。

二輪業界で素晴らしい仕組みの数々を創られたのは『本田宗一郎さん』だと思うし、その恩恵を二輪業界の後輩たちが受けている。
二輪独特の販売網も、委託販売も、SFも、レースも、鈴鹿サーキットも・・・


★ カワサキの単車事業の60周年と言うことで、60年を振り返ってきたが、
今回はこれで終わることにする。
最後の10年間は、具体的にオモシロい話もいっぱいなので、また機会があれば纏めることにしたい。

  

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明石高校  野球部のことなど

2020-02-07 06:03:41 | 発想$感想

★ 昨日は朝9時からの免許書き換えに明石の運転試験場まで行ってきた。
昨年10月に高齢者講習を既に受けているので、免許書き換えの手続きはスムースに行われて、早く済んだので久しぶりにすぐ近くの母校明石高校を訪ねてみた。

 
 私が卒業したのは昭和27年(1952)だから、70年近くも前のことである。
昔の校舎は建て替えられているので、今ある校舎は新しく建てられたものである。

 正面玄関だが、まだ9時半である。
 


 こんな校訓だったのか、確りとは覚えていないのだが、
石はそんなに旧くはないように思えた。





 明石高校での思い出と言えば『野球部』である。

当時はまだ、『名門明石』と言われていて、
高校時代の3年間は、勉強は殆どせずに野球に熱中していた。




グランドのすぐ近くまで行ってきたが、
昔と違ってグランドそのものはホントに綺麗に整備されている。

己を信じろ 仲間を信じろ』 とバックネットに書かれていたが、
こんな標語を見るのも、初めてのことである。
 




こんな優勝カップなどが沢山並んでいて。
旧い伝統のある』 その歴史が感じられた。

 

 

こんな夏の全国大会の優勝楯が飾られていたので、
昭和25年(1950)年の私たちの時のものかなものかな
と思って写真を撮ってきたのだが、

第42回大会というのは調べてみたら
昭和35年の私たちより10年後の後輩たちの時のものだった。

この時は既に会社勤めだったが、会社を休んで応援に行ったのをよく覚えている。
多分、これが明石高が甲子園に出場した最後になってるのだと思う。

 


私たちの高校時代は、後援会の組織も確りあったのか、お金があったのか、
夏の大会前の練習は学校のグランドではなく、
明石球場』を借り切って行っていたのである。

明石球場まで学校から30分も掛ったと思うが、毎日歩いて球場まで通っていた。
夏の予選は、今の甲子園球場だったから、
球場に関しては恵まれていたというべきか、
逆に言うと学校のグランドは石ころもいっぱいで
今のように』綺麗に整備はされていなかったのである。

今のグランドは、こんなに綺麗になっているから、
そのレベルは相当なものである。





★ 私と同期の野球部のメンバーたちも、残っているのは数人で、
ピッチャーをしていた溝畑圭一郎は、10年程前の78歳の頃は、
まだ野球をやっていて『78歳の4割打者』と新聞で大きく取り上げられたのである。


   

 
その時のブログにこんな風に書いている。


はしょって、ご紹介すると

昨日突然、『溝』から電話があった。
久しぶり、昔の仲間、球友『溝畑圭一郎くん』からである。 
日経新聞の電子版に、溝畑圭一郎の特集記事が出ているので、
それを広報しろ』と言うことなのである。

 纏めて『78歳「イチロー」白球に懸ける想い』と名付けられている。
 勿論チーム最年長だが4割を超える打率で、昔からよく打っていた。
 
確かに、今の78歳の『溝』もスゴイのだが、高校時代や神戸製鋼のエース時代のパリパリの『溝』も、スゴかったのである。
明石高の2年の夏は兵庫県で優勝して、夏の甲子園も経験しているが、
その予選では高校生では珍しい完全試合を達成している。 
灘高を5-0で下してのパーフェクトゲームなのである。

高校を卒業してからも、明石のOB連中が内外ゴムなどのチームに雇われて、
準硬球の野球で兵庫県で優勝などしているが、この時も溝がピッチャーをやってくれたからである。
神戸製鋼のエースとして10年ほど君臨したが、その時期ほとんど夏の後楽園の都市対抗の舞台を踏んでいる。 
どこのチームが優勝しても、補強選手として選ばれて参加していたのである。


★『野球はピッチャー』さえよかったら何とかなる。
私たちの時代も『溝がいたから』強かったと言えるのだろう。

いま兵庫県では明石商業が強い。今年の選抜にも選ばれている。

実は、われわれが現役の頃は、明石高校に商業科があったのだが、
その商業科が独立して『明石商業』となったのである。

最近は『』にも会っていないが、
多分私以上に元気にしているに違いないのである。


 

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マスク  雑感

2020-02-06 06:21:34 | 発想$感想

★新型コロナウイルス話で持ちきりだが、
 日本でも『マスクが売り切れ』で買えないようである。

 『マスクをしないと街を歩けない』中国は兎も角、
 日本で『マスクをする』 必要があるのだろうか?

 私事で恐縮だが、私は生まれて以来86年になるが
 『マスクをした記憶がない』 多分一度もマスクをつけたことがないし、
 今も付けていないし、多分これからも、付けないだろうと思う。

 なぜ? と言われても困るが、見るだけでも息苦しいし、
 兎に角『つけたくない』のである。


★ そんなことで『マスクの効用は?』 と検索してみたら、
  こんなページが現われて、疑問視する意見もあるようだし、
  『手洗い』のような『説得力』がない。




 むしろ、『逆効果』というのもあった。





ずっと以前から、日本の通勤風景は異様である。

 


アメリカを含めて、欧米ではマスクはしないのが普通である。
こんなことが、書かれてあった。

アメリカではマスクはまず付けない?!
アメリカに限らずですが、一部の国を除いて海外ではまずマスクはつけません。
マスクをする習慣がないですし、マスクに対するイメージなどが日本とは全然違います。
 
アメリカ人のマスクに対するイメージは悪いイメージしか持っていないようです。
  • 瀕死の重病人なイメージ
  • 感染するヤバい病気を持っているなイメージ

★ 今回の『新型ウイルス』でも、感染している人が他人に移さないために、
マスクを付ける』のは納得だが、 
健康な人が予防のためにマスクをするというのは、
もう一つ『説得力がない』ように思う。

私のような高齢者は、出来る限り『人ごみ』の中に出ないようにすることである。
それにしても、この『新型コロナウイルス』は今後どんな展開になるのだろう。

マスクを付けない』などと勝手なことを言っておれる、段階で終わって欲しいものである。

 
 
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政治の世界 国会討論    雑感

2020-02-05 07:37:19 | 政治

★そんなに政治に詳しい訳でもないし、政治への関心なども『人並み』程度だと思っているが、
時間がいっぱいあるのでテレビでの国会討論なども見る機会は結構多い。

ただ、この国会討論の内容は、どうももう一つだなと思うことも多いし、
特に野党の取り上げるテーマはホントにいま『大事な課題』なのかな?
と思ったりする。

桜を観る会』のことなど、
ホントにいまごろ取り上げて議論しているのは『どうかと思う』が、
なかなか上手くは表現できないので、
評論家はどのように言っているのか、ネットの中を探してみた。


   

 

★ 池田信夫さんはこのように言っている。

国会は「桜を見る会」で盛り上がっている。・・・・・・
やりきれないのは、こんなスキャンダルで野党が騒ぎ、また森友・加計問題のように国会審議が空転することだ。首相が中止を決めたのもそれを防ぐためだろうが、この流れは止まりそうにない。


桜を見る会は吉田茂首相が1952年に始めたもので、
民主党内閣でもやっていたし、
安倍政権で規模が大きくなって1万8000人を超えたが、
首相の関係者を招待することは違法でも不正でもないのだから、
いくら言っても無駄なのだが、
 
『政治家にとって大事なのは政策論争ではなく、次の選挙で生き残ることで、与党の政治家は地元への利益誘導で集票できるが、それができない野党にはマスコミで目立つという手段しかない。』

だからこんな問題を取り上げて、朝日や毎日がそれに乗っていると言っている。
本来、やるべき政策論争では、『安倍内閣の政策がまとも』なので、
野党がこれに反対するのはムツカシイ。

今や政治的な争点がなくなり、野党は政策論争をあきらめたのだろう。』
と言っている。

流石に上手に言われているが、要は『私と同意見』だということである。


★もう一人、橋下徹さんは、このように言っている。

野党は数打ちゃ当たるの様相で手あたり次第に安倍さんを批判しているけど、
世論調査における内閣支持率は、数ポイントほどの減になっているものの、
内閣が倒れるような減少幅ではない。
もちろん、安倍さんの説明には「納得できない」が70%程度になっているが、
他方、桜を見る会を廃止にするかどうかは賛否が拮抗している。

メディアは、
安倍さんの説明に「納得できない」という世論調査の数字ばかりを強調するが、
内閣支持率の減少幅がそれほどでもないことには言及しない

世論調査の結果を見て、
僕は日本国民の絶妙な政治感覚というものを痛切に感じるし、
ほんと日本国民って賢明だな、とつくづく感心する。


この意見は、橋下さんらしくて、オモシロい。
ホントにマスコミも野党も、
どちらも自分の都合のいい取り上げ方をしているだけで、
表面だけしか見ていない。

橋下さんは『日本国民は賢明だな』と言っているが、
私も『世論調査』などよく見るのだが、
いつも『まともだな』という感想を持つことが多いのである。


★内閣支持率などは、この7年間の推移を見ると『殆ど一定』なのだから、
極端に言うと『世論調査』をする意味が殆どないのではと思ったりする。

  

こんな傾向が出るのは、政党支持率は以下の通りで、
自民党支持+支持なし=78.5%』と大半を占めていて、
所謂 『野党の支持率=10%以下』 なのだから、
これではどうしようもないのかなと思ったりする。

私自身も、自民党支持というよりも、
むしろ政策的には維新支持か『支持なし』に近く、
今は『安倍内閣』だから、今の内閣を支持しているだけで、
若し仮に『石破内閣』なら、支持しないかも知れない。

    


★先日、どこかで見たが、
自民党が二つに割れて『二つの党』になれば、
日本にも『二大政党が実現する』とか言っていたが、
確かにそのような方向でないと、
今の野党が幾ら一緒になっても、
自民党との『二大政党』にはならないのではと思ったりする。

かっての『民主政党』時代は私も『民主党』に一票を投じたのだが、
政権を担当させてみたら、全然ダメだったことを国民は忘れていないのだろう。

私の勝手な想いだが、
自民党の維新の考えに近い進歩的な人たち』と
自民党の保守的な人たち』との
二つの党になればいいなと思っている。
安倍さんは自民党より本音は『維新に近いのでは?』と思ったりするのだが・・・
 
そういう意味では、橋下徹さんはまだ若いし、
いつか日本の政治の表舞台に立てばいいのにと思っている。

★トランプさんもいろいろ言われてはいるが、
 アメリカは日本と違って『共和党と民主党』の二大政党の形になっているのは、
 うらやましいと思っているのである。

 少なくとも、今の日本の野党では、どうしようもないのでは?と思ったりする。
 朝日や毎日は、本音ではどう思っているのだろうか?


  
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高齢者の運転免許    雑感

2020-02-04 07:14:35 | 発想$感想

★ 高齢者の運転事故のニュースが毎日のように報じられている。

 私自身も、間違いなく高齢者だから『他人事』でないことは間違いない。
 3月になると87歳だが、今年はちょうど『免許の書き換えの年度なのである。

 こんな『運転免許更新のお知らせ』が家に届いた。
 勿論、更新手続きをする積りである。

 

  


 
今のところ、『全く大丈夫』だと思っているので、今回も更新するし、
次回は90歳になるのだが、その時も更新したいし、
自分で大丈夫』と思う間は、車の運転は続けたいと思っている。

私自身は『クルマの運転は好き』だし、
三木のような郊外に住んでいると
『クルマの運転』をしなければ生活自体が変わってしまうことになる。

現役時代はカワサキの『二輪安全運転本部長』を10年以上も務めたし、
カワサキの二輪専門自動車学校の初代設置者』でもあったので、
安全運転』には現役時代から関心があって、ずっと『優良運転者』で通してきた。

現役時代は、飲む機会はしょっちゅうだったが、
立食パーテイーなどでも、全く酒を飲まなかったので、
古谷は酒を飲めない』と思っていた人も多かったようである。


★そんな運転履歴なのだが、
高齢者になって事故など起こすと『何を言われるか』解らないので、
最近は間違いなく交通法規通りを守った『安全運転』なのである。

今までも、『交通違反』はないのだが、『スピード違反もしたことはない』と言えばウソになる。
然し、昨今は『スピード違反』などもしないようになった。
いま走っている三木のまちなど『信号のある普通の道路』は、交通法規通り走っても、早く走っても殆ど時間は変わらいことがよく解った。
毎日、三木の体育館まで10分少々の距離を走るのだが、早く走るクルマも多いが、信号で引っかかるので結局同じになるし、信号を一つぐらい待っても、先に行くクルマの数は多くて10台ぐらいなのだが、街中では前の車が右左に曲がることが多いので、結局同じになってしまうのである。

そんなことを確かめながら、毎日家と体育館の時間を図っているのだが、不思議なほど同じ時間になるのである。
そんなことから得た結論は
街中の走行は法定速度で走っても、早く走っても、かかる時間は変わらない』
ということだし、三木辺りは、そんなに混んでいないから、法定速度で走っても、『ナビの時間』よりは早くなるのが普通なのである。

先日も神戸のポートピアホテルまで走ったが、最初のナビの時間は1時間5分と出ていたが、実際には50分で着いたのである。


★ところで、『免許書き換え』だが、今週中に書き換えに行きたいと思っている。
 既に諸検査など終わっているのだが、その数値は『問題なし』と出ている。

 視力も『普通』で、
 


 



 狭くなるという『視野角度』は、175度と『30歳代』なのである。


  



ただ、70歳になってから最初に受けた予備試験の時には、16の絵を出されて、
それは何でしたか?』と聞かれて、5つほどしか答えられなかったのである。
幾ら思い出そうと考えても、『同じ絵』ばかりが現われるのである。

その時の先生の説明は、今でもよく覚えている。
曰く、
高齢者になると絵を見て、それが何かと解る間は認知症ではない』
『然し、一つのことが解ると、それ以外のことが見えなくなる傾向が出る』
『運転に例えると、信号が青なのは解る。だが右折禁止を見逃したりする』
『一つのことを意識するとそればかりに集中して、他が見えなくなるので注意しなければいけない』

と言われて、確かにその通りだったので、
以来交差点では非常に注意しているのである。

こんなことも、『免許書き換え』の機会に、
自分自身のためにブログにアップしているのである。

3年経って90歳になった時、果たしてどうなっているのだろう?


 
 

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星野一義 のこと

2020-02-03 06:30:45 | カワサキワールド

★ カワサキが厚木に三橋実が主宰するカワサキコンバットを立ち上げ、
関西では神戸木の実クラブの歳森康師と山本隆のライダーと契約して、所謂ファクトリーチームを創くりモトクロスの世界にデビューしたのは1964年のことである。

ただ、当時のモトクロスの記事などはマスコミには全然報じられたりしないので、
スポニチをけしかけてその主催レースを開催することを提案したのだが、
このスポニチ主催のモトクロスが1964年11月8日に和歌山県の紀ノ川で開催されたのである。

★当日 星野一義は、ライダーとしてではなく、
カワサキコンバットチームのトラックの運転手として、現地に来ていたのである。

その日の朝の練習中にカワサキの岡部能夫とヤマハの荒井市次がぶつかって岡部が小指を骨折してしまうのだが、
その岡部の代わりに『岡部の名前で』出場したのが星野一義なのである。

星野のデビュー戦というよりも
星野が初めて岡部の名前でレースを走った日』ということなのである。

ところがレーススタートした直後のジャンプで
星野は頭から転倒救急車で病院に運ばれてしまうのである。
午後になって病院から戻ってきて、『もう一度走せてください
と言って出たオープンレースに6位入賞を果たすのである。
そんな気概と運を星野は持っていたなと思うのである。

それなりの素質があったのだと思う。
その翌年の3月の名古屋東山でのMFJ全日本モトクロスには
125㏄アマチュアクラスでぶっちぎってトップを走っていたのだが、
パンクで惜しくもリタイアだったが、
翌月4月18日の朝霧高原でのMCFAJ全日本では、
90㏄ノービスクラスで見事優勝を果たすのである。

その朝霧でのカワサキチームで、
右から6人が契約ライダー、左から4番目が星野一義だが、
まだ未契約時代なのである。

 


右から梅津・岡部・山本・歳森・三橋・安良岡 そこまでが契約ライダー。
 

★そんなカワサキデビュー時代の星野一義だが、
片山義美を偲ぶ会』では久しぶりに会えていろんな話が出来てよかった。

昭和の日本を背負ったライダーたち100名以上が集まったのだが、
星野はその献杯の音頭をとったりしたのである。





 カワサキ時代が懐かしいのだと思う。
 モトクロス時代の お師匠さん山本隆とも


 

 当時のレース監督大槻幸雄さんとも
 長時間話し込んでいた。





私は当時はライダーの契約関係を担当していたのだが、

星野曰く 
古谷さんに、月給2万円で契約して貰った』と何度も懐かしそうに言っていた。
私は覚えていないのだが、
確か金谷秀夫のスタートの契約金と同額であったはずである。

星野一義も金谷秀夫も当時は名もない普通のライダーだったのだが、
二人とも立派になられたのである。

そんな星野が会場で、ずっと手にしていたのが『朝日新聞』なのである。

そこに星野の記事が書かれているので、
是非、古谷さん読んで欲しい』というのである。

  


星野はいつになっても純情だなと思った。
彼に初めて会ったのはまだ17歳の頃なのだが、
その後免許が取れて、『クルマを買ってもよろしいか』とわざわざ家までやってきた。

これも覚えてはいないのだが、
日記の記述にそのようにあるので間違いないのだろう。
 
この新聞記事の件も、何度も言うので、家に戻って新聞記事を探してみた。
朝日新聞の『日曜版の記事』である。

星野に「読む」と約束したので、どんな記事なのか、皆様にもご紹介しておきたい。


こんな4輪のレースの記事だが、





 2ページに亘って書かれている見開きの大きな記事である。
 これだけ有名人の星野にとっても、
 こんなに大きな記事は、滅多にないのだと思う。




 このように書かれている。
 そこには、富士スピードウエイのことが書かれていた。
 1966年に開催された、第1回の日本GPが
 カワサキのGPレース初参戦の年なのである。

 1965年には、危ないと言われた第1コーナーを
 MFJの運営委員たちが実地走行をしたので、私も走らせて頂いたのが懐かしい。
 そんなFISCOでの『星野の走り』が書かれていた。







★やはり一流になる奴は、確りしてるなと思った。

 それにしてもなぜ星野は私に読ませたかったのか?
 
 『古谷さんとも、最後になるかも知れませんね』とも言った。

 みんなお互いそんな歳なのである。


   これは何年か前、私と山本隆が東京に行った時に、
 岡部と金子を誘ってわざわざ来てくれて、
   星野がご馳走してくれた焼肉屋での写真である。

 もう金子も、岡部もいなくなってしまった。
 金谷秀夫も、もういない。

 


 その日だったが、星野が画いたバイクの絵なのである。
 

  

星野に約束した通り、新聞も確り読んだのだが、
こんなブログにアップしても、星野の目には留まらないと思う。
山本隆が言っていた。 
星野は全くのネットオンチだ』と。

どなたかこのブログをお読みになって、
若し星野一義にお会いになるようなことがあるなら、
古谷は新聞をちゃんと読んだらしいよ』と伝えて頂きたいのである。


 
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片山義美を偲ぶ会 で出会った人たち

2020-02-02 09:12:58 | M/Cレース

★ 昨日は『片山義美を偲ぶ会』が神戸のポートピアホテルで盛大に開催された。

   

 
日本の昭和のレース界を支えた方たちが170人も集まって大成功だった。
 沢山の写真を撮って頂いたのでご紹介しよう。

 
この会の発起人の方々、宇野順一郎さんの幕開けのご挨拶である。
小嶋松久・寺田陽次郎・山本隆・星野一義・坂口顕・吉村太一・村上力・清原明彦という錚々たる昭和のライダーたちである。

 


星野一義、大槻幸雄、吉田純一、山本隆、杉本五十洋さんなどカワサキ関係者と大久保力さんも、大久保さんはカワサキの創生期の頃、モータ―サイクリストのロードインプレッションによく明石にお越しになって、そんな頃からのお付き合いである




 会が始まる前に、あの北野元さんにお会いした。
 お話するのは初めてである。
 星野に紹介して頂いた。
 


片山義美を偲んで想い出話を披露されているのは、本橋明泰さん。
かって、カワサキの創生期、125B7の時代に三吉一行などと一緒に、カワサキのモトクロッサーに乗ったことがあるとか。
 当時の井出哲也さんのお名前が出たりして懐かしかった。

  



 大槻幸雄さん出席されていて、かってのカワサキのライダーたちと。



 北川圭一はFacebook ではしょっちゅうお会いしているのだが、久しぶりだった。
 真ん中はいまもカワサキの現役ぱりぱり・桐野英子さんである。
 


 星野がやってきて、大槻さんと長い間、話をしていた。
星野にとっては『カワサキ時代』が一番懐かしいのかも知れない。





 星野一義と山本隆。
 星野のカワサキ時代のお師匠さんが 山本隆なのである。



吉田純一さんとのスリーショット。
純ちゃん、今は超有名人だが、かってのカワサキ時代は神戸スーパースポーツの平井稔男さん門下で、バイクもレースもやっていたとか。




 星野と清原、お二人とも神戸木の実クラブのメンバーなのである。






 会場にはこんな写真や山本隆のロードレース入賞トロフィーなども飾られた。

 左は神戸木の実クラブの解散会の時、右はカワサキのレースライダーのOB会に片山義美が出席しているのである。





後列右から5人目が片山義美さんである。
髙橋鐵郎・田崎雅元・大槻幸雄・平井稔男さんなどかってのカワサキのレース関係者も・・・
2010年1月だったから、ちょうど10年前なのだが、何人かの方が逝かれてしまった。
 


写真は撮れていないけどいろんな有名人と再会してお話が出来た。

小嶋松久・吉村太一さんとはマウンテンライダース50周年記念パーテー以来かも知れない。
鈴木忠さんとは彼がまだ野口種晴さんのスポーツライダースの新人時代の時の話や、札幌の手稲の全日本の優勝の時の懐かしい話など、2番・3番が山本隆・星野一義だったのである。

 かっての城北ライダースの菅家安智さんもわざわざ私の席まで訪ねて頂いてお話が出来た。 久保和夫さんとは何故か親しくして頂いて、今でも甥っ子の久保 亨さんとはFacebook で繋がっているのだが、そんなお名前も出たりした。


この会の発起人代表の宇野順一郎さんとは、三木のモトクロス場でお会いして以来だったが、かってカワサキのヘリコプターに載せて貰ったことがあるなどと仰っていた。
当時のカワサキのレースチームはヘリコプタを持っていて、レース場にもヘリを持って行ったりしていた。 みんなびっくりされるが当時の中古の下取りのヘリコプターで簿価は200万円ぐらいだったから持てたのである。


★片山義美さんとは直接カワサキとは契約関係などはなかったのだが、神戸だったし『神戸木の実クラブ』の傘下のライダーたちがカワサキとの契約があった関係などもあって、非常に親しくお付き合いをさせて頂いたのである。

 この会の席上で当時はカワサキのGPマシンの開発に当たっておられた大槻幸雄さんが岐阜の飛行場で片山さんにカワサキのGPマシンに乗って貰ったというような話もなさっていたが、そんな時代もあったのである。

私も知らなかったが、片山義美さんは三木のご出身なのである。
そんなことで晩年は三木にお店を持たれていたし、今も息子さんの片山勝美さんが
Katayama Racing をそのまま引き継がれているようなのである。

片山さんのお蔭で昔の懐かしい方たちにお会いできて本当にいいひとときだった。
まずは、とりあえずご一報である。

 
 

 

 

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2月になった

2020-02-01 07:00:29 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚

★ついこの間、新春だったのに2月になった。

 早春と言える季節である。

 春は黄色の花から咲くのだとか。

   ひいらぎ南天はもう花が咲いている。

 

 

 梅のつぼみも膨らみかけている。

 




 あせびはもう少しである。




 春の花 椿の蕾もふらみかけた。

 こちらは赤




 こちらも椿だが ちょっと珍しい花である。



 
 知らぬうちに、クリスマス・ローズも花を咲かせている。












 2月、薔薇の冬剪定と つる薔薇の整枝

 大体、出来ているのだが、今週中に完成させたい。

 こんな花たちが咲き始める春である。

 今年は、この辺りは雪を見ずに2月になった。

 暖冬だったと言えるのだろうか、それとも2月にまた寒くなるのか?


 
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