雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

明石高校  野球部のことなど

2020-02-07 06:03:41 | 発想$感想

★ 昨日は朝9時からの免許書き換えに明石の運転試験場まで行ってきた。
昨年10月に高齢者講習を既に受けているので、免許書き換えの手続きはスムースに行われて、早く済んだので久しぶりにすぐ近くの母校明石高校を訪ねてみた。

 
 私が卒業したのは昭和27年(1952)だから、70年近くも前のことである。
昔の校舎は建て替えられているので、今ある校舎は新しく建てられたものである。

 正面玄関だが、まだ9時半である。
 


 こんな校訓だったのか、確りとは覚えていないのだが、
石はそんなに旧くはないように思えた。





 明石高校での思い出と言えば『野球部』である。

当時はまだ、『名門明石』と言われていて、
高校時代の3年間は、勉強は殆どせずに野球に熱中していた。




グランドのすぐ近くまで行ってきたが、
昔と違ってグランドそのものはホントに綺麗に整備されている。

己を信じろ 仲間を信じろ』 とバックネットに書かれていたが、
こんな標語を見るのも、初めてのことである。
 




こんな優勝カップなどが沢山並んでいて。
旧い伝統のある』 その歴史が感じられた。

 

 

こんな夏の全国大会の優勝楯が飾られていたので、
昭和25年(1950)年の私たちの時のものかなものかな
と思って写真を撮ってきたのだが、

第42回大会というのは調べてみたら
昭和35年の私たちより10年後の後輩たちの時のものだった。

この時は既に会社勤めだったが、会社を休んで応援に行ったのをよく覚えている。
多分、これが明石高が甲子園に出場した最後になってるのだと思う。

 


私たちの高校時代は、後援会の組織も確りあったのか、お金があったのか、
夏の大会前の練習は学校のグランドではなく、
明石球場』を借り切って行っていたのである。

明石球場まで学校から30分も掛ったと思うが、毎日歩いて球場まで通っていた。
夏の予選は、今の甲子園球場だったから、
球場に関しては恵まれていたというべきか、
逆に言うと学校のグランドは石ころもいっぱいで
今のように』綺麗に整備はされていなかったのである。

今のグランドは、こんなに綺麗になっているから、
そのレベルは相当なものである。





★ 私と同期の野球部のメンバーたちも、残っているのは数人で、
ピッチャーをしていた溝畑圭一郎は、10年程前の78歳の頃は、
まだ野球をやっていて『78歳の4割打者』と新聞で大きく取り上げられたのである。


   

 
その時のブログにこんな風に書いている。


はしょって、ご紹介すると

昨日突然、『溝』から電話があった。
久しぶり、昔の仲間、球友『溝畑圭一郎くん』からである。 
日経新聞の電子版に、溝畑圭一郎の特集記事が出ているので、
それを広報しろ』と言うことなのである。

 纏めて『78歳「イチロー」白球に懸ける想い』と名付けられている。
 勿論チーム最年長だが4割を超える打率で、昔からよく打っていた。
 
確かに、今の78歳の『溝』もスゴイのだが、高校時代や神戸製鋼のエース時代のパリパリの『溝』も、スゴかったのである。
明石高の2年の夏は兵庫県で優勝して、夏の甲子園も経験しているが、
その予選では高校生では珍しい完全試合を達成している。 
灘高を5-0で下してのパーフェクトゲームなのである。

高校を卒業してからも、明石のOB連中が内外ゴムなどのチームに雇われて、
準硬球の野球で兵庫県で優勝などしているが、この時も溝がピッチャーをやってくれたからである。
神戸製鋼のエースとして10年ほど君臨したが、その時期ほとんど夏の後楽園の都市対抗の舞台を踏んでいる。 
どこのチームが優勝しても、補強選手として選ばれて参加していたのである。


★『野球はピッチャー』さえよかったら何とかなる。
私たちの時代も『溝がいたから』強かったと言えるのだろう。

いま兵庫県では明石商業が強い。今年の選抜にも選ばれている。

実は、われわれが現役の頃は、明石高校に商業科があったのだが、
その商業科が独立して『明石商業』となったのである。

最近は『』にも会っていないが、
多分私以上に元気にしているに違いないのである。


 

コメント
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