おかずブログ

ここでは主に撮影画像を発表します。
近場で撮影した植物などがメインとなります。

下鴨神社と上賀茂神社

2015年11月16日 | 京都

下鴨神社と上賀茂神社

 2015/10/25 (日) 晴れ

下鴨神社→賀茂川沿い→上賀茂神社→植物園 歩数 約28000歩

もう20日以上も前のことであり、旧聞に属することだが記述してみたい。
10/25日、天気も良いことなので、オフ会の下見も兼ねて加茂社に行く。
バスで葵橋西詰め下車、糺の森、河合神社、下鴨神社と歩き、賀茂の河原に出る。
整備されている河原を一時間弱かけて上賀茂神社着。
上賀茂神社は第四日曜日は「上賀茂手作り市」とかで、一部エリアはにぎわっていた。
上賀茂から河原を引き返して北山の植物園。さんざん歩き回ってから、
地下鉄で四条まで。という一日になった。歩数計は28000歩を記録している。

加茂両社は日本有数の古刹である。それだけ長い歴史をたどってきたということだ。
この社に関係する西行の歌も多い。長くなるので歌の詳述は控えたい。

賀茂川と高野川の合流点に糺の森の南側入り口がある。



画像の地点を過ぎて少し歩くと下鴨神社入り口。正しくは「賀茂御祖神社」。
そして「糺の森」。





糺の森の説明です。

  下鴨神社境内にある森です。国指定の史跡となっています。
  面積は12万4千平方メートル。東京ドームの約3倍の規模とのことです。樹齢は
  200年から600年の木が約600本あるそうです。
  それより古い樹木はみられないようです。なぜ古い木がないのか不思議ですが、
  応仁の乱および建武の乱で糺の森が戦場となったため、樹木もほぼ焼失したこと
  が原因のようです。従って、平安時代にいくつかの文学作品にうたわれた糺の
  森の景観と、現在の糺の森の様相は少しは違いがあるでしょう。
  樹木の種類は72%がムクノキ、16%がケヤキ、後の12%をイチイカシ、エノキ
  その他で占めているとのことです。
  糺の森の南は高野川と賀茂川の合流する地点で、糺河原、もしくは河合河原と
  呼ばれていたと記録にあります。この三角州では、室町時代以降は芸能興行の
  一大拠点となり、大変な賑わいをみせていたということです。

糺の森の中にある「河合神社」。







鴨長明について

  鴨長明は平安末期の激動の時代を生きた下鴨神社ゆかりの人です。出生1155年、
  没年1216年といわれています。
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず・・・」という人生の
  無常観を格調高い書き出しで著した「方丈記」、説話集の「発心集」、歌集の
 「長明家集」などがあります。
  下鴨神社の河合社の禰宜から昇進して下鴨神社の禰宜となった鴨長継の次男と
  して生まれました。長明19歳頃に長継が死亡してから、とたんに悲運の人生を
  送る事になります。若い長明を支えてくれる人がいなくて、その境涯を自身で
 「みなしご」とさえ記述しています。
  歌は北白川で歌林宛を主宰していた源俊恵に師事していて、長明33歳の時に
  千載和歌集に1首が撰入しています。
  1200年頃から盛んに歌合に出ていますので、歌人として華々しく活躍していた
  事がわかります。後鳥羽院からも身分を超えて厚遇されていました。
  長明50歳頃に河合社の禰宜職につく好機が訪れて、後鳥羽院も推薦するのです
  が、賀茂社の反対のため実現しませんでした。突如、訪れた好機に長明はとても
  喜んでいた事が長明の文章からも分かりますが、結局は実現せず、このことが
  契機となって長明は後鳥羽院の和歌所の寄人の職も投げ出して出家し、大原に
  隠棲します。54歳頃に山科日野の山中に方丈の庵を結んで移り住み、58歳頃に
  方丈記を出しました。その4年後、62歳頃に没しています。
  河合社には方丈記をもとにした、長明が住んでいた方丈が復元されています。
  しかしこの方丈はあまりにも立派すぎる気がします。河合社では鴨長明関係
  資料展も公開されています。

  「石川やせみの小河の清ければ月もながれを尋ねてぞすむ」
                          鴨長明 (新古今集)

河合神社から森の中を進んでいけば下鴨神社の楼門が見えます。





下鴨神社から賀茂川の河川敷に出ます。河原はよく整備されていて市民に親しまれています。



下鴨神社から一時間程度で上賀茂神社到着。







楼門の中に本殿や片岡社、棚尾社があります。





加茂社の説明です。

 1 鴨氏と賀茂社 

鴨氏は奈良県の三輪山を本拠地とする三輪氏と同族と伝えられています。
奈良県の西の葛城古道の道伝いに高鴨神社、鴨都波神社があり、それらは
鴨氏の氏神社といわれていますので、古代鴨氏は、葛城山や金剛山を本拠地
としていたことは確実視されています。
時代が下がって、鴨氏は京都府南山城の加茂町などを経て京都盆地に来た
と伝えられます。その時代は縄文時代のことです。糺の森の旧境内地から
縄文時代の遺蹟も出土していますし、鴨氏系図、下鴨神社社記、日本書紀、
その他の文献からも推定できます。そういう古い時代から鴨氏は京都に住んで
いたということになります。

下鴨神社は正しくは「賀茂御祖神社(かもみおやのじんじゃ)」と言います。
まず賀茂御祖神社が作られました。本殿は東西にあって、ともに国宝です。
西殿の祭神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、東殿の祭神は賀茂
建角身命の娘である玉依媛命(たまよりひめのみこと)です。
ある時、玉依媛が瀬見の小川で川遊びをしていると、上流から丹塗りの矢が
流れてきたので、持ち帰って寝所に置いていたら玉依姫は妊娠しました。
生まれたのは男児で賀茂別雷命(かものわけいかづちのみこと)といいます。
この賀茂別雷命が上賀茂神社の祭神となっています。

古来、両社を指して「賀茂社」「賀茂下上(かしょう)大神宮」などと呼称
していました。「上賀茂」「下鴨」という言葉で分けられるようになったのは
中世になってからの事だそうです。現在の賀茂御祖神社(通称は下鴨神社)、
賀茂別雷神社(通称は上賀茂神社)と呼ばれるようになったのは明治初年から
です。この年に神社制度が改革されています。
                                   
「山背(やましろ)の国」と呼ばれていたこの地が、都となった
のは794年のことです。第50代の桓武天皇は平城京の旧弊を嫌い、
長岡京に遷都しました。しかし長岡京も藤原種継暗殺、早良親王
幽閉などの暗い事件があり、凶事も多発したために、わずか10年で
おわり、桓武天皇はまたしても遷都したのでした。
そこが千年の王城の地となった平安京です。山背の国を山城の国と
改め、新京を平安京としました。
ここには秦氏や鴨氏が住んでいて、それぞれに氏寺も造っていました。
平安遷都以前から鴨氏と朝廷との結びつきは強いものがあり、賀茂社
は784年に従二位、794年に正二位、807年には伊勢神宮に次ぐ社格の
正一位の位階を授けられています。810年には斎院の制度も整い、
賀茂祭(葵祭)を朝廷が主催する官祭にふさわしい儀式として、
形式が整えられました。
賀茂祭は500年代中ごろから始まり、大変な賑わいの祭りでした。
朝廷が騎射禁止令を出しているほどです。斎院の前身ともいえる
制度もあって鴨氏の女性が「阿礼乎止売=あれおとめ」として巫女
になっていたとのことです。
ところが800年代になって、鴨氏という氏族の祭礼を朝廷が肩代わり
して主催することになったわけです。別の言い方をするなら、大変
な人気のある祭りを朝廷が乗っ取って、主催することになりました。
この賀茂祭も1502年から中絶、復興されたのは1694年のことでした。
以来、今日まで続いています。
ただし、1943年から1952年までは「路頭の儀」は中止されています。

賀茂社の分霊社は日本全国にあります。総数1186社ということです。
これは伏見稲荷大社の約4万社、北野天満宮の天神社の約1万2千社などから
見ると数字的には少ないものです。
しかし、古代から広く日本全国にわたって信仰されてきたことがわかります。
多い順に埼玉県119社、群馬県64社、栃木県59社、宮城県58社、長野県56社と
なっています。

賀茂社は1036年に式年遷宮の制度を命じられました。それからは20年目ごとに
社殿の全てが建てかえられることになりました。ところが戦国時代などの戦乱期
とか神社の経済的理由により、必ずしも規則通りに遷宮が行われたわけでは
ありません。最近では1937年第31回式年遷宮、1973年第32回式年遷宮、1994年
第33回式年遷宮とあります。下鴨神社の殆どの社殿は1628年の建立によるもの
ですから、本殿のみの造替で済ましたようです。その本殿も、現在のものは
1863年の建立ですから、遷宮といっても社殿の建て替えはせず、形式化して
いることが分かります。
上賀茂神社の場合は、もっと簡略化して社殿の修理程度で済ませていたとの
ことです。                                  
(一部、私発行のマガジンから転載)