回転チェアにどっしりと腰掛けるハゲワシ親分。その後ろには何癖もありそうな子分たちが控える。
親分の片手に握りしめられた規約書を盾に、首根っこをがっしり捕まれグゥの音もでない可哀想なエルトン。
犬はキッチンに入れたら絶対ダメですよ。やりたい放題になるからね。
回転チェアにどっしりと腰掛けるハゲワシ親分。その後ろには何癖もありそうな子分たちが控える。
親分の片手に握りしめられた規約書を盾に、首根っこをがっしり捕まれグゥの音もでない可哀想なエルトン。
犬はキッチンに入れたら絶対ダメですよ。やりたい放題になるからね。
1975年のエルトン・ジョンの9枚目のオリジナル・スタジオ・アルバム、Captain Fantastic Brown Dirt Cowboyが出た。
ナイジェル、ディーとデイビーを含むバンド編成はこのアルバムが最後となる。解雇されたナイジェルとディーのリズム・セクションはこのあとバンドに一時的に復帰した時もあるが恒常的な存在ではなくなった。
デビュー当時の自身を振り返ったコンセプト・アルバムで、発売当時はエルトンにとっても人気及び音楽創作活動でピークを迎えていた時期で、アメリカではアルバムの予約だけでチャート登場で即1位となる偉業に輝いた。
このアルバムでは3−4分程度のラジオ・フレンドリーなメロディーをエルトン自身も満足していたそうな。
アルバム全編をまったりと聴いていくのがお勧めではないかと。
ちなみにシングル・カットされたSomeone Saved My Life Tonightの邦題が僕を救ったプリマドンナと付けられているが、曲の歌詞とは異なる安直なイメージ先行のタイトルである。
実際は、エルトンが当時のガール・フレンドとのあまり気乗りしていなかった婚約を解消する手助けをしてくれたSomeoneのことを歌ったもので、プリマドンナがエルトンを救ったわけではなく、プリマドンナはここではエルトンと相対する存在で皮肉っぽく描写されている。
イラストレーター、アラン・オルドリッジによる少々おどろおどろしくも愛嬌のある作風のイラストもこのアルバムの魅力の一部となっている。
久々に1973年のエルトン・ジョンの2枚組スタジオ・アルバム、Goodbye Yellow Brick Road(邦題は黄昏のレンガ路)でも聴いてみようと取り出した。
彼の作品の中で一番売れたアルバムであり、個人的にも彼のベストだと思っていて当然のことながら捨て曲なし。
またアルバム・ジャケのデザインも魅力的なイラスト満載で聴いて見て非常に楽しめた作品だった。
ゲッ、アルゼンチン負けちゃった!
何と5月の太陽が、黄昏時、黄色いレンガ路の続く彼方へと沈んでいっちゃった。
エルトン・ジョンの10枚目のオリジナル・スタジオ・アルバムは、録音スタジオだったカリブー・ランチの所在位置、West Of The Rockies(ロッキー山脈の西)を文字ってRock Of The Westiesと命名され1975年に発売。
前作のエルトンの自叙伝的アルバム、Captain Fantasticもそれまでのアルバムと同様び発売と同時に全米チャートNo.1に輝き、飛ぶ鳥を落とす勢いの如くヒット街道まっしぐらのエルトンで、このアルバムでも発売前の予約段階でチャート・トップ確定だった。
大きな変化は、前作の制作完了後長きに渡ってバンド・メンバーだったドラムスのナイジェル・オルソンとベースのディー・マレーを解雇し新メンバーと共にアルバムを制作することだった。
当時エルトンと彼らの間に実際のところどんなわだかまりがあった(一般的に伝えられたのは確か音楽の方向性が異なるという話だった様な?)か想像もつかないが、個人的にはそれまでの彼らの演奏やバック・コーラスなどバンドにとって貢献度が高かったので一ファンとしてその決断は非常に残念に思った。
後年ナイジェルがインタビューでエルトンから解雇の通知を受けた時は、非常に打ちのめされたって語っていた。
このメンバー・チェンジが影響したのかどうか、それまでのエルトンとは違うディープなアメリカン志向のサウンドで、全体的にハードでファンキーなイメージに仕上がった。
アルバムはいつも通りチャートのトップを獲得しシングル・カットされたIsland Girlも大ヒットしたものの、当時アルバムを通して聴いてみて、個人的にはナイジェルやディーのいた頃に一番思い入れがあったので、何だかな~と感じたのは確か。
他のリスナーも同じ様に感じたのか、アルバムの売上はそれまでの作品と比べると落ち込み、次作のBlue Movesで少々方向転換へ...
その後、ナイジェルとディー(ディーは1972年、45歳の若さで病気でこの世をさることに)もスポットでエルトンのアルバムしばしば参加し、旧友が帰ってきた感じで嬉しく思ったこともあった。
とは言えこのアルバム、特にオーバー・プロデュースされているとも感じないし、歌唱・演奏もしっかりしていていいアルバムだと思う。
多分、当時こうあるべきだと思い描いていたエルトンのイメージとは違っていただけなのかもね。
1976年に自身の設立したロケット・レコードよりアルバムを出せる事になったエルトンだが、1976年のBlue Move、1978年のA Single Manと1979年のVictim Of Loveなどのアルバムは彼の絶頂期と比べるとその勢いに翳りが出てきたのは間違いないだろう。
そして1980年には21 At 33(31歳で21枚目のアルバムと言う意味らしい)と言うタイトルのアルバムが出た。
1969年アルバム、Empty Skyが出てから11年で21枚のアルバム。ただオリジナル・アルバムだけでは21枚にはならないのでコンピ・アルバム、ライブ・アルバムなどもその数に入れて計21枚になるとの事らしいが...
それまで短期間に数多くのアルバムを出す度に常に新しい何かを求め続けられてきた超ハードな活動を顧みて、少々行き詰まりはあったかも。
今回作詞陣には盟友バーニーだけで無くゲイリー・オズボーン、トム・ロビンソンとジュディ・ツークらも起用、またレコーディング・セッションでも数多くのミュージシャンが参加し、あらゆるバリエーションを試し今後どうあるべきかを模索したアルバムではなかったかと思う。
てな事でジャケにエルトンの姿はなく、先入観なしでこのアルバムを聴いてほしいと思ったのでは...
全体的にはおとなしめでロッカーのエルトンはそこにはいないが、AOR調ミディアム・テンポのLittel JeannieやSartorial Eloquenceなど聴きどころは沢山!
いつぞやは “知人の証言ってことで、1971年10月に日本で行われたコンサートでの男は小太りでピアノの上で飛んだり跳ねたりしていた。”なんて非常に失礼な書いてしまって本当に申し訳ありませんでした。
数ヶ月前に某通販サイトであなたの当時のコンサートを収録したCDを見かけました。そのCDは1971年10月11日に東京で行われたコンサートの模様をサウンド・ボード経由で録音した代物で、当然正規盤では無いですがこれが結構良い出来らしいみたいで。
個人的には、アーティストをサポートする意味でもブートの音源は買わない主義でありましたが、セット・リストを見て何とIt’s Me That You Needが収録されているではありませんか!
この曲はあなたの3枚目のシングルとして1969年に発売されたものの欧米では不発でしたっけ。しかしその2年後日本で大ヒット(オリコン洋楽シングル・チャート2位)を記録しましたね。
それまでこの曲がライブでは全く披露されなかった事からシングル・カットされたものの多分あなたはそれ程気に入ってはいなかったのかも?
でも日本のファンに対して感謝の意を表して初来日のコンサートのオープナーとしてこの曲を披露されたと個人的に思っているのですが… しかもピアノによるスキヤキのメロディーもコンサートの終盤でちょろっと出てきますね。
まあ何と言っても日本公演の後はライブでは全く登場しない幻の曲ですからね、って事でこの一曲のために私にとって禁断のブート盤取り寄せてみました。
まあライン録音なので基本的に音は悪くはないのですが、全体的にはブートゆえしっかり音源が調整されていない、例えばナイジェルの手数の多いドラムスやディーの唸るベース・ランニングは正規盤ライブ、17−11−70と比較すると迫力不足なミキシングかな? それに観客の反応が抑え気味で少々間の抜けた箇所もいくつかあるので、いつか正規盤出して頂ければと思います。
因みに、このブートの音源の最後のアンコール曲、Whole Lotta Shakin’ Goin’ Onは70年代にNHKのテレビかラジオでオン・エヤーされたような記憶が? Shakin’ Baby Shakin’ってエルトンがシャウトしたフレーズに何故か聴き覚えが…
それでブートの割に音質がいいのかもね。
80年代中頃になるとドラッグの影響なのか制作するアルバムに今ひとつキレがなくなり、セールスも低迷。
施設での矯正を受けドラッグ禍からようやく立ち直り1989年にアルバム、Sleeping With The Pastを発表。
そしてそれに続くアルバムが、1992年のThe One。ようやく往年の充実したサウンドが戻ってきた。
ジャケ・デザインのコンセプトはお馴染みベルサーチ
お馴染みのギターのディビィー・ジョンストンはもとより、ナイジェル・オルソンやキキ・ディーらエルトン・ファミリーも参加。
ベースにはのちにジョン・メイヤーとトリオを組ピノ・パラディーノや、さらにエリック・クラプトンやデヴィッド・ギルモアもそれぞれ1曲だけだがギターで参加。
当時一聴してようやくエルトンも闇を抜けたかって思った。
ただ個人的にはもう少し曲の長さを切り詰めてメリハリ効かせた方がよかったかな?
LPレコードは両面の収録時間を合わせると大体44−5分ってところ。CD時代になるとその特性により更に長い収録時間が確保出来ることにより、一曲の長さが長くなったり曲数が増えたりすることになる。
そのためアルバム全体やそれぞれの曲が冗長になる様な時が…
聞き手が緊張感を持って音源を聴き続けるにはやっぱり限界があって、レコード世代の私などは20分ほど聴いてレコードを裏返してまた20分というサイクルが体にフィットする。
わざわざサビをこれでもか!って何度も繰り返す必要はなく、ここぞというときに心地よいサビを一発かまし曲を終わらせば、またもう一度聴きたくなるって思うのだけれど。
作詞家バーニーの憧れの地、淡い土色のイメージでアメリカ西部をレトロな感覚で描いた1970年の作品、Tumbleweed Connection。
翌年の次作、Madman Across The Waterは前作と同じくアメリカを描いてはいるが、その全体的な印象は青い色彩で描かれたジャケットの様に冷たさが…
さらにポール・バックマスターによる鋭利なストリングスのアレンジにより暗さも感じられる。
(写真のエルトンもシリアスな感じに写っている)
(全くカントリーぽくないB.J.コールの爪弾くスティール・ギターが印象的)
そんなイメージからか、エルトンの初期の作品の中では販売当初チャート的には良くなかった。
ただ通算販売数となると他のアルバムに劣らないほどの売り上げがあり、何度も聴き返すことによってその良さが味わえるって作品ですかね?
今日だけで4度もフルで聴いたことに。
個人的に何度聴いても飽きのこないアルバムです。
エルトン・ジョンの1970年の3枚目のオリジナル・アルバム、Tumbleweed Connectionを久々に聴いてみた。
以前に書いた通り、ヨーロピアン調だった前作よりもロック色を高め、Tumbleweed、アメリカの乾いた荒野で風に吹かれてコロコロ転がる枯枝の残骸、をイメージしたのかアメリカン・フレーバーをちりばめたものとなった。
今回はレコードではなく、2008年に出た二枚組のCDにしてみた。もちろん目当てはピアノ・デモやBBCのライブ音源を収録したDisc2。
何故かピアノ・デモ・バージョンの方が正規の音源よりゴスペルやブルース臭があってを個人的にはアメリカさをより感じさせる。
それから、ボツになったミック・ロンソンのギターによるMadmann Across The Waterも収録されていてようやく日の目を見たわけだが、この時期の収録だからTumbleweed Connectionに収録されていても違和感はないアレンジと感じた。
因みにこの曲は次作のタイトル曲になり、クリス・スペディングとデイヴィー・ジョンストンらのギターにポール・バックマスターの重いストリングスが被さった英国よりの重いアレンジに変更されている。
このアルバムでアメリカに接近しすぎたからなのか、次作のアルバム、Madmann Across The Waterの制作で少々揺り戻しがあったのかな?
今日はこれっ!
なんだエルトンとキキ・ディーの例の”恋のデュエット”か~
と思いきや、B面に収録されたSnow Queenであります。
シングルのB面って、だいたいアルバム収録から漏れたアウト・テイク、もしくはアルバム収録されたちょっとマイナーな曲ってイメージがあるけど、隠れたジュエルとでも言うべき掘り出し物がしばしばある。
デュエットで感情をセーブして淡々と歌われるギター・ベースの美しいバラッド。なんだか病みつきになって何度も何度も聞いてしまう。
歌詞はかってCandle In The Windで登場したノーマ・ジーン(マリリン・モンロー)に続くハリウッド物語第二弾とも言える内容で、作詞家バーニーが思い浮かべたSnow Queen(シェール)をイメージしたものだとか。
スノー・クィーン、きっとあの丘のどこかに住んでいる。
憂いの表情を浮かべたような冷めた目でロスの街を見下ろしている。
って感じでなんだか映画の1シーンのような…
本日は1970年のエルトン・ジョンのセカンド・アルバム。
と言っても、今回は2008年に20曲が収録されたボーナス・ディスクのついた2枚組の再発CDの話。
特に1曲目から9曲目のピアノ・デモが秀逸。
エルトンのピアノとボーカルだけのシンプルな構成だが、多分一発どりで収録されたそれぞれの曲は臨場感に溢れ本編に引けを取らない歌いっぷりだ。
ピアノの伴奏だけでこれだけ歌えるシンガーって当時それほどいなかったのじゃないかと改めて感心した次第で…
1973年の2枚組アルバム、Goodbye Yellow Brick Roadから2枚目のシングルとしてカットされたアルバム・タイトル曲。
先行シングルとしてカットされたハード・ロック系のSaturday Night’s Alight For Fightingとは打って変わったメロディアスなバラード。
場を盛り上げるハードなナンバーも悪くはないが、やっぱりエルトン・ジョンは自身のピアノ伴奏に合わせて歌うバラードがお似合い。
当時コレをラジオで聴いて、もう一度聴きたいが為に近所のレコード屋まで自転車で一走り。
今ならサブスクでなくともYouTubeで検索すれば簡単に音源が、しかもタダで。
まあ便利な世の中になったものだが、瑣末な事柄でもそれなりに労力をかけると結構有り難みを感じる場合もある。
学校で習ったテストに出る最重要事項なんてほとんど忘却の彼方だけれど、その自転車の一走りは今でも不思議と記憶に残っている。
1970年11月17日、ニューヨークでのスタジオ・ライブ、17-11-70。
デビュー・アルバムからサード・アルバムまでの曲を取り上げている。
パワフルなのはエルトンのボーカルやピアノだけでなくサイドを固めるディー・マレーの軽快なベース・ランニングとナイジェル・オルソンの手数の多いドラミングがさらに場を盛り上げる。
吟遊詩人の肩書きも吹っ飛ぶ様な迫力のある演奏は、残念ながら日中において我が国の標準的な家屋で十二分に楽しむにはチト厳しい。
一夜漬けのテスト勉強もそっちのけで、ジャケの写真の雰囲気を味わいたく、ヘッドフォンを装着し小さなランプだけを灯し深夜の真っ暗な部屋でボリュームを上げた。
草木もねむる丑三つ時、いよいよ締めの曲“布教本部を焼き落とせ(Burn Down The Mission)”で最高潮を迎える事に。
そして消し忘れた深夜ラジオからは、か細い音量でひと昔前流行った歌謡曲が聴き疲れた体に染み入り夜明けは近いとふと我に返る。
しまった! 出題範囲を全て復習する時間がないじゃん。山を張って一点集中の丸暗記に賭けるしか…
結果は当然のごとく悲惨なものに。
まあ、いっか〜
懲りもせずこれを何度も繰り返した故、今の自分があるのだと変に胸を張る今日この頃。
自身のレーベル、The Rocket Record Companyを1973年設立したものの、ディック・ジェームスのレーベルとの契約は依然残っていた。
そしてついにその契約も終了、1976年に自身のレーベルからようやくシングルとアルバムを出すことに。
その記念となった第一弾のアルバムは1976年の2枚組アルバム、Blue Moves。
前作のRock Of The Westiesが新たなバック・バンドによるロック寄りの荒々しいサウンドに対する反動だったのか、今回様々なタイプの曲が収録され、その中にエルトンとの代名詞と言われる初期の頃を想い起すバラード調の曲も取り上げられ、今思えば結構バラエティーに富んだアルバムだった。
そのアルバムからシングル・カットされたのは、憂鬱な失恋のバラード、Sorry Seems To Be Hardest Wordだった。
君に愛されるには、一体どうすりゃいいんだ!
ごめんねって言葉、ちょっと辛すぎるんだけど…
むむ〜、聴いていて確かにブルーな気分に。
それに反して、トーマスのいとこ?の様な機関車ロケットはいつもニコニコ、ご購入頂き毎度あり〜
今日は1973年のアルバムGoodbye Yellow Brick Roadから3枚目のシングルとして翌年発売されたBennie And The Jets(ベニーとジェッツ、やつらの演奏は最高)。
スロー・ビートのソウルっぽい曲で、かってシングルで出たRock And Roll Madonnaの様に擬似ライブの手法を用い臨場感を出した。
それまでのエルトンのイメージとは異なる作風の曲だったが、シングル・カットされるとアメリカではまさかのチャート1位の大ヒット!
因みに米シングル盤ではB面はHarmonyだったが、日本ではCandle In The Wind(風の中の火のように、孤独な歌手ノーマ・ジーン)を収録。
個人的にはダブルAサイド仕様のシングルに思えてなんだか得した気分だった様な記憶が。
エルトンのグラムっぽいイメージを表す曲ってやっぱりこれですかね?