博士:おおー、これは赤い鳥のシングル盤“赤い屋根の家”じゃないか! いつ買ったのじゃろうか?
助手: 1972年発売に彼らの8枚目のシングルとして発売されたようですが… 作詞は、山上路夫(“世界は二人のために”とか赤い鳥関連では、“翼をください”と当時の売れっ子作詞家だった)作曲は村井邦彦(アルファーレコードの創設者で売れる前の荒井由実と契約した、作曲ではグループサウンズから歌謡曲まで幅広く活動し、ヒットを飛ばしたこれまた売れっ子作曲家)ですね。
博士:おおー、思い出したぞ。徹夜の試験勉強の時に、ラジオの深夜放送でこの曲をやっていて、その数日後発作的にダイエーが入っていた近所のショッピング・センターのレコード屋で買った記憶があるのう。
当時は、自作自演ではなく専門の作詞家や作曲家を起用するのが普通じで、作曲では、村井邦彦以外に、すぎやまこういちや筒美京平などが売れっ子じゃった。
関係がないが、そのダイエーが入ったビルも取り壊しとなり、今では食料品だけを扱うグルメ・シティーになっとるのう。時はあっという間に過ぎるものじゃ。
助手:歌詞を見ると、
赤い屋根の家を建てたい
丘の上に二人
旅を続ける二人の夢は
いつも同じ夢
いつか旅路が終わるところに家を建てたい
愛の家
幼稚だと誰もが笑うけれど
それでも構わない
楽しい夢だから
なんともメルヘンチックじゃありませんか。
博士にはあまり似合ってないみたいですが…
博士: ワシもその当時は、ヤングしていて、真っ赤なスリム・ジーンズにロー・カットのバッシュを愛用していたぞ。しかもジーンズはウエストが29インチじゃった。
もし、今そのジーンズを履く事が出来たとしたら、ジッパーが吹っ飛ぶのは間違いない。
助手:60年代後半から、日本にもフォーク・ミュージックが出てきて、70年代には結構流行しましたね。
博士:当時は、テレビやラジオ向けの一般的な歌詞で歌っていた 人気グループも一部いたが、ほとんどはコンサートをメインに活動していたのじゃ。無論、放送禁止歌になるような政治あるいは社会的なメッセージを含む歌を歌っていた連中は、テレビやラジオではオン・エヤー出来ない時代じゃった。今なら言論の自由となるのだろうが…
助手:“赤い鳥”は“竹田の子守唄”みたいな和風のフォークも演奏するが、基本的にはほとんど政治や社会的なメッセージを含まないアメリカのポップ・サウンドが主体で、仲間内では彼らの実力は非常に高く評価されてましたね。
博士:2番の歌詞のサビの部分を今読むと、アメリカ・ポップ・サウンドのイメージとは正反対のなんと消極的な表現なんじゃ! とても若者を代弁したものとは思えないのじゃが…
穏やかな人生
送りたいの
小さめの幸せ
それだけあればいい
なんとか戦後の荒廃した日本を再生しようと60年代をモーレツに生きてきて、64年の東京オリンピックや70年の大阪万博を成功させた後、それまでの価値観に変化が起こったのかも知れんが…
助手:そう言えば、当時モーレツからビューティフルなんて云う標語も当時ありましたね。
ところで、今からでも赤い屋根の家を丘の上に立てるのはいかがですか?
博士:今のワシとしては、建てるなら同じ赤でも備中高梁のベンガラ色の屋根になるのかのう… しかしそれ以前に、もしそうなったなら、買い物や医者に行くために、毎日繁華街まで丘を降りていきまた登って戻って来なければならない。丘の上に建てるのは体力的に無理じゃ。
助手:なんと現実的な!
博士:やっぱり、70年代の楽しい夢の中の話じゃろうなぁ~
といつものワン・パターンで、グダグダながら昔を思い出す博士である。
そう言えば、テレビで“年をとると結構昔のことはよく覚えていて執着心もあるが、最近の事となると無頓着で印象も薄いみたいな…”なんて言っていた。
全く本当と実感する今日この頃であった。