CLASSIC ROCKを聴こう! PLUS

1960年から1980年代のロックを紹介していきます。またPLUSと言うことで、ロック以外の話題も!

夢は丘の上の赤い屋根の家

2016年01月17日 | JAPANESE
助手:博士、押入れにこんなの見つかりましたが…

博士:おおー、これは赤い鳥のシングル盤“赤い屋根の家”じゃないか! いつ買ったのじゃろうか? 

助手: 1972年発売に彼らの8枚目のシングルとして発売されたようですが… 作詞は、山上路夫(“世界は二人のために”とか赤い鳥関連では、“翼をください”と当時の売れっ子作詞家だった)作曲は村井邦彦(アルファーレコードの創設者で売れる前の荒井由実と契約した、作曲ではグループサウンズから歌謡曲まで幅広く活動し、ヒットを飛ばしたこれまた売れっ子作曲家)ですね。

博士:おおー、思い出したぞ。徹夜の試験勉強の時に、ラジオの深夜放送でこの曲をやっていて、その数日後発作的にダイエーが入っていた近所のショッピング・センターのレコード屋で買った記憶があるのう。

当時は、自作自演ではなく専門の作詞家や作曲家を起用するのが普通じで、作曲では、村井邦彦以外に、すぎやまこういちや筒美京平などが売れっ子じゃった。

関係がないが、そのダイエーが入ったビルも取り壊しとなり、今では食料品だけを扱うグルメ・シティーになっとるのう。時はあっという間に過ぎるものじゃ。

助手:歌詞を見ると、

赤い屋根の家を建てたい
丘の上に二人

旅を続ける二人の夢は
いつも同じ夢
いつか旅路が終わるところに家を建てたい
愛の家

幼稚だと誰もが笑うけれど
それでも構わない
楽しい夢だから

なんともメルヘンチックじゃありませんか。
博士にはあまり似合ってないみたいですが…

博士: ワシもその当時は、ヤングしていて、真っ赤なスリム・ジーンズにロー・カットのバッシュを愛用していたぞ。しかもジーンズはウエストが29インチじゃった。

もし、今そのジーンズを履く事が出来たとしたら、ジッパーが吹っ飛ぶのは間違いない。

助手:60年代後半から、日本にもフォーク・ミュージックが出てきて、70年代には結構流行しましたね。

博士:当時は、テレビやラジオ向けの一般的な歌詞で歌っていた 人気グループも一部いたが、ほとんどはコンサートをメインに活動していたのじゃ。無論、放送禁止歌になるような政治あるいは社会的なメッセージを含む歌を歌っていた連中は、テレビやラジオではオン・エヤー出来ない時代じゃった。今なら言論の自由となるのだろうが…

助手:“赤い鳥”は“竹田の子守唄”みたいな和風のフォークも演奏するが、基本的にはほとんど政治や社会的なメッセージを含まないアメリカのポップ・サウンドが主体で、仲間内では彼らの実力は非常に高く評価されてましたね。

博士:2番の歌詞のサビの部分を今読むと、アメリカ・ポップ・サウンドのイメージとは正反対のなんと消極的な表現なんじゃ! とても若者を代弁したものとは思えないのじゃが…

穏やかな人生
送りたいの
小さめの幸せ
それだけあればいい

なんとか戦後の荒廃した日本を再生しようと60年代をモーレツに生きてきて、64年の東京オリンピックや70年の大阪万博を成功させた後、それまでの価値観に変化が起こったのかも知れんが…

助手:そう言えば、当時モーレツからビューティフルなんて云う標語も当時ありましたね。

ところで、今からでも赤い屋根の家を丘の上に立てるのはいかがですか?

博士:今のワシとしては、建てるなら同じ赤でも備中高梁のベンガラ色の屋根になるのかのう… しかしそれ以前に、もしそうなったなら、買い物や医者に行くために、毎日繁華街まで丘を降りていきまた登って戻って来なければならない。丘の上に建てるのは体力的に無理じゃ。

助手:なんと現実的な!

博士:やっぱり、70年代の楽しい夢の中の話じゃろうなぁ~

といつものワン・パターンで、グダグダながら昔を思い出す博士である。

そう言えば、テレビで“年をとると結構昔のことはよく覚えていて執着心もあるが、最近の事となると無頓着で印象も薄いみたいな…”なんて言っていた。

全く本当と実感する今日この頃であった。

続編、新ロック三大ギタリストって?

2016年01月17日 | Southern Rock

巷では、新ロック三大ギタリストとは、ジョン・メイヤー、デレク・トラックスそしてRED HOT CHILLI PEPPERSのギタリストであるジョン・フルシアンテだそうな。

ジョン・メイヤーはスティーブ・レイボーン、デレク・トラックスはオールマン・ブラザース繋がりで名前を知って聴くことになったのであるが、ジョン・フルシアンテについては、RED HOT CHILLI PEPPERSと云うバンドの存在は知っていたのだが、生憎彼らの楽曲をほとんど聴いたことがなかったので、三大ギタリストとの一人だと言われてもピンとこない。まあ今後機会があれば視聴してみようと思う。

そこで今回は、デレク・トラックスについて書いてみよう。

1979年生まれで9歳からギターを弾き始め、1995年に自身のバンドを結成、その活動に並行し1999年叔父であるブッチ・トラックスがいるオールマン・ブラザーズ・バンドに正式加入、2010年妻のスーザン・テデスキのバンドと合体し、テデスキ・トラックス・バンドを結成、自身のバンド活動に専念するため2014年のコンサートを持ってオールマンから脱退。

ロック、ブルース、ジャズだけでなくエスニックなフレーズも弾きこなし、愛用のギター、ギブソンSGをオープンEのチューニングにセットしピックを使わず親指で弾く。スライド・プレイはデュアン・オールマンと同様にメディシン・ジャーを指にはめて弾きまくる。

早速聴いてみようとCDを取り出す、と言っても最近彼を知ったばかりだから、2009年のスタジオアルバム、ALREADY FREEとそれに続いた2010年のライブアルバム、ROADSONGSしか持っていない。

ALREADY FREEとROADSONGS

なるほど、噂通りうまい。ギター・ソロも心地良く聴こえるし、スライド・プレイも唸りまくる。上記2枚のアルバムで演奏されたボブ・ディランのDOWN IN THE FLOODのカバーも自身のオリジナルに聴こえるほど素晴らしい出来だと思う。

ディランのGREATEST HIT 2、2枚目の最後にオリジナルが収録されている。

とは云え、この2枚のアルバムだけを聴いた印象としては、メジャーになるには楽曲が少々地味ではないかと…

オールマン・ブラザーズは、アルバムの頭にこれぞオールマンと云う派手目の曲を持ってきている。

例えばファースト・アルバムではDON’T WANT YOU NO MORE、フィルモア・イースト・ライブでSTATESBORO BLUESを一曲目に配置し一気に彼らの音楽に引き込んでしまう手法である。


また、デュアン・オールマンの場合は、デレク・アンド・ドミノスにゲスト参加し、LAYLAでエリック・クラプトンと共演できたことで、一気に知名度が上がったこともプラスになった。

デレク・トラックスが、今後自身のバンドにおける活動をどのように進めていくのかは定かではないが、私見としては、彼の本意ではないかもしれないが、オールマン・ブラザーズのように彼のギター演奏が光りさらに通だけでなく一般受けするような楽曲を数曲取り入れてくれればと、個人的に思う。

せっかく新三大ギタリストに祭り上げられたのだから、単なるギターが特別上手いギター職人というような立場ではなく、メジャー級ヒットもガンガン飛ばし、将来カリスマ的存在として君臨していただきたい。

尚、合体したテデスキ・トラックス・バンドは、結構いい線いってるみたいで, ひょっとすると楽曲次第で将来ボニー・レイット姐さんみたいに大化けするかも…

テデスキ・トラックス・バンドの一枚目のアルバム、リベレーター

Derek Trucks Band - Down in the Flood