余裕があるような自分

2010年11月20日 | 自分 -

予定通り、昨夜、購入した最新型冬モデルのパソコンが、自宅に届いた。
今日、セットアップをしようと思っていたが・・・・・やめた。
もし不明なことやトラブルが起きたりすると、余計に時間はかかるし、気分は落ち着かず、
焦るようになってしまって、気にしないところで ストレスを溜めることもある。
今や簡単になったセットアップさえも、今日は、あえて、やめようと・・・そう決断した。


なぜならば、明日から、地方出張で、しばらく自宅には帰れない。
帰ってきても、すぐに東京を離れることになっていて、そのようなスケジュールが、
12月の二週目ぐらいまでは続きそうだ。
今までだって忙しかったのに、年末までは また怒涛のような忙しさが待っている。


今も、介護時代に痛めた腰が、ちょっとズキズキと・・・・。
疲労がたまると、なんとなく心地よくない。
気苦労や、身体の疲労は、なかなかすぐにはとれないものである。
こういうものには、精神的な要素も、大きく影響を与えていると・・・いつも感じる。



今日は、唯一のフリー日。
明日からの早朝出張に向けての荷作りをして、ぐっすりと寝ることにした。
たった一日だけでも、ゆったりと時間を過ごすことが効果的だと思ったりして、
あえて新しいパソコンには触らず、玄関に置いたままで出かけることにした・・・。


「ゆとり」というのには、全く違う時間でも・・・・
人にとっては大事な要素だと思うのが、この全てに対する“余裕のようなもの”である。
自分の後ろから“何か”が迫ってきていないような環境と、その“何か”をやらなければ
ならないと思い込んでしまって、切迫感にさいなまれているような精神状態は・・・・
あまり健康的ではないと思う。

身体を休め、疲労を取り去るだけでなく・・・・
心をフラットにして、自分の機軸に戻すことと、何かが起きたときに冷静に対応できる
基本的な基盤の修正が、「自分の奥底のセンサー」にも必要であるということだ。
そして、いつも感じるのは、このような行為は、定期的に行うことで、自分を守ることが
できるような印象がしている。
気力・体力・生気をあげて、自分の中の生命力さえもが、あがっているように感じる。
だから、あらゆる事態から、結局は「“自分を守ることができる”のではないか」と思う。



昼間は庭の花に水をあげて、植木の葉っぱについたほこりをはらって・・・・
玄関先を掃除して、あとは「明日からの荷づくり」のみだったが、それもほぼ完成した。

こういう風に「コントロールができる」ように、いつも、冷静に自分を見つめられると
現場での“失敗”や“トラブル処理”も 簡潔に行えるような気がする。
それには、やはり、時として、捨て去る部分を選択する決断も、必要なのかもしれない。