最近、電車の中で、ぼんやり考えていたことがあった。
「魂」と「肉体」の関係についてである。
発端は、俳優の細川俊之さんが、生前「献体」を申し出ていたことに尽きる。
有名人や著名人の方で、「献体」をされたのは数少なく、私には衝撃的だった。
献体とは、「医学の発展のために、自分を役立ててほしい」という思いから、
自身の死後の肉体(遺体)を医学部や歯学部の解剖学教室に提供することである。
その肉体(遺骸)は、力のある解剖医学者が解剖したり、医者を目指す医学生の
遺体解剖実習に利用されたりする。
細川俊之さんの遺体は、一年後に荼毘にふされて、家族のもとに帰ってくるという。
その報道を聴いた時から、とても崇高な精神性と共に、勇気ある本人の決定に
頭が下がる想いだった。
咄嗟に感じたことは、「私にはできない」という、非常に短絡的な感想だった。
それが何故なのか・・・ その時は(自分の気持ちなのに) 全くわからなかった。
献体をするということは、ご家族の気持ちも尊重しなければならない。
生前に自分の意思を家族に伝え、理解を得られないと 実現できることではない。
亡くなった後の「肉体」に、遺族はこだわりを持ち、固執することが多い。
それは、たとえ「魂」が抜けても、「肉体」にも愛情があるからだと思う。
その身近だった人の形状を成した「肉体」は、あたかも生きているかのように、
まるで眠っているかのように横たわっているがために、「死」というものを、
受け入れられないケースもある。
場合によっては、死後の「肉体」に意図を感じたり、埋葬にもこだわる人がいる。
細川さんは、家族に「自分は献体する」と伝え、何度も繰り返していたようだ。
また、知人にも、死後の自分の肉体の行先を、雑談の中にも話していたという。
もちろん、実際にも、ご本人自ら、生前に医学部に「献体」を申し出ていた。
生涯、病気と闘い、晩年の亡くなる直前まで、様々な病気とは寄り添いながら、
生きていた人だったし・・・・
その後、大阪芸術大学の舞台演出に関して講義をしていたので、そういうことも
影響したのかもしれない。
次世代の人々に、自分の足跡と想いなどを託す・・・かのような行為――。
おそらく、何らかの強い意志がなければ、「献体」などはできないだろう。
母の看病をしていた長期間中、大学病院の病室から見えたのは、献体した人々を
保管しておく建物だった。
特別な雰囲気を感じ取って、思わず「あれは何ですか?」と尋ねたのを覚えている。
その時に聴いた説明が、自分には衝撃的で、「肉体」を「貴重な財産」として、
あるいは、「実験材料」として、丁寧に扱いつつも・・・ 決して、人間としては
扱われない行程に、“切ない気持ち” を 感じてしまったのだった。
あの時の私は、とても愛していた母を看病中で、おそらく遺族の気持ちが先行し、
社会に貢献する意図など、微塵もなく・・・(無意識の内に) ・・・
献体された遺骸を、「母の存在」におきかえて想像したのかもしれない。
最近は、健康保険証にも、臓器移植提供についての意思確認の項目が増え、
私はすぐに記入することができなかった。
おバカなことだが・・・、勝手に妄想したり、いろいろなことを考えてしまって、
私としては記入するのに とても時間を要したのだった。
普通に考えれば、「Yes」か「No」で終わる質問だ。
友人たちも、何の迷いもなく、さっさと記入したと聞く。
しかし、私は、理由もわからず、ただ何となく・・・その先の行程を想像して、
自分の遺骸がどのような道をたどるのだろうか・・・果たして、どれぐらいの役に
たつのだろうか・・・・などと、いろいろと 熟考(妄想)してしまった。
そんな「魂」と「肉体」とが共に存在している「この身」について・・・
想いをめぐらしていた時だったが・・・・ 電車の中で、
突然、マイケル・ジャクソンの明るい音楽が、かすかに漏れてきた。
後ろに立っている男性からだ。
マイケルだって、彼の遺体は腐敗されない処置がほどこされ、安置されているが、
内臓や脳はすべて取り出され、検視官の手元に保管されている。
約150人が殺せる致死量のプロポフォール(麻酔薬剤)を注入された遺体だから、
検視作業は当然といえば当然だが・・・そういう事実を聞いたときは、とても
複雑な感情がぬぐえなかったものである。
屍(しかばね)と言ってしまえばそれまでだが、普通の「屍」ではない。
現在も、死因についての裁判が行われているし、彼自身の足跡もまた凄いものである。
こういう事実もまた、思考のアプローチの方向によって、印象が変わってくるものだ。
単なる「遺骸」という観点と、マイケルの「かつて肉体だったもの」という観点とは、
全く違う感情が湧いてきて、なんとなく複雑な想いでいっぱいになってしまう・・・。
世界の有名・著名な有識者の脳や臓器は、保管されていたりすることが多い。
同じように、オペラ歌手だった田谷力三さんも献体されたようだが、その声帯は、
まるで老いを感じさせない若々しく素晴らしいものだったという。
今年からはじまった私の問い・・・(堂々巡りの自分への問いかけ)・・・
「死」を迎えた人間の「肉体」は、「魂」が抜けた後に、どのような存在として
あるのだろうか・・・という問いには、まだ答えが見つかっていない。
考えなくてもよい問いだったりするし、自分にとっても早急に必要な問題でもない。
しかし、人類の仕組みや、この世の中のサイクルを相対的にとらえた際には、
私は どうしても考えたくなってしまうようだ。
過日、ホ―キンス教授が、「天国というものは存在しない」と断言したことにより、
また私の感慨は深くなってしまった。
残された人々の慰めであり、死者を弔う大事な世界である「天国らしき概念」が、
科学的見地から「存在しない」ということは、「魂」の行先も無くなってしまい(?)、
「人間は死んだ後に、どのような道程をたどるのだろうか」などと考えてしまう。
私は、心のどこかで、この世俗からいなくなった人と、また会いたい気持ちがあり、
どこかで「いつかまた会えるのではないか」という“淡い期待感”があるのだと思う。
そう感じられることで、今の気持ちは軽くなり、また次の世界での楽しみが増える。
私自身が楽になり、俗世で生き続けることに対する意識が高まることもあって・・・
そのために、この世の先の「魂がたどりつく場所」を求めているのかもしれない。
自分のためと言ってしまえば、それまでだが・・・ そうかもしれないとも思う。
とにかく、「分からないことを(分からないなりに)考えるのは無駄ではない」 と
常に感じているので、いつも電車の中で・・・ こんなことを考えているのだ。
(思考の掘り下げのための・・・一人遊びの一種というわけでもないが、
こういう傾向はあるようだ)
電車内には見知らぬ人々が沢山いるからこそ、その光景は客観的な思惑にも導かれ、
きっと多様な考えがあるのだろうなぁ・・・と、いつも結論のように感じたりする。
私自身の心は定まらなくとも、想いをめぐらしていることは、嫌な時間ではないし、
自分の「死生観」をまとめ上げる行程の一つとしては、大事な作業だと思っている。