青唐辛子を入手したので、タケシオイルに挑戦。
ただ、春に島らっきょのタレを作ってうまくいったばかりなので、ちょっと気分を変えて、醤油ベースのものと、ごま油ベースのものと、二種類作った。
正確に言うと、京都に行く前に仕込んでいたのがおそろしく辛く仕上がりつつあるゴマ油入り青唐辛子醤油から、青唐辛子だけを抜いてそこにごま油だけを入れたものと、もとの青唐辛子醤油にさらに牡蠣醤油などを足してみたのと、二本に分けてみた。醤油は左、ごま油は右、である。ごま油が濃い口なので、なんだか見分けが付かない。
ごま油だけ入っていると、タケシオイルとは言えないかとは、思う。醤油やニンニクのニュアンスもしっかり残っているはずだが、準タケシオイルと呼ぶべきか。
加熱しないで作ったが、その方が保存が利くと、石原君=タケシに教えてもらう。
まだ味見はしない。熟成を待つ。
これでもまだ辛過ぎたら、さらに分けて何か足してのばしてゆくのではないかと思う。
というか、ほんとうに尋常なく辛いのだ。
気分転換というか、辛いものは必需品、というか。
書くことに詰まると、こんなことをしてしまう。
昔のタケシオイルについての記事
↓
https://blog.goo.ne.jp/sakate2008/e/b6ed4be7fe17ffea16745b7115f38b8d
「9.11」から、二十年。
直後、アメリカは、何かしなくてはならない、と思った。21世紀の真珠湾、と思ったのだろう。どうしても何者かの命を奪い返すことでしか、この傷をあがなえないと感じたのだろう。その相手を間違えたことを認めるのには、時間がかかった。
追随した日本は、今でもその過ちを認めようとしない。世界でもっとも道理を通せない国だと証明した。
イギリスの劇作家デヴィッド・ヘアーは、イラク戦争に至る国々の混乱ぶりを戯画化しつつ、『スタッフ・ハプンズ』を書きあげ、ロンドンの国立劇場で上演した。
その劇中、日本の存在感はゼロだった。当然のことだが。
普天間飛行場から米海兵隊が放出したPFOS汚水は、国の暫定指針値の実に13倍の検出。きちんと対決できるのか。
アメリカの属国であることを望んでいる保守・愛国の人たち。倒錯の極みだ。
今の時代を、自分の時代と思って、生きているのか。
「アメリカの話」ではない。同時代の、自分たちのことだ。
写真は、『悪魔をやっつけろ』ツアー中の、ある宿で泊まった部屋のドア。十日前くらいになるかな。
燐光群が『ワールド・トレード・センター』を上演したのは、2007年。実際にあの「9.11」当日、息子の消息を求めてマンハッタンを駆け巡ったED VASSALLO自身のモノローグは、忘れがたい。トリアージの現場での体験のなまなましさは、今も胸に迫る。彼は翌年の『だるまさんがころんだ』再演にも出演してくれたが、病で世を去った。あの逞しい男がなぜ、と、何度も思う。
戯曲『ワールド・トレード・センター』は、「せりふの時代」2007年冬号/vol.46 に、掲載されている。バックナンバーは図書館等で読めるはずである。座高円寺のアーカイブスにもあるはずだ。
駅弁を買わない派の私だが、八月末、京都入りの日、品川でシウマイ弁当を買ってしまった。なんとなくそうした方がいいという予感があったのだ。
その日、ばたばたと急な事柄が入ってきて、出発が遅れた。そして、案の定、未解決のことが多々あり、京都に着いて開演前も、連絡をたくさんしなければならなかった。
シウマイ弁当を食べていなければ、そのまま何も食べず終演時になってしまっていた。勘は当たったのである。
崎陽軒のシウマイや弁当は種類が多々あって、炒飯弁当が好きな人もいるようだが、やはりシウマイ弁当が根強い人気である。マニアが身近にもいる。
シウマイ弁当といいながら、シウマイは五個しか入っていない。唐揚げ、マグロの照り焼きが入っていて、それが評判がいい。タケノコの甘煮は、賛否両論で、絶対に食べない、という人もいる。杏は微妙で、おかずなのかデザートなのか意見が割れ、いつ食べるのか、諸説あるところである。ごはんの炊き方を褒める人もいて、崎陽軒自身が醒めてもおいしいご飯だと自己宣伝もしている。
駅弁として食されるときは、バカンスの旅であれば、酒の肴として多彩なおかずが讃えられるのだろう。酒を飲まないときは、ご飯の量に対しておかずが多く、贅沢な気持ちになる。
崎陽軒は台湾に工場を持つようになったと聞くが、和製シウマイの評判はどうなのだろう。
そもそも中華料理圏の人々は、餃子やシュウマイなどの点心をおかずとしてご飯を食べる日本人を笑うのであるが、それは、おにぎりをおかずにごはんを食べるようなものだからだということだ。
ラーメンライス、お好み焼き定食、焼きそば定食は、私も気が進まない。だが、焼きそばパン、スパゲティパンになってくると、やってはいけないことをやっているという、もはや背徳感がある。パンと麺の食感が出会うところに、ソースの味とその倒錯した食感だけでわしわしとパンを食べているという事実は、必ず人を後悔させる。
と、東海林さだお風になってしまったところで、この件はこれまで。
岡山芸術創造劇場プレ事業として、ワークショップ 「戯曲のひろば」を行います。
11月21日(日)13:00 ~ 16:00
蔭凉寺 (岡山市北区中央町10-28)
概要は、以下の通り。
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“演劇に興味はあるけれど、どうしたらいいかわからない”
“そもそも戯曲ってどんなもの?”
そんな方に来て頂きたいのがこの「戯曲のひろば」です。
岡山出身の劇作家・演出家である坂手洋二氏が、戯曲の魅力や解釈などについて語ります。
お寺の本堂という日常とは離れた空間で、戯曲に触れてみませんか?
私からのメッセージは、以下の通り。
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いま、あなたの目の前にある「戯曲」と名付けられた言葉の列は、
「演劇」のために用意された設計図であり、滑走路である。
舞台で行われる営為のための幹であり、枝葉である。
俳優に必要な骨格であり、血肉である。
発される言葉のための楽譜であり、呼吸の源である。
それはある出会いの積み重ねの中で必然的に生み出された唯一無二のものでありながら、
異なる時代、場所、身体と、観客たちによって、新たに再生されることがある。
それは、奇跡の出会いを実現する、ひろばである。
詳細は、こちらを御覧ください。
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https://www.ocac.jp/event/1829/