午前中は雨が降ったりやんだりしていました。
お昼近くになって、やっと晴れてきました。
ひめちゃんは赤柴のケンくんが大好きです。
最近はちょっと逢えません。
「ひめちゃん、ケンくんに逢いに行こう
わーい、ケンくんちだ
こんにちは、お久しぶり
ちょっと挨拶して、バイバイまたね
ひめちゃんたちが住んでいるところは、中世には葛塚村だったと思われます。
葛塚村は、『角川日本地名大辞典(旧地名編)』にあります。
葛塚村(中世)
南北朝期に見える村名勢多郡山上保のうち建武元年11月27日の太田貞宗寄進状(神田孝平氏旧蔵文書/県史資料編6)によれば、「上野国山上埔葛塚村諏訪両社〈上下〉神事并灯油(等)田事」として「当保田部村新平三入道作田屋敷并葛塚村和泉房作田屋敷,源六入道跡田屋敷河ハタ田等」を「限年紀沽却」し,年紀以後は諏訪社に寄進している現在山上字諏訪に諏訪神社が鎮座し,同社は山上高光が治承年間にここに勧請したという南北朝期と推定される年未詳3月18日の宇都宮氏綱宛鎌倉公方足利基氏書状(同前)には,「大田美作孫七郎邦康申,上野国山上保内田部・蒲井・葛塚村等事,退違乱輩,全知行様ニ可有計沙汰候」とあり,大田邦康の訴えにより当地への違乱の輩を退けるよう命じられており,大田氏が当地を知行していたことがわかる長享2年と推定される年未詳3月16日の赤堀上野介宛上杉顕定書状(赤堀文書/県史資料編7)には「葛塚之要害へ佐野周防守差懸相攻之間,及防戦砌,速有合力得勝利」と見え,当地に下野【しもつけ】佐野氏が攻め入った際赤堀氏は上杉方として防戦に及び勝利したことを賞している下って,永禄10年の由良成繁事書案(由良文書/同前)は新田金山城主の由良氏と善・山上氏の関係を述べた文書であるが,「依被仰出,葛塚地お取立三ケ年差置番手,剰於号奥沢地,佐野周防守与遂一戦,得勝利後,彼両名守心易在所被致本意候」と見え,善・山上両氏は享徳の乱に上杉方についたため,公方方の佐野周防守に攻められて在所を奪われたそのため金山城主由良成繁は合力して軍を出し,葛塚の地を奪い返して両氏を入れ,3年後に佐野氏を破って旧領に復させたというこの合戦に関連のある年未詳12月18日の赤堀上野介宛上杉顕定感状(赤堀文書/群馬県古城塁吐の研究補遺上)によれば,12月14日に当地を上杉方が攻撃した時,赤堀上野介も合力して手柄を立てたとしてこれを賞している葛塚村については現在比定できる地名はないが,諏訪社の位置からみて,現在の新里村山上付近と推定される
KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
山上はもっと広かったようです。
そしてその中に葛塚村があったのです。
小次郎パパとののこねーちゃんは、今朝早く雨が降る前に、葛塚城堀之内の中心・内曲輪を歩いてきました。
地図の北東部分を歩いてきたのです。
春が来ていました
この先が内曲輪です。
現在は豚舎になってます。
道ばたの石は、葛塚城の石だと思ってました。
でも、最近は葛塚城は古墳の石を利用したのではないかと思うようになりました。
このあたりには古墳がたくさんあったようです。
古墳の石かなと思われる石があちこちにあります
塚とはお墓の事です。
葛(くず)に覆われたたくさんの古墳があるので、葛塚と言われたのでしょう。
豚舎の北にあるミーナちゃんちの庭石も、古墳の石に見えます。
ここらへんは、昔から石がたくさんあると言われていたとか。
堀之内の北限から内曲輪の西に回り込みます。
豚舎の私道にみえますけど、市道です。
石が、気になる石があります。
豚舎を脇に見て、この道の突き当たりが、堀之内の南端です。
右端に見える赤い屋根は、常広寺学園城山幼稚園(じょうこうじがくえんしろやまようちえん)です。
その向こうの森が、山上城です
追記
「中世葛塚村」関係古文書の詳しい考察は、FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」のカテゴリー「中世葛塚村考」にあります。
よかったら、のぞいてみてください