黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

二体地蔵塚(黒沼彦四郎梟首遺跡)

2019-03-23 19:18:56 | 群馬県・東毛
ひめちゃんは、小次郎パパと西の方にお散歩しました。
堀之内をでて、蕨沢川(わらびさわがわ)を渡ると、早咲きの桜が数本咲いています。





葛塚の春です。
赤城山も青く見えます。
左の建物は諏訪神社です。

諏訪神社のあたりから見た浅間山です。



今朝は、いつもよりずっと大きくみえます。




実家の墓参りに行ってきました。
国道17号線(上武道路)を下ります。
「道の駅おおた」のところで降ります。



ここは群馬県側最後の道の駅という事です。
でも、どうして「道の駅おおた」なのか、ここは旧尾島町、その前は世良田村です。

旧尾島町役場のとんがり屋根が目立ちます。



最近は抵抗感もうすれましたけど。

実家はすでになく、ルーツを辿るのは墓参だけになりました


さて墓参を済ませて、同じ道を帰ってもつまらないので、県道69号線で帰ります
69号線に出るため、道の駅の前の道を西に辿ります。

あ、二体地蔵だ、椿が咲いてる





「黒沼彦四郎梟首遺跡」の文字が目立ちます。

この前寄ったのはいつだったっけ?
花の季節には寄ってませんけど、今回は椿が咲いていました

説明板はもうほとんど読めません



太田市のHPによると、
この地蔵塚のいわれは元弘3年(1333)、鎌倉幕府が西国の乱を鎮めるため兵を派遣することになり、関東地方から臨時税を取り立てました。特に世良田には裕福な者が多いとして、他に比べて多額の税を出させるため、出雲介親連(いずものすけちかつら)と黒沼彦四郎が多勢の家来を連れて乗り込み、税を要求しました。新田義貞は法に過ぎた仕打ちであると怒り、直ちに家来に命じて出雲介を捕え置き、彦四郎の首を切って、ここにさらし首にしたということです。




『尾島町史』(通史編上巻)には、
親連と彦四郎の首を埋めた所と伝承されている。しかし、当初は一体であったようである。この場所は世良田宿の東の境目に位置し、この付近が刑場であった可能性がある。


二体地蔵の写真もありますけど、右の地蔵の台座が低いです。
左の方が背が高く見えます。

現在は同じように見えるので、右の地蔵の台座を調整したのでしょう。
なぜか、左にだけ赤いおがけがあります。

近年供養の五輪塔が建てられたようです。



碑の方が目立ちます。




北の方には、赤城山が見えます



あの山の麓に帰ります。
それなりの距離はあります。
でも不思議な村です。

お年寄りは、「新田義貞は新川の義昌寺にいかってんだ(埋葬されているんだ)」とか、「新田義貞のお屋敷は新川にあったんだ」と普通に言います。
新田生まれの人間には理解でしません

4月末に群馬県立歴史博物館が「大新田氏」展を企画しています。
楽しみにしています







コメント
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