穏やかな一日です。
ひめちゃんと獅子丸は、七海ママの昼散歩に付き合います。
みんなで、仲良く帰ってきました
おかえり
おかあさんの姿をみつけると、なぜか位置を換えます
(2018年12月13日)嵐山史跡の博物館の後、もう一ヶ所史跡をということで、平沢寺に寄りました。
国道254号線の平沢の信号を左折して道なりにいくと、平沢寺駐車場がありました。
こじんまりとして静かです。
左の参道を上ります。
本堂脇の階段を上ると平らなところがあり堂宇がありました。
何だろう?
右からのぼる参道もあります。
さっきみえた鳥居からもここに来るのでしょう。
左にまた階段があります。
階段の登り口に歌碑があります。
とこしえに このふるさとを 安らけく まもらせたまえ うぶすなの神
ということは、村社というか地域の代表的神社なのかなあ?
さらに階段を上ります。
社殿が見えてきました。
白山神社とあります。
本殿の後ろも回って見ましたが、わりとすっきりです。
右手の木立の下に、碑があります
太田資康詩歌会址とあります。
長享の乱で両上杉が対立したとき、太田道灌の息子資康(すけやす)がここに陣を置き、長享2年9月25日に詩歌会が行われたとあります
嵐山史跡の博物館のウェブサイトによれば、
1488年(長享2年)、須賀谷の戦いに伴い太田資康は平沢寺(不動)明王堂のほとりに陣を張りました。資康の父太田道灌と親交のあった五山の禅僧万里集九(ばんりしゅうく)は戦いのさなか陣を訪ね、白山神社社頭にて詩歌絵画催されました。『梅花無尽蔵』は、漢詩文集で、須賀谷の戦いや当時の平沢寺の様子をよく伝えています。
太田資康詩歌会址の碑を見付けたことに満足して、説明板が見つからないことが気になりませんでした
赤い椿が咲いていました。
中腹のお堂前に降りて、元来た道を辿ってしまいました
もう1本の、たぶん鳥居に降りる方を辿るべきでした
帰宅してからいろいろ検索すると、説明板もあったはずですが、出逢えませんでした
かつての平沢寺は広大な寺領を有し、七堂伽藍と多数の僧房が並んでいたといわれます。
ここの西側の丘陵から見つかった「鋳銅経筒」は、畠山重忠の曾祖父重綱がかかわったといいます。
あまり好きではないの古典『徒然草』ですが、学校で習ってしっかり覚えている段が思い浮かびます。
仁和寺のある法師は、年をとるまで石清水八幡宮を参拝したことがありませんでした。
あるとき思い立って一人で出かけました。
麓の極楽寺とか高良神社に参拝して満足して帰ってきました。
「それにしても、みんななんで山を登るのか?気になったけれど石清水八幡宮に詣でるのが趣旨なので行かなかった。」といったそうだ。少々のことでも、先達(案内人)はあったほうがいい。
こんな内容だった思います。
吉田兼好は「山までは見ず。」「先達はあらまほしきことなり」と表現しました。
何故か記憶に残っています。
今回はまあ山はみたけれど、見落としがいっぱいあったようです。
下調べも不十分でした。
また来なさいということかな?
また、そのうち捲土重来を期まーす