黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

嵐山紀行番外編総集編・畠山重忠公史跡公園

2019-11-28 20:10:44 | 嵐山紀行

すっきりとしない朝でしたけど、雨の心配はなさそうです。

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を西に出て、諏訪神社の向こうの高台を歩いてきました。

赤城山は、その姿をはっきりと見せています

ここには、懐かしいサイロがいくつもあります。

ブロッコリー畑のそばを通ります。

ブロッコリー畑の向こうには、榛名山が見えます

榛名山の南側に見えるはずの浅間山は、その姿を確認できません。

獅子丸が、落ちているブロッコリーの葉っぱを食べ始めました

起用に両手(前足)を使って、おいしそうに食べます

ひめちゃんは、全く関心を示しません。

獅子丸は軸の部分を食べきると、やっと動き出しました

 

 

2018年12月18日

うぐいすの瀬から満福寺の駐車場に戻ります。

まもなく、畠山重忠公史跡公園に着きました。

畠山重忠ではなく、畠山重忠公なのです

地元の人々にとって誇りなのですね。

 

まずやはりこの像が目に入ります。

「こんにちは、お久しぶりです

嵐山の菅谷館跡の穏やかな重忠像とはまったく異なります。

鵯越(ひよどりごえ)の時、愛馬を背負って崖を下りたというシーンですね。

 

像の周りを回って、カルタに気づきました。

かわもと郷土かるたが3枚もあります。

この前来たときはなかったような?

 

畠山重忠公の墓と説明板があります。

畠山重忠公墓並館跡とあります。

鎌倉時代の関東武士を代表する武将である畠山重忠公は、長寛二年(1164)秩父庄司重能の二男として、現在のこの地の畠山館に生まれ幼名を氏王丸と言い、後に畠山庄司次郎重忠となった。

剛勇にして文武両道にすぐれ、源頼朝に仕えて礼節の誉れ高く県北一帯の支配のみならず、伊勢国沼田御厨(三重県)奥州葛岡(岩手県)の地頭食を兼ね、鎌倉武士の鑑として尊敬されたが、頼朝なきあと北条氏に謀られて、元久二年(1205)六月二十二日に二俣川にて一族とともに討たれた。

とあります。

 

畠山重忠が生まれたのはここなのですね

 

重忠の父重能は、大蔵合戦で秩父重隆とその婿・源義賢を討ち、やがて大蔵館に移ったと言います。

菅谷館(嵐山史跡の博物館付近)は大蔵館から近くです。

源義賢の子・2歳の駒王丸は、斉藤実盛が信濃へ逃がします。

駒王丸は後に木曽義仲となるのです。

やがて駒王丸と実盛は悲しい対面をするのです

 

 

五輪塔群はかなり大きいです。

人の背丈と比べると大きさが見当がつきます。

 

おじさん、ちょっと邪魔

でも、大きさがわかります

 

配置図があります。

そうすると、左の大なのが伝・畠山重忠の墓ですね

配置図の1.2.3です。

配置図の5、6はかなり古く感じられます。

 

なんだか笠懸天神山(群馬県みどり市)の凝灰岩みたいです

 

館跡ということで、わずかに土塁の跡が残り説明板もあります

 

重忠の産湯の井戸です。

菅谷館と畠山館の関係が少しわかりました

最後にこの方にご挨拶します

さようなら、そしてまた逢いましょう

 

 

 

コメント
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