雨の残る朝でした。
ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内の西の方を歩いてきました。
すっきりしない、案外蒸し暑い一日でした。
以前は、2人は、天神田(字天神の田んぼ)を歩いた後、ケンくんちによく寄ってました
去年の今頃、ケンくんちに寄った2人です
タバサねーちゃん、積極的だったんだ
史跡・鏡田(かがみだ)の説明板に、「名馬・摺墨(するすみ)の遺体は祝昌寺に葬られ、その一部は駒形神社にもある。」と記されていました。
では、摺墨の記憶を訪ねて、駒形神社と祝昌寺に行ってみましょう
まず、駒形神社です
(訪問は令和3年2月21日です。)
明るい神社です
駒形カルタ?
西暦1648年、東善(ひがしぜん)より数戸引っ越し、駒形新田として町を形成し、日吉山王を氏神とした。
宝永七年になって、戸数も増加し小屋原泉蔵寺(せんぞうじ)より駒形明神をもらい受け、これを氏神とした。
町の形成は江戸時代の初期ですか
約50年後、宝永7年(1710)になって、駒形明神を小屋原の泉蔵寺からもらったのですか
牛頭天王獅子頭の説明板です。
駒形町は江戸時代に藩主酒井氏の命令で町づくりがはじまったといわれる。しかし、大勢の人を寄せて町づくりを行うことは決して容易なことではなかった。そこで、駒形住民統合の象徴として、この牛頭天王を祀り住民の団結を図ったといわれる。
「江戸時代に藩主酒井氏の命令で町づくりがはじまった」のですね
なるほど、新しい町づくりは大変ですね
駒形明神をあげちゃった泉蔵寺はどうなったのでしょう?
そのうち行ってみましょう
明るい境内です
右の狛犬です。
左の狛犬です。
比較的新しいかな?
手水社には、馬です。
駒形神社ならではですね
ここにも神社の由緒があります。
境内は馬蹄形をなし源頼朝の愛馬の蹄と伝えるものが御神体の一部にある。勧請年月は元亀元年と伝えられる。「上野国郡村誌」
神仏混淆時代は小屋原町の天台宗泉蔵寺に属していたが、慶安年間(1650)頃東善養寺阿(現前橋市東善町)より数戸この地に移転以来漸次戸数が増加により社殿を改築し別当「山伏修験本明院」を設け駒形の氏神とした。社殿は宝暦七年(1757)に改築したが・・・・・・(後略)・・・・・
落ち着いた色合いですけど、読みにくい
華やかな社殿で、2礼2拍1礼で参拝です
元気はつらつ、青龍です
あら、獅子も青獅子
元気はつらつです
マスクをした神馬もいます。
走るときは外さないと、酸欠状態になっちゃうよ
社殿の裏の廻ると、双体道祖神があります
近くから移動してきたという説明があります。
仲良く手を取り合ってます
宝永2年(1705)の年号が見えます。
社殿の改築(宝永7年)より古いんですね
社殿裏には、たくさんの石殿・石造物です。
本殿はさっぱりしています
さて、神社前の神主さん宅で、御朱印を頂きます
ふと、駒形神社オリジナルの御朱印帳が気になりました。
「馬の絵ですね」
「はい、拝殿の天井絵です。ご神体に馬の蹄があるのです」
「そうですか。では、この御朱印帳いただきます」
この御朱印帳、もったいなくてまだ使ってません
(2023.03.05投稿、2023.07.13改訂)