黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

野州小俣の城主のこと、付けたり、越後勢小俣攻めの事・その 2

2025-01-04 20:20:23 | 桐生老談記の世界

明けましてお目出度うございます

本年もよろしくお願いします

 

2020年1月の黒柴家族です

 

 

 

 

則ち萩田備後守私用ありて上州膳の城に来たり。

この席に小俣の遺恨晴らすべき由を、膳城主備中守宗次に語り蹴れば、宗次血気の若者なれば、萩田備後守に勧めて曰く、幸いこの度は相模守小田原へ参上いたし、若侍はみな御共なれば、老若男女の類いばかりにて、悉く無勢なり。忽ちに取りかかり候べし。某も一方承まわらんと云いければ、備後おおいに喜び、手勢八十騎に膳の家人百三十騎、都合二百騎にて、頃は天正十一年四月二十日早旦に、膳の城を打ち立ち、小俣に押し寄せける。さて、笠懸野北の橋にて勢を合わせ、備中守は大手、備後守は搦手にこそ向かいたり。



あらすじです。
萩田備後守は、私用があって、上州膳の城に来ました。
備後守は小俣の遺恨を晴らしたいと、膳の城主・備中守宗次に語った。
宗次は、血気さかんな若者だったので、「今がチャンスです。渋川相模守は小田原に行っていて、残っているのは役に立たない老人や女子どもです。早速やってしまいましょう。私も助太刀します。」と、勧めました。
備後守はおおいに喜んで、手勢八十騎に膳の家人百三十騎、合計二百騎で、天正11年4月20日朝早くに、膳の城を出発して、小俣に向かった。
そして笠懸野の北の橋で軍勢を分けて、備中守は大手、備後守は搦手にそ向かいました。


萩田備後守は、上杉の武将でした。
私用で、佐野から膳まで80騎も連れて行くなどという事は、考えられません
小俣の遺恨は永禄7年(1564)、今は天正11年(1583)、20年も前の出来事です
小俣の遺恨の内容は語られていません
それも家来同士の争いのようです。
主人が20年も恨み続けるって、いったい何があったのでしょう。


膳備中守宗次は、いとも簡単に「やっちゃいましょう。城主が小田原に行っていて留守だから。」なんて言ってます
戦国の領主としては、いかがなものでしょうか?

先代因幡守の時も、妹夫婦の仇討ちとして桐生氏と戦い敗れています。
先代膳因幡守が、諏訪の森に集結し馬煙を立てて出撃したのは、天文13年(1544)7月15日朝でした。

山上城の北、蕨沢川の向こうに諏訪神社があります。


諏訪の森がどこだかはっきりわかりませんけれど、まあこの近所と考えて良いでしょう

助太刀の膳備中守さんが大手、主役の萩田備後守が搦手とは、主客転倒です

 

 

初稿  2020.03.12  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2025.01.04

 



( 野州小俣の城主のこと、付けたり、越後勢小俣攻めの事   終 )

 

 

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