黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

太田貞宗寄進状・その6(建武元年11月27日)

2024-06-04 08:37:16 | 山上保の物語・総集編

昨日の夕方は、激しい雷雨に見舞われました

ひめちゃんは、雷鳴を聞いて少し短めのお散歩で切り上げておうちに入れてもらいました。

昨夜は、タバサねーちゃんも一緒におうち犬です。

タバサねーちゃん、もうじき16歳です

 

5年前の今頃、七海ママはまだ健在でした

2004年の6月生まれのママは、15歳になったところです。

もてもての熟女で、雄犬はみんな、ひめちゃんよりママに挨拶しようとしました

末っ子のひめちゃんは、いつもママと一緒でした

もうじき、もう1名の末っ子・獅子丸が帰ってきます

 

 

 

597 太田貞宗寄進状
    ○神奈川県 鎌倉中央図書館所蔵神田孝平氏所蔵文書

寄進
 上野国山上葛塚村諏訪両社上下神事幷燈油等料田事
右、當保田部村新平三入道作田屋敷幷葛塚村和泉坊作田屋敷、源六入道跡田屋敷河ハタ田等、限年紀沽却訖、年紀以後、所寄進當社也、以件得分、神事料田不足之時、且令勤行祭祀、且可備當社燈油也、為祝管領可勤彼役也、乃寄進状如件、
     建武元年十一月廿七日
        前美作権守貞宗 (花押25)

 

太田貞宗寄進状は未来の約束でした。


どうして、建武元年11月27日に出さなければならなかったのでしょうか
限年紀沽却が終わってからでは、どうして間に合わないのでしょう?

建武元年前後のことを確認します

まず建武元年(1334)の前の年、元弘3年(1333)の出来事です


5月8日、新田義貞が生品神社で挙兵しています
5月22日、稲村ヶ崎から鎌倉に攻め入り、鎌倉幕府は滅亡します。
この時、自刃した北条高時の遺児亀寿丸は、諏訪に逃れます
6月5日、後醍醐天皇帰京、建武の新政が始まります

論功恩賞は公家に厚く、実際に戦った武士にはうすいものでした
論功にみあう土地を与えられない武士達は不満を抱きました
そして新しい盟主として足利尊氏がクローズアップされてくるのです

10月20日、鎮守府将軍・北畠顕家は義良親王を奉じて陸奥国多賀城に向かいます。
12月14日、足利直義は、成良親王を奉じて鎌倉に向かいます。


建武元年(1334)
北条の残党による蜂起や政権内のごたごたで、世の中落ち着きません

11月15日、後醍醐天皇は護良親王を足利直義に預けました。
11月27日、太田貞宗寄進状が書かれました
旧暦なので今のこよみだと、年末あたりです
赤城おろしが冷たい、冬の収穫物も何もない時に書いたのです


建武2年(1335)
相変わらず北条の残党による蜂起が繰り返されています
7月14日、中先代の乱(なかせんだいのらん)が勃発します
諏訪神党・諏訪頼重らが北条時行(北条高時の遺児亀寿丸)を擁して信濃国に挙兵、鎌倉に攻め寄せます
7月23日、足利直義は、護良親王を殺害して西奔します
7月25日、北条時行は鎌倉を占拠します


こう眺めると、諏訪が目立ちます

太田さんがこの2・3年どういう風に振る舞ってきたか分かりませんが、今現在は山上(やまがみ)の主(あるじ)のようです
政権に公認されているようです
山上の主は寺社を押さえる必要があります
寄進するから言うことを聞きなさいと言います

山上の諏訪神社は、諏訪の諏訪大社を勧請したものです。
諏訪での動きが気になったかもしれません

 

太田貞宗寄進状から、鎌倉末期(元弘3年)の上野国山上の支配者は、太田貞宗です。

藤姓足利氏の山上氏ではありません。

上野国山上から、山上六郎左衛門が新田義貞に従って鎌倉責めに行ったとは考えにくいです。

新田16騎の山上六郎左衛門が実在だとしても、上野国山上が彼の故郷とは考えにくいのがわかります。

 

 

初出 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 カテゴリー 中世葛塚村考

改稿 2024.06.04

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