ひめちゃんは、ケンくんが大好きでした
5年前の8月、七海ママもまだ健在です
ひめちゃんは、ママのお散歩にもよく同行しました。
ある日、向こうからケンくんがやってきます
ひめちゃんは大喜びでしたけど、ケンくんは、ママの方に行ってしまいました
2004年6月生まれのママは、15歳でした。
いくつになっても、モテモテ熟女の七海ちゃんでした
2通目の上杉顕定書状です
上杉顕定書状(赤堀文書)
葛塚之要害へ佐野周防守差懸相攻之間、及防戦砌、速有合力得勝利、敵手負死人数多、至于御方も同然、其動心地好感悦候、於向後も無油断、現形成候、不移時刻、可被加力候、周防守事後御方之由 上意、然而如斯慮外之揺、不思議之次第候旨趣、
言上之所、断而可被成御咎之段、被仰出候、恐々謹言
三月十六日 顕定(花押)
赤堀上野介殿
(『群馬県史資料編7』)
まず上杉顕定(うえすぎあきさだ)です。
上杉顕定は、室町時代後期から戦国時代に架けての武将・守護大名。山内上杉家11代当主。越後上杉家の出身で山内上杉家を継ぎ、関東争乱期の40年以上にわたって関東管領を務めた。(ウイキペデイア)
では、上杉顕定はどこを拠点にしていたのでしょう?
それは鉢形城(はちがたじょう)です
上杉顕定は1478年から亡くなるまでの32年間、鉢形城を拠点としていました。
顕定が亡くなった後も、憲政までの70年間は、関東管領上杉氏の持ち城だったと考えられます。
(中略)
1546年の川越夜戦において北条氏康に大敗を喫し、同族の扇谷上杉氏が断絶するほどの痛手を負いました。
この戦いで上野国平井城に撤退したことで、鉢形城は関東管領の拠点としての機能を失ったと考えられます。
(鉢形城歴史館HP「鉢形城主上杉顕定」)
書状の確認です
葛塚之要害へ佐野周防守差懸相攻之間
葛塚の要害とは、葛塚城のあたり、山上城の北東・諏訪神社の東、堀之内付近でしょう
山上城からみたら、大河ではない蕨沢川(天神川)があるくらいで、あとは田んぼと豚舎で、とうてい要害の感じはありません
ところが東をみると、さもありなんという感じなのです
ひめちゃん達は、時には堀之内の東の牧場あたりに足を伸ばしました
牧場の中を鏑木川が流れています。
ここは数年前、この牧場の主・アキラさんが足を滑らせて亡くなった場所です
こんな雰囲気の深い険しい場所がずっと続きます
その向こうには、険しくはないけれど越えなければ東の町・大間々に出られない山々があります
深い川は何本も走り、高低差のある田畑住宅地牧場があります
攻めにくいのです
さほど険しい所まで歩いていませんが、ひめちゃんたちと歩くだけでも、「要害」を味わえます
佐野周防守差懸相攻之間
この佐野周防守は、多くの歴史家が桐生佐野氏としています。
桐生の本町はまだありませんから、北の柄杓山城(ひしゃくやまじょう)麓あたりに館があったと思われます
車だと30分くらい、馬でもさほどかからずにやってきます
ちょっと高台に登り、山道を越え、険しい川を越えなければならないけど
大間々方面から来ると、かなりの上り坂なのです
「差懸」とは、さしかかる、さしせまるの意です。
「相攻之間」、この部分のキーワードは「攻」です。
佐野周防守が攻めてきたのです
「相」は動詞について婉曲を表します。
「間」は「~なので」くらい意味でしょうか。
「葛塚の要害に佐野周防守か攻めてきた」ので、どうしたのでしょう?
及防戦砌、速有合力得勝利
「砌」は、「みぎり」はおり・ころ・その場合・その時、つまり及防戦(防戦に及んだ時)
「速有合力」、「速」は速やかに、「有合力」とは協力して一緒に戦ったのでしょう
赤堀上野介は迷わず上杉顕定方として駆けつけ、佐野周防守と戦ったのです
そして勝利を得たのです
敵手負死人数多、至于御方も同然
「数多」は「あまた」、敵(佐野周防守)方はけが人や死者が多数出た。
「至于御方も同然」、御方に至りても同然(みかたにいたりてもどうぜん)、つまり、御方にも負傷者や死者がたくさん出たということです
其動心地好感悦候、
「其動」、「動」は「働」と同じと『群馬県史資料編7』には、註があります。
「そのはたらき」とは、葛塚の要害で佐野周防守を撃退した働きです。
「心地好」、「心地好く」、それはそうでしょう、気分いいですよね
「感悦候」、「候」は丁寧で「~です」「~ます」。
活用語の連用形に接続します。
そうすると「感悦」を活用語とすると、「感悦なり」です。連用形は「感悦に」です。「感悦候」は「かんえつにそうろう」です。
「感悦」は非常にうれしことです。
赤堀上野介の働きを、関東管領上杉顕定はとても喜んでいます
葛塚が荒れ果てて、「後閑の地(こかんのち)」になっていく序章です
現在のひめちゃんちのあたりは、山上の後閑(ごか)です
最近、後閑・薬師堂のたくさんの五輪塔の残骸は、「もしかしたら、この長享の乱・序章の葛塚の要害の戦いでの戦死者のものだったのかも?」、なんて気もしてます
ここの墓地は、現在よりずっと広かったと古老は言います
初出 FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」 カテゴリー 中世葛塚村考
改稿 2024.06.14
(つづく)
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