黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

綿打郷の牡丹寺・大慶寺

2019-04-22 22:11:59 | 群馬県・東毛

ひめちゃんは獅子丸と、堀之内の西をお散歩しました。



小次郎パパ&タバサねーちゃん&ののこねーちゃんが、おとうさんを連れて追い越して行きました。
赤城山といい雰囲気でコラボしていた桜は、葉桜になりつつあります。
でも、黄色い菜の花が満開です




昨日、旧新田町にある牡丹寺・大慶寺に行きました。
何度かいってますけど、いつも満開を過ぎてしまいます
今回は間に合うかも

県道69号線を下り、途中で1本西の道に出て、また下ります。
新田暁高校のすぐ南が大慶寺です。





別世界に入っていくような真っ赤な山門です
山門には、真っ赤だけれどいやみのない感じの仁王様がいます。

この山門の右手に、綿打入道太郎為氏(わたうちにゅうどうためうじ)館跡のポールがあります。



綿打入道太郎為氏は、『新田町誌基礎資料第八号・村々の沿革と地図』に「新田氏一族・大館家氏の長男が当地に住して綿打入道太郎為氏と称し綿打姓を名乗る。」とあります。
また、御朱印とともにいただいた資料にも、「南朝の維持に尽力を尽くした綿打太郎為氏の館が建てられ」とあります。
新田義貞の挙兵に加わったのですね。

ここは綿打郷(わたうちごう)だったのです。
すぐ裏の新田暁高校(にったあかつきこうこう)は、その昔は「綿打の女学校」と呼ばれていたのです

参道を直進して、まず不動堂に参ります。
牡丹祭りの期間は、お不動様がご開帳になります。





平安末期の作と云われ、鎌倉時代に入り新田氏の守不動とされ、その信仰は厚くそのために義貞の戦死を知るやその死を惜しみ泣いたと云うわれ、別名泣き不動というそうです。


牡丹園の入園料300円を払って、牡丹園に行きます。
鐘楼堂の前に説明板があります。



永暦元年、源義平「悪源太」の歿後その妻が父新田義重を頼り世良田郷に住み後綿打郷に移り義平の冥福を祈ると共に菩提を弔うため出家して妙満尼となり一庵を結びました。したがって妙満尼を大慶寺の開基とし山号を妙満山と申します。その後綿打入道為氏の館となり、明徳五年空覚上人を小俣の鶏足寺(けいそくじ)より迎え館跡を寄捨し大慶寺を建立しました。

源の頼朝の兄・悪源太義平の奥さんがここで庵を結んだのですか

御朱印受付で御朱印を頼んで、牡丹園の散策です。











今年は間に合いました
みんな今を盛りと咲いています



ヒメシャガ、けっこうきれいです

本堂の裏にも、藤棚がありました。



ピンクの牡丹にピンクの藤もいいですね。


受付に寄って御朱印をいただきます。



妙満尼は、新田義重の娘・祥寿姫(しょうじゅひめ)です。
彼女は世良田の清泉寺(せいせんじ)も庵を結んだということです。
さざえ堂(祥寿山曹源寺)は、彼女の菩提寺だそうです。
彼女はいくつもこの世に生きた証を残していったのですね






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