黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

天正元年三月十二日に桐生七代繁栄一時に亡ぶるなり(桐生合戦の事、木村、岩下、広瀬、山越討ち死にの事、付けたり、桐生落城の事・その 5)

2024-09-27 21:04:06 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんは、赤柴の超老犬・プーちゃんの前を通って、堀之内の西を歩いてきました。

プーちゃん、ひめちゃんのパパ&ママと同世代だと思いますけど。過酷な酷暑を生き抜きました。

 

2019年の秋、ぬいぐるみを大切にするタバサねーちゃんと獅子丸です。

タバサねーちゃんのこのヌイグルミ、まだお外のサークルで生存中です。

このころは、小次郎パパもまだ元気で、ののこねーちゃん&タバサねーちゃんの娘2人と3名でよくお散歩していました。

 

 

 

桐生合戦の事、木村、岩下、広瀬、山越討ち死にの事、付けたり、桐生落城の事・その 5


親綱には津布久と前原を召し連れられ、軍(いくさ)の中場(なかば)に金沢山の麓に忍び給い、其の日の暮れ方に及んで貝沢に懸り給いて、佐野に落ち給いし事、世常の謗(そしり)もはずかしきことなり。

この日はいかなる日ぞや、天正元年(癸酉みずのととり、1573年)三月十二日に桐生七代繁栄一時に亡ぶるなり。



あらすじです。

桐生(柄杓山)城主親綱は、津布久と前原を連れて、戦の最中に金沢山の麓に密かに脱出し、その日の夕方、桐生川の向こうの貝沢(皆沢)に渡って、佐野に落ちていった事は、世間に恥ずかしいことです。

この日は、いったいどんな日だったんでしょうか?

それは、天正元年(1573)3月12日、桐生家七代の繁栄があっけなく滅んだ日でした。



本来ならば、城主は最後まで陣中指揮を取るのでしょうけど、桐生(柄杓山)城主親綱は逃げたのです

そのルートは、県道66号線です

桐生市梅田町から梅田湖(桐生川ダム)を通り、皆沢(かいざわ)を通り、山道の悪路を佐野に向かいます
道なりに行けば、佐野氏の居城・唐沢山城付近に出ます


数年前、唐沢山城からの帰りに、このルートを逆に来ました

梅田湖は近年に桐生川をせき止めてできたもので、湖底にはたくさんの人家やら何やらが沈んでいます。


親綱の頃は、桐生川を渡ったのです。
渡った先は、皆沢です
あの足利忠綱終焉の地という皆沢です


2018年10月、梅田から皆沢八幡宮に行きました。
皆沢はかつては下野の国だったはずですけど、今は桐生市です

 

足利忠綱もここから上野に逃れ、山上の龍奥までたどり着いたかもしれません。

足利紀行総集編・足利忠綱終焉の地?(皆沢八幡宮)

 

この山道は、上野と下野を結ぶ道なのです

桐生から佐野に行く、また逆に佐野から桐生に来るには、この山道を行くことは普通の選択肢であるようです

 

 

初稿  2019.09.06

改稿  2024.09.27

 


「桐生合戦の事、木村、岩下、広瀬、山越討ち死にの事、付けたり、桐生落城の事」 終

 

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