黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

ひめちゃんちの春椿コレクション

2019-03-24 20:00:23 | 日記
今朝、ひめちゃんはライバル(だと勝手に思っている)ミーナちゃんに2度逢いました。
一回目は、堀之内の北限あたり、恋の季節まっただ中のミーナちゃんは、シッポを思いっきり振って小次郎にご挨拶
パパもシッポを思いっきり振ってご挨拶
ひめちゃんは戦闘態勢でしたけど、出番はありませんでした。

堀之内を西に回って庚申塚古墳に出ます。
おや、向こうからミーナちゃんがやって来ます。
「戦闘態勢だな
ミーナちゃんのおとうさんに言われました。
ところが彼女は、素知らぬ風で通過してしまいました
さっき十分挨拶したので満足しているのでしょう。

ひめちゃんちのある堀之内は、昔は大字山上(おおあざやまかみ)の一部です。
お散歩していると、忘れられた石造物がけっこうあります。
最近は、薬師如来が目に付きます。
庚申塚古墳の石造物に、薬師如来はあるかな?
ミーナちゃんを見送って、古墳の石造物を眺めてみます。



ちょっと薬師如来はなさそうです。
このあたりは塚越(つかごし)で、堀之内の南になります。





今朝は冷え込みました。
裏の家の白くきれいに満開だった木蓮も、一夜にして黄変、いや茶変しました。
椿にもちょっときつい朝です。
ひめちゃんちにも、遅咲きの椿が咲き始めています。

やっと咲いた玉の浦(たまのうら)です。




お名前知れずです。




以下3名はちょっと遅霜の影響を受けてしまったようです。










もしかして状態が良ければ、絞りがもっとはっきり出るのかも知れません。




けっこう大木になっていっぱい花を咲かせてくれます。




大分大きくなりました。
コロンとかわいい花です。




基本的に一重が好きです。
何かこだわりがあって、お迎えしたのだと思いますけど、忘れました。




桜を一枝
何種類か植えましたけど、一番先に咲きました




水仙も今を盛りと咲いています。

水仙といいコラボです。







こだわりも月日が流れると忘れて、でも咲いてくれてありがとう












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二体地蔵塚(黒沼彦四郎梟首遺跡)

2019-03-23 19:18:56 | 群馬県・東毛
ひめちゃんは、小次郎パパと西の方にお散歩しました。
堀之内をでて、蕨沢川(わらびさわがわ)を渡ると、早咲きの桜が数本咲いています。





葛塚の春です。
赤城山も青く見えます。
左の建物は諏訪神社です。

諏訪神社のあたりから見た浅間山です。



今朝は、いつもよりずっと大きくみえます。




実家の墓参りに行ってきました。
国道17号線(上武道路)を下ります。
「道の駅おおた」のところで降ります。



ここは群馬県側最後の道の駅という事です。
でも、どうして「道の駅おおた」なのか、ここは旧尾島町、その前は世良田村です。

旧尾島町役場のとんがり屋根が目立ちます。



最近は抵抗感もうすれましたけど。

実家はすでになく、ルーツを辿るのは墓参だけになりました


さて墓参を済ませて、同じ道を帰ってもつまらないので、県道69号線で帰ります
69号線に出るため、道の駅の前の道を西に辿ります。

あ、二体地蔵だ、椿が咲いてる





「黒沼彦四郎梟首遺跡」の文字が目立ちます。

この前寄ったのはいつだったっけ?
花の季節には寄ってませんけど、今回は椿が咲いていました

説明板はもうほとんど読めません



太田市のHPによると、
この地蔵塚のいわれは元弘3年(1333)、鎌倉幕府が西国の乱を鎮めるため兵を派遣することになり、関東地方から臨時税を取り立てました。特に世良田には裕福な者が多いとして、他に比べて多額の税を出させるため、出雲介親連(いずものすけちかつら)と黒沼彦四郎が多勢の家来を連れて乗り込み、税を要求しました。新田義貞は法に過ぎた仕打ちであると怒り、直ちに家来に命じて出雲介を捕え置き、彦四郎の首を切って、ここにさらし首にしたということです。




『尾島町史』(通史編上巻)には、
親連と彦四郎の首を埋めた所と伝承されている。しかし、当初は一体であったようである。この場所は世良田宿の東の境目に位置し、この付近が刑場であった可能性がある。


二体地蔵の写真もありますけど、右の地蔵の台座が低いです。
左の方が背が高く見えます。

現在は同じように見えるので、右の地蔵の台座を調整したのでしょう。
なぜか、左にだけ赤いおがけがあります。

近年供養の五輪塔が建てられたようです。



碑の方が目立ちます。




北の方には、赤城山が見えます



あの山の麓に帰ります。
それなりの距離はあります。
でも不思議な村です。

お年寄りは、「新田義貞は新川の義昌寺にいかってんだ(埋葬されているんだ)」とか、「新田義貞のお屋敷は新川にあったんだ」と普通に言います。
新田生まれの人間には理解でしません

4月末に群馬県立歴史博物館が「大新田氏」展を企画しています。
楽しみにしています







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新川広間地(にっかわひろまち)の薬師様

2019-03-22 20:37:50 | 群馬県・旧勢多郡
きょうだいが養子に行ってしまった直後の、ひめちゃんと七海ママです。



まだ、真っ黒くろすけです。
ジャンプ力はもうすでにあったみたいで、ミニドッグランにあったベンチにのってます
ママも高い所が大好きですけど、ひめちゃんも好きなようです。


月日は経って、いつの間にか色白になりました。



見返りひめちゃんです。
椿&ひめの最近の姿です。




ひめちゃんちの近所には薬師堂があります。
もともとは、獅子丸家が一族だけで運営していたということです。
あるとき、疫病がはやりました。
村人に「混ぜてください。」と言われて、今のように近隣で運営するようになったということです。



薬の壺を持った薬師様がいます
真ん中の赤い帽子とおがけの方は、どなたかわかりません。


新川の広間地(ひろまち)にも薬師堂があるというので、出かけてみました。
新里保育園の安養寺の脇を通って、南に下ります。

しばらく行くと、右手に墓地が見えます。



「村指定重要文化財 広間地の石造薬師如来と観音菩薩像」とあります。

おや、ごたぶんにもれず首のない六地蔵でしょうか?
でも、とっても小さいです。



正確には4体は首がないけど、2体には首が付いています。
後ろに回ると、それぞれに○○童子とあり、日付があります。



何かいわれがあるのでしょう。

さて、肝心の薬師様と観音様はお堂の中です。
扉の金網が破れていたので、穴からカメラでちょっと失礼します



わあ、凝灰岩製だ
白く柔らかそうです。

薬師様・薬師如来像は斜めに割れています。



自然にというより、人為的に割られたような印象を受けました。
廃仏毀釈の嵐が吹き荒れていた頃でしょうか?

右に文字が消えてしまった説明板があります。

中央はお地蔵様で、左が観音様・観音菩薩像です。



観音様はご無事だったようです。
実物はもっと素敵でした。

ここは、凝灰岩の産地として有名だった笠懸天神山も近いです。


合掌


お堂の周りを眺めます。



浅間山が見えます(右上の隅に映っています)。

和尚さん独特の形のお墓もあります。



ということは、ここにはお寺があったんでしょうか?


さて帰ろうかとしたところに、軽トラでおじいちゃんとおばあちゃんがやって来ました。

「墓参りかい?」

「いいえ、こちらの薬師様に会いに来ました あのう、和尚さん独特のお墓があるんで、もしかしたら昔ここにお寺がありましたか?」

「あったよ。安養寺だよ。安養寺はここにあったんだよ。しばらく無住で、今は線路の向こうに引っ越しちゃったけどね。ちょうどあの鉄塔のあたりにお堂があったんだよ。」

「ありがとうございます。そうだったんですか。」

さっき通ってきた安養寺は、ここにあったのです
2kmくらいかな、北に移動したのです。




振り返って、改めて合掌です








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中世葛塚村

2019-03-21 21:23:21 | 群馬県・旧勢多郡

午前中は雨が降ったりやんだりしていました。
お昼近くになって、やっと晴れてきました。
ひめちゃんは赤柴のケンくんが大好きです。
最近はちょっと逢えません。
「ひめちゃん、ケンくんに逢いに行こう

わーい、ケンくんちだ



こんにちは、お久しぶり



ちょっと挨拶して、バイバイまたね







ひめちゃんたちが住んでいるところは、中世には葛塚村だったと思われます。
葛塚村は、『角川日本地名大辞典(旧地名編)』にあります。

葛塚村(中世)

南北朝期に見える村名勢多郡山上保のうち建武元年11月27日の太田貞宗寄進状(神田孝平氏旧蔵文書/県史資料編6)によれば、「上野国山上埔葛塚村諏訪両社〈上下〉神事并灯油(等)田事」として「当保田部村新平三入道作田屋敷并葛塚村和泉房作田屋敷,源六入道跡田屋敷河ハタ田等」を「限年紀沽却」し,年紀以後は諏訪社に寄進している現在山上字諏訪に諏訪神社が鎮座し,同社は山上高光が治承年間にここに勧請したという南北朝期と推定される年未詳3月18日の宇都宮氏綱宛鎌倉公方足利基氏書状(同前)には,「大田美作孫七郎邦康申,上野国山上保内田部・蒲井・葛塚村等事,退違乱輩,全知行様ニ可有計沙汰候」とあり,大田邦康の訴えにより当地への違乱の輩を退けるよう命じられており,大田氏が当地を知行していたことがわかる長享2年と推定される年未詳3月16日の赤堀上野介宛上杉顕定書状(赤堀文書/県史資料編7)には「葛塚之要害へ佐野周防守差懸相攻之間,及防戦砌,速有合力得勝利」と見え,当地に下野【しもつけ】佐野氏が攻め入った際赤堀氏は上杉方として防戦に及び勝利したことを賞している下って,永禄10年の由良成繁事書案(由良文書/同前)は新田金山城主の由良氏と善・山上氏の関係を述べた文書であるが,「依被仰出,葛塚地お取立三ケ年差置番手,剰於号奥沢地,佐野周防守与遂一戦,得勝利後,彼両名守心易在所被致本意候」と見え,善・山上両氏は享徳の乱に上杉方についたため,公方方の佐野周防守に攻められて在所を奪われたそのため金山城主由良成繁は合力して軍を出し,葛塚の地を奪い返して両氏を入れ,3年後に佐野氏を破って旧領に復させたというこの合戦に関連のある年未詳12月18日の赤堀上野介宛上杉顕定感状(赤堀文書/群馬県古城塁吐の研究補遺上)によれば,12月14日に当地を上杉方が攻撃した時,赤堀上野介も合力して手柄を立てたとしてこれを賞している葛塚村については現在比定できる地名はないが,諏訪社の位置からみて,現在の新里村山上付近と推定される
KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

山上はもっと広かったようです。
そしてその中に葛塚村があったのです。


小次郎パパとののこねーちゃんは、今朝早く雨が降る前に、葛塚城堀之内の中心・内曲輪を歩いてきました。



地図の北東部分を歩いてきたのです。
春が来ていました




この先が内曲輪です。
現在は豚舎になってます。



道ばたの石は、葛塚城の石だと思ってました。
でも、最近は葛塚城は古墳の石を利用したのではないかと思うようになりました。

このあたりには古墳がたくさんあったようです。
古墳の石かなと思われる石があちこちにあります
塚とはお墓の事です。
葛(くず)に覆われたたくさんの古墳があるので、葛塚と言われたのでしょう。

豚舎の北にあるミーナちゃんちの庭石も、古墳の石に見えます。



ここらへんは、昔から石がたくさんあると言われていたとか。

堀之内の北限から内曲輪の西に回り込みます。



豚舎の私道にみえますけど、市道です。
石が、気になる石があります。

豚舎を脇に見て、この道の突き当たりが、堀之内の南端です。



右端に見える赤い屋根は、常広寺学園城山幼稚園(じょうこうじがくえんしろやまようちえん)です。
その向こうの森が、山上城です


追記
「中世葛塚村」関係古文書の詳しい考察は、FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」のカテゴリー「中世葛塚村考」にあります。

よかったら、のぞいてみてください

 

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獅子丸家の真実(ご先祖様のああ勘違い)・その2

2019-03-20 20:38:57 | 獅子丸な日々

朝、ひめちゃんは小次郎パパと堀之内を北に出て、諏訪神社の西を帰りました。
ひめちゃんはまだ恋の季節ではなかったようです。
成長するに従って、恋の季節の証拠を隠します。
パパの反応が一番わかりやす証拠です。

恋の季節といえば、先日ポメラニアンのミーナちゃんが、獅子丸家から出て行くのに出くわしました。
「どうしても寄って行くと、言うこときかなくて」と、ミーナちゃんのおとうさん。
ミーナちゃんは恋の季節まっただ中です。

獅子丸くん、よかったね



今換毛中で、モコモコ状態です。
ほんとはもっといい男ですよ
赤ちゃんの頃は巨大だった獅子丸は、さほどの巨漢にもならず、まあ普通の柴犬の大きさです。
小次郎パパの方がはるかに大きいです。
獅子丸はパパが苦手です。




獅子丸家のご先祖は、常広寺(じょうこうじ)の開基・本橋院殿寶輪廣誉大居士(ほんきょういんでんほうりんこうよだいこじ)です。
そして、彼の俗名は山上郷右衛門顕将(やまかみごうえもんあきまさ)だといいます。
小田原からやって来たと伝わり、家紋の裏紋は三つ鱗です。
そして、北条から嫁が来たともいいます。

ええ


伝承しかありませんけど、獅子丸家はこのあたりでは一番古い家です。
それはほとんどの人が認めているところです。

ひめちゃんや獅子丸が住んでいる葛塚の要害の地は、関東管領と古河公方が衝突する紛争地域でした。
その後もさまざまな勢力に蹂躙されて、こかんの郷(荒れ果てた土地)になってしまったのです。

世の中が収まって最初にやって来たのは、獅子丸家の人々でした。
戦乱で無くなった人々の霊を弔うため、山上城の鬼門に常広寺を建てました。



自家は葛塚城の鬼門に長安寺を建てました。
(山上城から北東に数百mで葛塚城です。)
ここには以前にも寺があったようなので、再興というべきかもしれません。


戦国武将・小田原北条家家臣山上郷右衛門は、上野国、特に東上州を動き回りました。
郷右衛門は、小田原城開城後北条氏直に従って高野山に行っています。
その後、徳川家康に使番(伝令将校)として使えたと言います。

なぜ晩年山上の地にやって来たのか?

山上はいまだに全国の山上さんがルーツの地としてやって来ます
もしかしたら郷右衛門さんもご先祖の地と勘違いして、この地に執着を持っていたのかもしれません。

小田原からやってきて帰農した山上さんは、ご先祖様の戒名にちなみ改姓しました。
山上の山上さんであることが、何か煩わしさをもたらしたのでしょう。

父祖の地と勘違いして、こかんの郷にやって来た獅子丸家もあれから400年、誇りと伝承をのみ残して、最後の一人になっています












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