黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

里見兄弟最期の事、付けたり、越後勢帰国の事、同落城の事

2024-11-21 16:17:46 | 桐生老談記の世界

今日はお日様も出て、昨日よりかなり暖かくなりました

昼間は、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、ひなたぼっこをしながら、お外のお部屋(サークル)で過ごしました。

2022年の2月、タバサねーちゃんと、里見兄弟の墓がある高津戸の阿弥陀堂に行きました。

そのころのお出かけ大好きで元気なタバサねーちゃんです

丸々としたタバサねーちゃんの密生していた毛は、酷暑と加齢で大分抜けてしまいました

筋肉も落ちて、痩せてしまいました

でも、自己回復能力がまだあったのです。

秋風が吹いて、いつの間にか白柴に戻ってます

筋肉も戻ってくれるといいのですけど

タバちゃん、三四郎おじちゃんの17歳と1ヶ月より長生きしようね

 

 


『桐生老談記』 新しい章です。
里見兄弟最期の事、付けたり、越後勢帰国の事、同落城の事

去る程に、兄弟は思いのままに働き、城内へ引き退きみれば、味方の三十人ばかり討たれ、殊に弟兵四郎勝安深手負い、十八日のあけぼのに終に相果てけり。

随見大きに力を落とし、弟を先に立て、いつの時にか期すべきと思い、正木大蔵を以て紀伊守へ使者を立てられ、その向上にいう、某兄弟ただいま自害仕り候、依って随い来る越後勢早速に道を開き、御返し給うべき旨申し越しければ、

紀伊守早速に了承あるによって、随見喜び、遺状を認め、越後勢に謙信公の御方へ届け給うべき旨を頼む。

さてまた諸軍勢に向って、最後の盃くだされ、事終わる。またこの度の厚心、生々世々の御高恩、受けし謙信公の御前へ宜敷頼み存じける。早速に礼儀をなし、最後の規式を整え、其の日の巳の上刻に切腹なされけり。平山伊之助御介錯申し、大貫長順丸と平山は続き腹をぞ切にけり。正木大蔵御首を給わりて、御孝養を問い給い、扨て蔵を開き財宝を諸勢に配分して、午の刻に各々城を出られて暇乞、越後表を催し愁い給うはことわりなり。

かくて寄せ手は城に火をかけ、勝ち鬨を作りて帰陣なられけり。

そもそも随見勝平は天文二十年辛亥(1550)三月二十九日、仁田山の城に出生して、天文六年戌寅九月十八日、二十八歳にて卒す。舎弟平四郎勝安天文二十三年甲寅秋出生日知れず。天文六今まで二十五歳にて卒す。寔(まことに)惜しき武者かなと、諸人袖をしぼりけり。


あらすじです。

養命の城に攻め込んで、思いっきり戦って、里見兄弟は高津戸城に引き上げました。
帰ってみると、味方の内30人ばかりが討たれ、特に弟兵四郎勝安が重傷で、翌朝18日の明け方死亡しました。
兄の随見は落胆して、正木大蔵を使者にして藤生紀伊守に伝えました。
「私はこれから自害します。応援に来てくれた越後勢早速に道を開き、越後に御返しください。」と。
藤生紀伊守は了承したので、随見は越後勢に謙信への報告を頼みます。
外の人々とも別れの盃をかわします。
そして、準備を整えその日の巳の上刻(御前10時ごろ)切腹します。
平山伊之助が介錯し、大貫長順丸と平山は続き腹を切りました。
正木大蔵は首をもらって供養を担当し、蔵を開いて財宝を諸勢に配分し、午の刻(お昼頃)には、みんな城を出ました。
寄せ手の由良勢は高津戸城を焼き払い、勝ち鬨を上げながら帰りました。
里見随見勝平は28歳、弟兵四郎勝安は25歳でした。
「まことに惜しい武士であった」と人々は涙を流しました。



あっけない里見兄弟の最期です
無茶をして、空振りの仇討ちでした

父の敵・石原石見とは、一戦も交えていません


最近まで、この話は本当にあった事と、人々は信じていました。
でも、現在はおおいに疑問符のつく話とされます
大間々町の「大間々博物館(コノドント館)」でも、以前は里見兄弟の仇討ちのビデオを見せていました
現在では見せていません。


高津戸城の南、阿弥陀堂に、里見兄弟の墓があります



説明板には、老談記とは違う事が書かれています


『桐生老談記』の里見兄弟の話を、整理しておく必要がありそうです

 



(  里見兄弟最期の事、付けたり、越後勢帰国の事、同落城の事   終  )

 

初稿  2019.12.20   FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.12.21

 

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養命の城夜討ちの事、付けたり、敵味方討ち死にの事

2024-11-19 17:32:24 | 桐生老談記の世界

寒い寒い朝です。

赤城山は、うっすらと初冠雪です

 

2019年の12月は、名胡桃城や小川城などの北毛を探訪していたようです。

この頃の、寒さにもめげずにお散歩したひめちゃんと獅子丸です。

本日のひめちゃんとタバサねーちゃんは、午前中赤堀の「小菊の里」に行ってきて、昼間はお外のサークルで過ごしました。

床暖マットを2枚にしました。

あまりの寒さにシニア・ハイシニアの姉妹は早めに夕方のお散歩を済ませて、早々と室内犬です

 

 



養命の城夜討ちの事、付けたり、敵味方討ち死にの事

去る程に、里見兄弟は手合わせの合戦に打ち勝つというとも、大勢にかこまれ、千に一つも勝つべき様なし。

この上は逆さ寄せにして敵陣を押し切り、思いのままに働き、討ち死にをして名を末代に留めんと、百騎の勢を三手に分け、唯一っさんに押し寄せる威勢の程こそいさましけれ。

頃は九月十七日、夜に入手、養命の城に押し寄せ、三方の責め口より打ち破り、時を作って込めいれば、大いに驚きあわてさわいで、勢の疲れたる武者なれば、同士討ちする人多かりける。

藤生、金谷は早鐘をつかせ、夜討ちあるぞ、たいまつを出せと呼ばわり下知なせば、味方もこれに力を得て、半時ばかり戦いけり。

寄せ手は無勢の事なれば、終には城を追い出し、暫く息ぞつぎにけり。

さて俄(にわか)のことなれば、手負い、死人おびただしく、引田善八、渥美又兵衛、嶋田文五郎、藤沼源右衛門、板橋竜右衛門、稲垣源次郎、薗田彦六、木村縫殿之介、大沢丑之介、此れ等を始めとして、両家の軍勢八十三人、里見兄弟の為に討ち死にしたりけり。



あらすじです。

高津戸城では、由良の軍勢を撃退しました。
けれども、状況は千に一つも勝てそうにありません。
このうえは逆に敵陣に押しかけ、思う存分奮戦して、名を末代に残そうと、百騎を三つに分けて養命の城に押し寄せました。
その様子は本当にいさましいものでした。
9月17日の夜、養命の城に押し寄せ、三方の攻め口を破って鬨の声を上げながら、攻め入りました。
中の人々は、驚いて大混乱になり、みんな疲れていたので、同士討ちをする人々が多かったのです。
大将の藤生・金谷は早鐘をつかせ「夜討ちだ、たいまつを出せ。」と大声で指示したので、味方は力を得て、半時ばかり戦いました。
寄せ手は少数だったので、ついには城から追い出し、ようやく一息つきました。
急なことだったので、けが人や死人がたくさん出ました。
引田善八、渥美又兵衛、嶋田文五郎、藤沼源右衛門、板橋竜右衛門、稲垣源次郎、薗田彦六、木村縫殿之介、大沢丑之介、これらを始めとして、両家(桐生・新田)の軍勢82人が里見兄弟の為に討ち死したのです。



「討ち死にをして名を末代に留めん」とは、戦国時代の武士の価値観ではありませんね
一所懸命、所領を確保するために、みんな戦ったのです
それに、相手は桐生と新田からやってきた由良の軍勢です

確か父の敵は石原石見(いしはらいわみ)でした。
石見は養命の城に住んでましたけど、里見兄弟が討ち入ったときは足利に逃げ去っていました
どうして石原石見の所に押しかけないのでしょう?
高津戸から足利まではさほどの距離ではありません。

何か不自然な結末を迎えようとしています

兄弟の父は甲州の人で、武田信玄に領地を取られ浪人して桐生にやって来ました
そして、仁田山の城を任されたのです
浪人が城主になるなんてことは、普通ではありえないことです


けれども、小川可遊斉(おがわかゆうさい)は、浪人から上州月夜野の小川城の城主になりました
なんとなく、里見兄弟の父・里見入道(里見パパ)のモデルのように感じます
2019年12月、月夜野の小川城に行ってきました

後家の英断?(月夜野小川城)



『桐生老談記』では、桐生親綱に愛想をつかして去って行く人々の中に、「上泉・小川」が出てきました
上泉は上泉伊勢守信綱、小川は小川可遊斉だと思われます
まあ、彼らが桐生親綱に仕えるはずはないのですけど
作者は、小川可遊斉を知っていたのです

 


( 養命の城夜討ちの事、付けたり、敵味方討ち死にの事   終  )

 

 

 

初稿  2019.12.17  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.11.19

 

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高津戸合戦の事、勝安和睦を願う事、付けたり、両勢討ち死にの事、此に寄せ手引退く事・その2

2024-11-16 17:55:07 | 桐生老談記の世界

薄ら寒い曇りの一日でした

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、一日中おうち犬です。

まだ11月なのに、これからずっと室内犬ではヤバイ

晴れたらなるべく、お外のお部屋で過ごしましょうね

 

高津戸城西側の写真を探していたら、2022年2月、お散歩の途中でケンくんに出会った、ひめちゃんとタバサねーちゃんがいました

2人でケンくんに迫って、濃厚接触です

ずっと一緒にいたかったけれど、恋路の邪魔がやってきたようです

 

 

 

高津戸合戦の事、勝安和睦を願う事、付けたり、両勢討ち死にの事、此に寄せ手引退く事・その2

当陣中とも聞きわけて、引くべきというものもあり、また是れ程に催し後日の程も計り難し唯打ち破らんというものもあり、異議まちまちにて一定ならざる所に、

抜け懸けの勢、東の責め口より木戸板もぎ越し、引き払い、時を作って乱れ入れば、城にも岩石を落とし懸け、矢鉄砲を打って軍(いくさ)最中になりにければ、

寄せ手の内より新田勢、長嶋外記、板橋小一郎、岩下織部、半田久六を始めとして、両寄せ手の内より名ある人々十三人、上下三十余騎、目の前に討たるれば、

藤生、金谷も驚き、少数とあなどりて味方の名折れをしでかしたりと、引き太鼓を打って両陣を一所に集め、養命の城に引きこもり、人馬の足を休め、今日より軍評定して居たりけり。養命の城に皆集まりけり。

 

 

らすじです。

新田勢・桐生勢ともに、勝安の主張を聞いた。
納得し引き上げるべきだという者、後日の愁いをなくすため殲滅するべきだという者がいて、意見がまとまらなかった。
そのうちに、東の攻め口から木戸を破って侵入したものがあった。
城でも石を落としたり、矢や鉄砲を撃ったりして軍になってしまった。
寄せ手のうち寄せ手の内より新田勢の長嶋外記・板橋小一郎・岩下織部・半田久六を始めとして名ある人々十三人、上下三十余騎が目の前で討たれてしまった。
大将の藤生・金谷も驚きいて、「少数とあなどりって味方の名折れをしでかしてしまった。」と、引き太鼓を打って両陣を一所に集め、養命の城に引きこもった。
人馬を休め、作戦会議をした。
みんな養命の城に集ったのであった。


 

高津戸城の北と東から、由良勢は侵入したのです。

高津戸城の西には渡良瀬川が流れます。



地図を見ると、なんとなく北と東から、本丸跡(要害神社)へ行けそうな気もしますけど


高津戸城西の渡良瀬川の流れです。

石を落とすのは、こちら側の方が効果が大きいように思えます

 

 

初稿  2019.12.13

改稿  2042.11.16

 




( 高津戸合戦の事、勝安和睦を願う事、付けたり、両勢討ち死にの事、此に寄せ手引退く事  終 )

 

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高津戸合戦の事、勝安和睦を願う事、付けたり、両勢討ち死にの事、此に寄せ手引退く事・その1

2024-11-13 20:17:16 | 桐生老談記の世界

穏やかな朝です

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内を西に出ます。

タバサねーちゃんは、早々に用を足して帰ります。

ひめちゃんは、天神田を歩いてきました

路地ナス畑の収穫は終わったようです。

ナスって、収穫時期の長い野菜です。

最近は、田んぼがナス畑にもなっています。

 

2019年11月の黒柴家族の写真を整理中です。

みんな元気にお散歩しています。

 

獅子丸とひめちゃんは、諏訪神社の向こうの高台をよく歩きました

高台にブロッコリー畑がありました。

最近は、ここは草に覆われて道がなくなり、侵入不可です

獅子丸は、収穫で切り落とされた葉っぱに食いつきます。

ひめちゃんは、興味を示しません。

獅子くんは、ゆでたブロッコリーも、もちろん大好きでした

 

実家に帰って半年、15歳半の七海ママの昼散歩によく付き合いました。

ママも、末っ子たちとのお散歩を楽しんでいました

 

 

 

 

高津戸合戦の事勝安和睦を願う事、付けたり、両勢討ち死にの事、此処に寄せ手引退く事・その1

タイトルが長すぎる


去る程に、高津戸の城にも兼ねて用意の事なれば、同じく時をぞ合わせけり。

桐生勢の中よりも荒巻式部、大谷勘解由、常見讃岐、この三人手勢を引いて抜けがけして北責め口より時を作りて押し上りけれども、城内は静まりかえって見えける。

勝安物見へ上り大音声、「これは定めて桐生、新田よりの御出陣にて候べし。我等年久しく他国いたしたれども、故郷なつかしくぞんじ、わずかに住居を構え罷りある所に、何ん人の讒言を以て大勢をもようし給うものや。我ら別してご両家へ向って、野心も御座なく候えども、この陣を引き給え」と理(ことわり)を尽くして和睦を申しければ、

 


あらすじです。


高津戸城のほうでも、かねてからの用意であったので、鬨(とき)の声を上げた。
桐生勢の中からも荒巻式部・大谷勘解由・常見讃岐の三人は、手勢を引いて抜けがけして、北の攻め口から鬨の声をあげながら責めのぼった。
けれども城内は静まりかえっているようだった。
里見勝安は物見台に上がり大音声をあげた。
「これは桐生と新田からの御出陣でしょう。私たちは、長い間他国にいましたけれど、故郷を懐かしく思って、ちょっと居住しているところです。いったいだれの讒言で、こんな大軍でおいでになったのでしょう。、私たちはけっして桐生・新田の両家に野心などありません。この陣をお引きください。」とことわりを尽くして、と和睦を願ったところ、

 

 

鬨の声をあげると言うことは、戦う気があるんですよね
でも、何故か城内はシーンとしています
桐生勢の中からも荒巻式部・大谷勘解由・常見讃岐の三人は、抜け駆けをして、北から責め登ります
そんな中、里見勝安は物見台に上がり大音声をあげたのです
「故郷を懐かしく思って、ちょっと居住している」戦国時代にそんな発言が通るはずはありません
いくら野心はないと言たって
でも、作者は勝安の発言に「理(ことわり)を尽くして和睦を申しければ、」といいます
物見台はどこにあったのかなあ


高津戸城趾・現代の物見台(観光地図の右下Pのあたり)下にある、高津戸城付近の略図です。



周辺に桜並木があります
そのうち、桜の季節にも行ってみましょう

渡良瀬川右岸、桜に囲まれた菊は、ながめの菊です。

余興場もあって、菊の季節の土日には、寄席も上演されます。

ここはとてもながめの良い場所です

ただし、ここら辺は、犬の入場お断りです

 

 

 

初稿  2019.12.10

改稿  2024.11.13

 

 

(つづく)

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桐生渡良瀬川の境なる、ままの下に陣を取り(国重公立腹の事、付けたり、軍評定勢揃いの事・その2)

2024-11-11 20:51:21 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、最近おうち犬していることが多いです

でも、今日は晴れて暖かくなりました

昼間は、テラスのサークルで過ごしました

 

5年前の11月、七海ママの昼散歩に付き合う、末っ子のひめちゃんと獅子丸です。

獅子くんが帰ってきて、ママもうれしかったね

獅子丸は、ひめちゃんともタバサねーちゃんとも、仲良くお散歩できてました。

過酷な環境の養家生活を7年もしてきたのに、素直な明るい子に育ってくれました

 

 


国重公立腹の事、付けたり、軍評定勢揃いの事・その 2


藤生紀伊守大将にて、関口尾張、茂木右馬之丞、荒井主税、伊藤左近、荒巻式部、福田権三郎、大谷勘解由左衛門、風間将監、須藤帯刀、佐下橋右近、森下長左衛門、岩下織部、岩水喜太郎、飯塚又五郎、籾山太郎左衛門、常見佐貫、箱島右馬之助、半田久六、安田将監、江原与右衛門、片山重蔵、中里若狭、鹿貫将監、彦部加賀、宮寺左近、斉藤丹後、伊藤右京、伏嶋出雲、津久井左京、野村彦八、福島勘解由、柳田縫殿、大沢牛之介、薗田彦六、須永八蔵、内田兵庫、稲垣源九郎、峰岸志摩、垣上半五郎、堀越内造、木村縫殿このほか宗徒人々四十一騎、上下三百二十余人、養命を向城に捕りて新田勢これを待ち居たり。
同後陣、金谷稲葉守を大将にて、丸橋越前、高橋丹後、金井田伝吉郎、岡田石見、引田善八郎、斉藤鉄之助、木村伊豆、渥美又兵衛、同源五左衛門、戸崎源三郎、安藤次郎介、松井平之丞、寺崎小兵衛、織田久五郎、飯島外記、板橋戸市郞、岡野真三郎、堀越茂左衛門、高山平六、板庭与市郎、生方隼人、藤波京右衛門、中根倉之助、小林虎之助、河上民部、小泉左京、芝山大介、薗田彦七郎、井上出羽、鈴瀬藤九郎、織田兵右衞門、滝野田辰介、宮木市市十郎、鈴木新之丞、芝山兵部、大塚半蔵、木戸弥次郎、久永図書、此等を先手として、名ある人々三十八騎上下三百余人、阿左美村を過ぎて桐生渡良瀬川の境なる、ままの下に陣を取り、桐生勢と調子合わせて鬨(とき)の声をぞあげたりけり。



あらすじです。

桐生勢は、藤生紀伊守が大将で、

関口尾張、茂木右馬之丞、荒井主税、伊藤左近、荒巻式部、福田権三郎、大谷勘解由左衛門、風間将監、須藤帯刀、佐下橋右近、森下長左衛門、岩下織部、岩水喜太郎、飯塚又五郎、籾山太郎左衛門、常見佐貫、箱島右馬之助、半田久六、安田将監、江原与右衛門、片山重蔵、中里若狭、鹿貫将監、彦部加賀、宮寺左近、斉藤丹後、伊藤右京、伏嶋出雲、津久井左京、野村彦八、福島勘解由、柳田縫殿、大沢牛之介、薗田彦六、須永八蔵、内田兵庫、稲垣源九郎、峰岸志摩、垣上半五郎、堀越内造、木村縫殿このほか主立った人々41騎、全部合わせて320余人が、養命の砦を向城(むかいじろ)として接収し新田勢を待った。
後陣は金谷稲葉守を大将にて、丸橋越前、高橋丹後、金井田伝吉郎、岡田石見、引田善八郎、斉藤鉄之助、木村伊豆、渥美又兵衛、同源五左衛門、戸崎源三郎、安藤次郎介、松井平之丞、寺崎小兵衛、織田久五郎、飯島外記、板橋戸市郞、岡野真三郎、堀越茂左衛門、高山平六、板庭与市郎、生方隼人、藤波京右衛門、中根倉之助、小林虎之助、河上民部、小泉左京、芝山大介、薗田彦七郎、井上出羽、鈴瀬藤九郎、織田兵右衞門、滝野田辰介、宮木市市十郎、鈴木新之丞、芝山兵部、大塚半蔵、木戸弥次郎、久永図書、等を先手として、名ある人々38騎と上下あわせて300余人が、阿左美村を過ぎて、渡良瀬川の境である「まま」に陣取って、桐生勢と調子合わせて鬨(とき)の声をあげたのだった。


たくさんの人名が出てきます
でも、自分と同じ名字の人が出てきたら、読者は喜んだ事でしょう
その必要もあって、こんなにクドクド人名をあげるのかな?

由良の軍勢は、桐生と新田から、攻め寄せたのです

桐生勢は、あの養命の砦、里見兄弟の敵・石原石見がいた所に陣取るのです

新田からきた軍勢は、「まま」に陣取ります。
「まま」とは、どこか
ここらへんで「まま」というと、旧大間々町役場の上の崖をいうようです

2019年の3月、高津戸城跡から見た風景です。

黄色系のアートがある崖が、大間々の「まま」といわれている所です
左にあるおおきな建物が、旧大間々町役場(現みどり市大間々庁舎)です。

養命の砦(永明寺)まで、車で10分とはかからないでしょうけど、一緒に鬨(とき)の声をあげられるかな

 

 

初稿  2019.12.07  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.11.11

 



( 国重公立腹の事、付けたり、軍評定勢揃いの事   終 )

 

 

 

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