大学の第二外国語はロシア語だった。
べつに選ぶのに何の考えもなかった。
ただ今は米ソ二大国の時代だからロシア語をやっておけばなんかの役に立つのでは?と思ったくらいである。
まったくものにならなかった。
成績はどん尻。
今となっては、なんの役にも立たない。
ただロシア語のアルファベットが読めるくらいである。
その後、独学で学んだフランス語のほうがよほど実用的だ。
フランス企業相手の仕事もちらほら手掛けたので、少しは役に立っている。
語学というものは、もちろん学ぶ本人の意志と努力も重要だが、環境というものが大きい。
その点、日本は不利である。
ネイティブの日本語に訳せないものはそのまま表現してしまうカタカナという魔法の文字を持っているからだ。
これで、外国語を学ばなくても、外国の事象はほぼ分かってしまう。
海外ではそうは行かない。
だからちょっとしたホテルのコンシェルジュや駅の案内係で7か国語くらい話せる人はざらにいる。
日本人はまねはできないだろう。
しかし日本人のように、世界各国の事情に通暁している国民も珍しい。
カタカナのお陰である。
日本人のノーベル賞受賞者が授賞式の席上で「私は英語が苦手でして」と話した有名な逸話がある。
日本では外国語ができなくても世界レベルの学術研究ができてしまう。
どちらがいいか分からない。
小寒に葉の無き木々の哀れなり 素閑
小寒の塵捨てに飛ぶ鴉かな 素閑
小寒の伊豆にありけり祖母と孫 素閑
いずれまた会おうと夜の小寒や 素閑
小寒や明日は税の期日なり 素閑
ありあはせ小寒の膳ととのへり 素閑
小寒の井の水淡く雲うつす 素閑
小寒の霜の杣道きつね追ひ 素閑
逃げ通すことならぬ夢小寒や 素閑
小寒の冷や飯と汁あさげかな 素閑
家囲む小寒の寺老松や 素閑