天明4年9月30日に菅江真澄がこの地を通過している。239年前だ。海士剥について以下の紀行文を残している。これは『齶田濃刈寢』に書かれている。
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あまはぎという河には仮橋がかけられていた。この河は水が少なく、砂が流れるような河だが、渡ろうとして足を入れれば、沼田のように足を深くとられ、命を落とす旅人も大勢いた。もし渡るなら、地元民の案内で越すべきだ。また、このような橋をかけわたすこともあると、親切な人が教えた。塩を焼くところがあったので、
"もしほやく 海士のとまやの 夕けふり たつをしるへに 宿やからなん"
という句を残している。
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1800年の子吉郷の分限帳に海士剥には6軒の家が記されていて、薬師堂村の枝村の浜分としてオサ袋と海士剥が記載されている。いずれも石高ゼロであるので、海士剥では塩を炊いていたと思われる。または川渡しに携わっていたのかもしれない。
お伊勢参りの旅日記にアマハギの川を渡るのにおんぶして渡してもらう記載が残っていて13文だったという文を読んだ事がある。
17世紀の古地図に海士剥川の北に1里塚のマークがあるのでおそらく、現如上人も同じ場所で休憩して説法しているところからこの地が1里塚だと思う。
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